2016年11月02日

イングマル・ベルイマンの『野いちご』は「わかりやすい映画」なのか

イングマル・ベルイマン監督の『野いちご』(※1)を学生のとき以来、久しぶりに再見した。双葉十三郎先生も傑作と認める本作は、ベルイマンの作品群の中ではわかりやすいと言われることが多い。実際に私もかつて鑑賞記録として認めていた映画ノートを繰ってみたら、同じように「『処女の泉』よりもわかりやすい」と書いていた。

はたとそこで考え込んでしまったのは、「わかりやすい映画」とは何かということだ。
わかりやすければ良くて、わかりにくいとダメなのか。わかるとは誰がわかることを言っているのか。そもそもわかるとは理解するという意味なのか、あるいは平易で筋が追いやすいということか。
こうした問いは、「映画とは何か」という地中奥深くに潜んだ疑念の水脈に楔を打ち込む行為に他ならず、ここでこれ以上掘り進むつもりはない。換言すれば、地中に埋めておけばいい代物であって、わざわざ噴出させて流れ出すと、あっという間にせせらぎが渓流になり、やがては手に負えない洪水のような川の流れを作ってしまう。
要するに、映画をわかりやすいかどうかで分類することは全くのナンセンスなのである。
映画とは鑑賞するものであり、鑑賞とは体験である。体験とはその時空に身を置くことであり、身を置くことは五感プラスアルファによって受けとることに他ならない。ならば、わかるとかわからないとか言うのは、五感を通じた知覚のうちの一部分のことであって、その部分だけで全体を断定するのは、自らの体験能力を否定することに等しい。
平凡な言い方になるが、映画そのものに身を委ねることが肝要なのであって、解釈や批評は所詮、体験が終わった後で自らの受けとめ方を振り返る作業でしかない。後になって何かをこねくり回すより、体験自体に価値があることは言うまでもない。

ネットで『野いちご』について語られているのを見ても、「わかりやすい」の分類からアプローチされることが多い。その結果として、作品評価を強引に予定調和的帰結へ追いやる傾向があるようだ。曰く「頑固な老人が車での旅を通して、義娘や若者たちと触れ合い、ついには心を開き人生の安寧を発見するに至る」云々。
かつて本作を「暖かな作品」と評していた私を含め、こういった感想があまた見受けられるのは、「ベルイマン=わかりにくい」という先入観が支配的だからだろう。──いつもは難解なベルイマンの映画なのに『野いちご』に限っては「わかりやすい」ように見える。その「わかりやすさ」とはたぶんこういうことなのだろう──。類推が邪推を呼び、映画の本質とは離れたところでひとつの完結した固定観念が作られてしまう悪い例であったと思う。
あらためてベルイマンの『野いちご』を再見したところで、いま一度フラットな姿勢で向き合ってみたい。もう学生ではなく歳をとった自分が、映画に身を委ねて、どのような映像体験をし、それをどう受けとめたかを素のままに振り返ってみよう。

あらすじはこんな具合である。
老教授イサクは、ルンドにある母校での名誉博士号授与式に招待される。当日の朝、悪夢を見たイサクは、家政婦が準備してくれた飛行機を断り、車でルンドに行くと言い出す。息子の嫁であるマリアンヌが同乗して出発したイサク。旅の途中でイサクは、かつての別荘を訪ね、ヒッチハイクの若者たちを乗せ、高齢の母親を訪ね、罵り合う中年夫婦と知り合う。ルンドでの授与式を終えた夜、若者たちから祝福の歌を贈られたイサクは、ベッドの中で今日の出来事を書き留めておこうと思うのだった…。

『野いちご』の最大の特徴は、主人公イサクの視点による夢や幻想のシークエンスがところどころで差しはさまれることである。
まず最初は出発前の朝方に見る悪夢。誰もいない街路。針のない時計。押し潰されたような顔の男が振り返ると同時に倒れて液状化する。馭者のいない馬車。車輪が街灯の支柱に引っかかって、積まれていた棺が投げ出される。その中にはイサク自身が納められている。
やや露出オーバー気味に撮られた画面が、馬の蹄の音以外はほとんど無音の中で投影される。この不気味な感じは映画の冒頭に置くには、あまりに違和感が強い。イサクが遠くないうちに死ぬということを、本人は知っているし恐れている。そんな主人公をいきなり虚空に放り出す導入部は、まるで観客を拒否しているかのようである。

次は、旅の途中でかつてイサクが子ども時代に過ごしたことがある別荘に立ち寄るシークエンス。ここが『野いちご』の中で最も印象づけられる場面で、現在のイサクが老人の姿そのままに、自分が若かった過去に立ち入っていく。場面設定と登場人物は過去のもので、イサクだけが現在を生きており、ひとつの画面にふたつの時制を同時に並存させたところに、老いることと過去を思い出すことのギャップが強調される(※2)。
画面は光に溢れ、イサクの家族や親戚たちはみんな明朗な人たちばかり。その中でイサクの婚約者で従妹のサーラだけが嘆き悲しんでいる。イサクを「いい人」だと言いながら、実は気持ちと身体はイサクの弟のジークフリードに惹きつけられているからだ。サーラが告白する場面にイサクは老人になった今、初めて立ち合う。けれども、その結果はイサクもわかっている。現在のサーラはジークフリードと結婚し、六人の子供を産んで幸せな老後を迎えているのだから。過去に迷い込んだイサクは、朗らかな女学生の声で現在に連れ戻される。彼女の名前もまたサーラなのだった。

ローマに行きたいというサーラとそのボーイフレンドたちをイサクは気軽に同乗させる。運転をマリアンヌに任せ、助手席でまどろむイサク。夢の中に入ったイサクは、サーラと弟の仲睦まじい暮らしを覗き、医学の公開試験で不合格となり、妻が知らない男といるのを見る。冒頭の悪夢とは違った居心地の悪さは、絞り込んで陰影を強調した画面の深みのせいだ。影の部分が真っ黒になった映像からは、粘りつくような不快さが伝わってくる。それに加えて、旅の途中で出会った罵り合う中年夫婦がイサクの夢の案内人としての役割を担うので、舵取りを安心して任せる気にならない。果たしてイサクは最も見たくないはずの妻の密通現場まで目撃することになる。まどろみは、イサクの気を休めるどころか、ささくれを作って逃げ去っていくのである。

これらの夢や幻想のシークエンスとは反対に、車での旅は極めて平易に描かれる。単純な切り返し、腰から上のミディアムショット、抑揚のないカッティング。ヒッチハイクの若者たちは信仰について議論するが、それは彼らの日常の一側面に過ぎない。女学生のサーラは二人のボーイフレンドのどちらと結婚するかを選ぶ立場にあり、たぶんどちらを選んでも彼女の幸せは保証されている。そんなサーラがイサクに抱く好意は掛け値なしに本物である。
一方で、若者たちとのドライブを楽しむイサクは、誰からも好かれる好々爺のように見える。実際にイサクは、故郷の村では尊敬を集め、ガソリンスタンドの主人が子どもが生まれたらイサクと名付けると言うほどなのだ。イサクは、家政婦と口論しても、名誉博士号授与式に出席しても、人生経験に富み少し気の利いた老教授として映し出される。イサクに偏屈で狭量なところはほとんど見えない。
ところが、一転してイサクに最も親しいはずの家族の視点からは、イサクは全く別の人格として抉られていく。イサクは、決して好々爺などではない。人に興味を持たない冷たく孤独な精神の持ち主であり、自分の人生だけを生き他者との交流を拒絶するエゴイストなのである。夢と幻想のシークエンスでは、世間から隔絶し孤立したイサクが心象風景化され、また、妻からはイサクが妻の不倫自体に興味を持たないことを見抜かれる。車の旅においてもイサクは義娘のマリアンヌに、かつて彼女に向かって吐き捨てた自身のつっけんどんな言葉を思い出させられる。マリアンヌの夫すなわちイサクの息子が子どもを作ることを許さないのは、イサクの存在自体に絶望しているからだと非難されるのだ。
普段の暮らしではすれ違う他人と他愛のない会話をしながら社交的にふるまうことが出来るイサク。ところが、家族だけになった途端に、決して誰をも受け入れない、酷薄で氷のような偏屈者であることが露見する。余所では見せないイサクの本当の姿は、観客も見ることは出来ない。ただ、イサクと共に暮らしてきた人びと──婚約者、妻、息子、息子の嫁、家政婦──は、イサクの本当の姿を知っている。彼らの口から語られるイサクが、イサクの真実そのものである。それはつまるところ、イサクは誰からも愛されていないし、誰かを愛することはしない人間なのだということだ。
そして、たぶん、イサクもそのことは承知している。わかったうえで、自分ではどうすることも出来ない自身の冷酷な精神があり、同時にそれを自覚したうえで懺悔にも似た気持ちが夢と幻想を呼ぶ。映画の中で繰り返し出てくる「針のない時計」は、死が近寄っているイメージでもあると同時に、時間は戻すことが出来ず今更悔いたところでどうしようもないという諦観のメタファーでもある。

『野いちご』は、さらにもうひとつの夢の場面で終幕を迎える。「私は落ち着かなくなると子どもの頃を思い出すようにしている」というイサクのモノローグとともに、陽光が降り注ぐ別荘の庭からサーラが現れて「お父様のところへ行きましょう」とイサクを誘う。海辺に出てひとりになったイサクは入り江を隔てた向こうの対岸を眺める。
ロングショット。岩礁に座る父親と母親。父親は左を向き、釣り糸を海に垂らしている。母親は右を向いて何か手仕事をしている。切り返して、海風に吹かれ両親を見つめるイサクのクローズアップ。イサクの顔には何の表情も浮かんでいない。画面が岩礁に戻ると、父親がイサクに向かってゆっくりと片手をあげる。
何と恐ろしいショットであろうか。実はイサクの父親が登場したのはこのショットが初めてなのだ。映画の中で繰り返されるイサクの冷淡さは、父親の不在に起因している。イサクの息子が子どもを作らないのも自分と同じ孤独に追いやることが必定だからだ。その元締めとも言えるはずのイサクの父親が最後のショットにしか出て来ない。やっと画面に姿を現したのに、遠景で顔の表情はよくわからない。おまけに母親には背を向け、独りだけ家族には全く関係のない釣りに熱中している。そして、その父親は海辺に隔てられた向こう側にいる…。
夢は最後まで残酷である。子どもの頃を思い出して気持ちを落ち着かせようというイサクにとって彼が見る夢は、家族に興味を持たず冷酷無情に孤立した父親の姿で占められているのだ。
映画は最後に、ベッドで眠りに落ちるイサクを映してフェイドアウトする。私には、この続きがあるようにしか見られない。すなわち眠りに落ちたイサクは、明け方になると針のない時計と馭者のいない馬車の悪夢を再び見るのだ。実に恐ろしい映画だ。

この映画を撮ったとき、ベルイマンは三十九歳。真の天才は自身の年齢に関係なく、普遍的な作品を生み出してしまう。グンナール・フィッシェルが撮影を担当しているが、モノクロームの画面を自在に操るキャメラが本作の深みを一層増している。イサクとマリアンヌが高齢の母親を訪ねる場面では、平板な絵が続いた後に、いきなり絞り込んだ彫りの深い画面が出現する。キャメラ自体が一種のショック表現を生み出している。また、照明がスポットライトのように変わる舞台演出的な暗転画面も、キャメラを精緻に操るテクニックがあってこそのもの。フィッシェルは『第七の封印』でも撮影を担当しており、確かにモノクロームの質感は『野いちご』の映像と似通っている。
その『第七の封印』に身を委ねてみろと言われると、好んで再見したいとは思わない。その点においては『野いちご』は入りやすい映画ではある。わかりやすいか、わかりにくいかはともかくとして、ベルイマンの傑作は、今でも決して色褪せていない。
そして、歳をとったうえで見ると凄まじく恐ろしい映画なのだった。素のままに振り返って、そう思うのである。(き)


野いちご.jpg


(※1)『野いちご』は1957年製作のスウェーデン映画。日本では東宝東和配給により1962年に公開され、その年のキネマ旬報ベストテンで第一位に選ばれている。
(※2)現在の自分が過去にいた場面に溶け込む表現手法は、中村真一郎の『四季』(1975年刊行)が最も優れた形で流用している。



posted by 冬の夢 at 22:06 | Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 最後の一文が「おそろしく」身にしみました。
 ほぼ、同じ経験をしました。
 学生時代に粋がって名画座で見たけれど「わからない」。「監督イングマル・ベルイマン=わからない映画」箱にいれてしまい、ベルイマン監督作を見るたび、その箱に放り込んできた。
 去年か今年か、ひさしぶりにこの映画を、ふと見て、最後の一文と寸分違わない気持ちになりました。本文と同じように、「わかるようになった」とはいいません。最後の一文同様に映画が「身にしみ」ました。
Posted by (ケ) at 2016年11月03日 02:31
ぼくもベルイマンを敬遠してきましたが、『夏の遊び』とか『魔笛』とかは忘れがたい映画になっています。一方、有名(?)な『処女の泉』や『野いちご』なんぞは、その評判だけで逃げ腰状態です。それにしても、ブログの文章を読んでいて、「一読して全て理解できてしまう詩は良い詩とはいえない」という意味のことをコールリッジ(19世紀イギリスの詩人・批評家)が言っていたのを思い出しました。いわゆる「詩的な映画作品」にも同じことが言えるのではないでしょうか。
Posted by H.H. at 2016年11月03日 05:45
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