2016年10月30日

John Keats を読む O Solitude! if I must with thee dwell, 邦訳【完成版】【改】


O Solitude! if I must with thee dwell, 


O Solitude! if I must with thee dwell,
 ああ 孤独よ! おまえと ひとつ屋根の下にいなくちゃならないなら
Let it not be among the jumbled heap
 ごちゃごちゃと おおいかぶさるような 陰気な建物の谷間ってのは
Of murky buildings; climb with me the steep ─
 かんべんしてくれよな
Nature’s observatory ─ whence the dell,
 きつい山道をいっしょに登り 見晴しのいい自然の中にしてくれよ
Its flowery slopes, its river’s crystal swell,
 谷間には花咲く斜面 川では水晶のさざ波が 橋をわたすかのように
May seem a span; let me thy vigils keep
 孤独よ ぼくは おまえの寝ずの番をさせてもらうぞ 
‘Mongst boughs pavillion’d, where the deer’s swift leap
 あずまやのように重なる枝の間でね 鹿が目にもとまらぬ ひと跳びでもすれば
Startles the wild bee from the fox-glove bell.
 野の蜂が驚き 釣鐘花の中から飛び出してくる
But though I’ll gladly trace these scenes with thee,
 孤独よ おまえがいてくれると ぼくは そんなようすを楽しく追いかけるだろうな
Yet the sweet converse of an innocent mind,
 でも 邪心のない心どうしの心地よいやりとりあってこそだよ
Whose words are images of thoughts refin’d,
 磨かれたさまざまな考えをイメージしている言葉でね
Is my soul’s pleasure; and it sure must be
 それがぼくの魂の歓びなんだ そして
Almost the highest bliss of human-kind,
 人にゆるされた最高の歓びに違いない
When to thy haunts two kindred spirits flee.
 心許し合う ふたつの魂が 孤独の住処に逃げこむときこそが

       *

 歴史あるロンドン有数の大病院で、現在、機能のほとんどを医療教育や研修にあてているガイズ病院。
 そこに、ジョン・キーツ(一七九五〜一八二一)の像がある。
 行ったことはないが、院内の案内パンフレットを見ると、中庭らしい所にしつらえた壁龕(ロンドン橋の遺構だという)に、キーツがひとりで坐っている。患者や来訪者、スタッフもいっしょに坐れるそうだ。製作した彫刻家は、キーツ自身が若いころ作ったライフマスクなどを参考に、本人に似ていることを期待して作ったという。

 キーツが、見習いをへてこの病院の学徒となったのは、二〇一年前の一八一五年秋。
 翌一八一六年の春には外科助手になる。ほどなくキーツの詩が初めて雑誌に載った。本格的に詩作に傾倒し始めたのもこの年だ。
 薬剤師──当時は医療も行った──の資格をとれたのが、一八一七年の夏。ライフマスクは同年冬に作っている。
 
 その、初めて雑誌に載った詩、キーツが一八一五年に十九歳で書いた詩を訳すことにした。──さきに【テイク1】をアップしていたが、誤訳がかなりあることを指摘されたので、問題点だけ直さずに前後のつながりも調整し直して、この、とりあえずの【完成版】とします。【テイク1】はブログから削除。すみません。
 
 キーツはもともと明晰な子どもで、勉強もよくできたようだ。中学の先生の影響で文学に出会うが、医者(薬屋か)の徒弟となる。馬車屋の父が事故で早く亡くなり、母も結核で失っているという家庭事情からだ。
 ガイズ病院時代は、ほかの研修生たちと下宿していた。外科や薬科といっても、麻酔もろくにない時代だろう。当時の衛生や殺菌などの周知度を想像しても、研修医というより徒弟という感じか。研修棟というより徒弟宿となれば、まさしく among the jumbled heap Of murky buildings だったことは間違いない。
 そんな下宿の窓辺で夢想にふけり、休みでもあれば散歩で丘に上るのが、キーツは好きだったという。
 手がたく薬店でも開業するか、それとも詩人として生きるかについては、迷っていたのか、心中確信があったのかは、キーツの手紙やメモなどを研究したことはないので、わからない。とはいえ、見習い時代に始まり資格をとるまで医薬修業を六年続けたのだから、まじめな性格ではあったのだろう。

 写真でみるガイズ病院のキーツ像は、肩がうすく、はかない感じだ。
 こんな感じの若者が書いた詩なのかな。
 そう思いつつ、電子辞書を見たりしながら訳そうと四苦八苦していると、なんともいえない気持ちにとらわれる。

 実際に、像のように病院の助手室にでも坐っていたとして、そのわずか五年ほど後にキーツは亡くなってしまった。詩人として広く知られることのない、短い生涯だ。
 キーツに、母と弟の命を奪った結核の症状が現われたのは、ここで訳したデビュー作から三年ほどしたころ。せっかく出版した長編叙事詩「エンディミオン」は、不運もあり酷評をくらったが、恋人と出会え、気持ちが上向いた直後のことだ。
 キーツはその翌年には、後年、英国近代詩の代表作といわれるようになったオードをつぎつぎと書き、恋人と婚約もする。しかし発病1年半ほどで、療養先のローマで命がつきた。詩人でありながら同時代の医術や施薬を知っていたわけだから、現代の素人にも中世の魔術としか思えない悲惨な治療も、それしかないと了解しつつ苦しんで死んだと思われる。公式な婚約手続きはしていたが、結婚は諦めていた。

 この詩の解釈や批評はなし。専門的に書くことはできない。
 孤独と自然、そして汚れのない思想を愛するひとりの若者の言葉が、いかに美しかったか。
 その言葉が、詩人としての名声には報われなかったけれど、魂の理解者である友人や恋人に恵まれることの、いかに嬉しい予見に満ちていたか。そうしたことを感じるだけにしておきたい。(ケ)

※ www.guysandstthomas.nhs.uk/resources/about-us/history/look-book-guys.pdf
 (注意:pdf形式のパンフレットが開くか、ダウンロードされます)

※ このブログのジョン・キーツ関連記事については→こちら←


※ 二〇一九年九月三日、詩の和訳以外を手直ししました。管理用
※ 訳文の無断転載はご遠慮ください (C) 趣味的偏屈アート雑誌風同人誌



posted by 冬の夢 at 15:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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