2016年10月24日

サイモンとガーファンクルの「オールド・フレンズ」、または不協和音が意味するもの

高校時代に聴いたきり、ご無沙汰だったサイモンとガーファンクル。YouTubeのおすすめに突然出てきたブートレグが彼らの五枚しか出していないアルバムをほぼ網羅していて、思わず聴き込んでしまった。
だから「オールド・フレンズ」を聴いたのは数十年ぶりのことになる。四枚目のアルバムの『ブックエンド』のA面最後の曲。「冬の散歩道」や「ミセス・ロビンソン」が入っているB面に比べるとA面は物哀しさが前面に出ていて、それがアルバム全体の特徴でもあった。要するに高校生が繰り返し聴きたくなるような引力に乏しく、『ブックエンド』はあまり出番もなくレコードラックにしまわれたままであったと思う。
久しぶりに聴いた「オールド・フレンズ」は、衰えた聴覚を通してくたびれた気持ちに直接浸透してきた。曲の存在自体をずいぶん長いこと忘れていたのに、不思議と自然に曲が胸に染み込んできた。歳を取るごとに頑迷さを増し、内に向くばかりで外からの刺激を徹底的に嫌うこの胸に、当たり前のように入り込んできたのである。


Old friends,
Old friends
Sat on their park bench
Like bookends.
A newspaper blown through the grass
Falls on the round toes
Of the high shoes
Of the old friends.

Old friends,
Winter companions
The old men
Lost in their overcoats,
Waiting for the sunset.
The sounds of the city,
Sifting through trees,
Settle like dust
On the shoulders
Of the old friends.

Can you imagine us
Years from today,
Sharing a park bench quietly?
How terribly strange
To be seventy.
Old friends,
Memory brushes the same years
Silently sharing the same fears

古くからの友だちが
年老いた友だちが
公園のベンチで座っていた
一対のブックエンドみたく
芝の上に舞い上がった新聞紙が
丸っこいつま先に引っかかる
年老いた旧友たちの安全靴に

年老いた旧友たち
冬が道連れにする
年老いた男たちは
外套の中に迷い込む
暮れるのを待つうちに
街のざわめく音が
木々の間を抜けて
埃のように積もっている
年老いた旧友たちの肩に

きみは想像できるかい
長い歳月が経ったあとのぼくらが公園で
ひとつのベンチをそっと分けあっているのを
おそろしく奇妙な感じだ
七十歳になるなんて
年老いた旧友たちよ
変わらない歳月を記憶がかすめていく
変わらない恐怖を無言で共有しながら



「オールド・フレンズ」を作ったとき、ポール・サイモンはまだ二十代後半。そんな若者がこの枯れた歌詞を書いた。年寄りから人づてに聞いただけではここまでは書けない。ポール・サイモンはただイマジネーションだけで「オールド・フレンズ」を書いたのだろう。どうしたらこのように年老いることの深淵をのぞき込むことが出来たのか。不思議でならない。
そして歌詞以上に楽曲の構成に驚いた。シンプルなギターの伴奏だけだと思い込んでいたのに、歌が終わった後の「オールド・フレンズ」は弦楽メインのインストゥルメンタルに変質するのだ。何重奏だかわからないヴァイオリンにフレンチホルンが重なる器楽曲は、繰り返される主旋律の間に不協和音を挟み込んで進む。ガーファンクルの澄んだ歌声、爪弾かれたギターの旋律。それが次第に耳障りな弦楽の不協和音に浸食されていく。これが「ブックエンド」の本当の姿だと主張するように。

「オールド・フレンズ」にも出てくるブックエンドのモチーフは、年老いた二人の親友がブックエンドのように二人ひと組の一対の存在として寄り添って生きているかのように描かれている。ところが、曲全体を聴くと、このブックエンドの間には静かに本が置かれているわけではないことがわかる。そこには不信と不安が渦巻き、ブックエンド同士が一緒にいながら敵対し、互いの存在を疑い合っている。ブックエンドに挟まれた空間には不協和音が鳴り響き、不信と不安はひとところに留まることがない。
考えてみれば、不協和音とはなんとも妙な言葉である。和音とは、すなわちハーモニーであり、ハーモニーとは調和のことだと思っていた。だから不協和音にも調和は含まれるのだと思い込んでいた。しかし、違った。和音は単に「高さが異なる二つ以上の音が同時に鳴ること」なのだった。そして、不協とは「心を合わせず仲良くしないこと」を言うのだ。「不協和音」の「音」を「人」に置き換えてみると、そこには人が生きることの絶対的な孤独が浮かび上がってくる。一緒にいながら心が通い合わない人が一緒にいること。それはなんともテリブルな人生だ。
ブックエンドに挟まれたのは、人と人の間の不協和音だったのか。だとすると、二十代後半のポール・サイモンは、若くして人生の影の姿を見極めていたことになる。なんとも恐ろしい青年である。
ポール・サイモンの、ブックエンドの間に不協和音を奏でざるを得ない人生観は、七十代まで人生を生きることを確信したうえでのことである。それは物哀しい人生観であると同時に、楽観的であるとも言える。なぜなら誰もが七十代を迎えるわけではないのだ。七十歳になることを「おそろしく奇妙だ」と感じられるのは、ある意味で幸福なことかも知れない。七十歳まで生きるかどうかは、誰にもわかりはしない。ある日、突然に、孤独な人生は日没を迎えることもある。その最期の日にも、不協和音が響いているのだろうか。ブックエンドの間には、人生の最期まで調和は訪れないのだろうか。
それを考えることそのものが、真に"terribly strange"のような気がする。頑迷で、内向きな胸は、そんな慄きに押し潰される。失うことだけが人生だ。それが唯一のリアリティなのである。(き)

bookends.png


posted by 冬の夢 at 23:17 | Comment(1) | TrackBack(0) | 音楽 映画音楽・ソウルなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 最後の日本公演になるといわれた二〇〇九年のライブ(東京公演)に行きました。
 ツアータイトルは「Old Friends Tour」でした。
「旧友」はまるで、その再結成公演に至るときまでのS&Gのことを予感したかのように歌った曲ですね。確かに若いのにすごいと思ういっぽう、二人の間にはそのような空気感がすでにあったのかな、とも思います。
「旧友」は、二〇〇九年東京公演のたしか1曲目に歌われて驚きました(アンコールの1曲目だったかも)。公演そのものの印象は残念ながらほとんどなく、あまり感動もなかった。ピアノのウォーレン・バーンハート(ジャズピアニストとしてけっこう好きな演奏家)がとてもよかった(S&Gのオリジナルバージョンのイメージをとても大切にして伴奏している感じがした)ことだけが記憶に残っています。
 一九七〇年以降、小学校での親友同士という関係を音楽活動の上で復活させることはついにできなかった二人だけれど、どちらも一人では、いい音楽を作ることは出来なかった気がする。サイモンのほうは商業的には以後も大きな成功を何度も得たわけだけれど、ぼくはなんとなく、以降のサイモンの音楽はいつも、借りものっぽい気がしていた。
Posted by (ケ) at 2016年10月26日 00:25
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