2016年10月13日

大空襲から七十一年めの神戸で (5/5)──空襲跡・ふたつの「おほわだはし」

 三宮、元町、神戸、兵庫──
 神戸市の繁華街から山陽本線を西へ向かって乗ると、駅名は立派になっていくが、駅前はだんだんと静かになっていく。
 兵庫駅の南口からすこし歩き、運河を渡って中之島、和田岬、そのさきは大阪湾だ。
 早朝は、中央卸売市場へ出入りするトラックや業者で混雑していると思うが、午後遅くにしか来たことがない。中之島二丁目の再開発※1で、工事車両の行き来があるほかは、地域の人らしい姿もほとんど見かけず、夕日が深々とさしこむ平坦な眺めが続く。
 
 兵庫運河と新川の合流点で大きな水門を見つつ、大輪田橋で海側へ渡る。
 このあたりをかつて大輪田泊といい、平安時代の終わりごろは日中貿易の拠点港だったそうだ。いまはその面影はない。
 とはいえ、そんな歴史の由緒に守られたのか、大輪田橋は戦災も震災もほぼまぬがれて、一九二四(大正十三)年建造の姿を残す。阪神大震災では親柱(橋の両端の大きい柱)の上部が落ち、橋の北東詰に置かれていて「大輪田橋戦災・震災復旧モニュメント」との銘板がはめ込まれている。
 その北東詰をすこし下り、柵の切れ目を降りて、冷蔵会社のトラック駐車場脇を堤防まで戻ると、小さな広場がある。戦後二年目に建てられた「戦災殉難者慰霊碑」があり、碑のむこうに、いま渡ってきた大輪田橋が見える。

161013k2.JPG 161013k1.JPG 161013k4.JPG

 一九四五年三月十七日の空襲は、同年初めから敗戦まで一二八回に及んだ神戸空襲のうち、きわめて大規模なもののひとつだった。大輪田橋でも一夜で多数が亡くなった。一説には五百人以上だという。
 大輪田橋で亡くなった人たちのおもな死因は焼死、窒息死、そして爆死もあったようだ。ここで生きのびた人の回想を読むと※2、橋の上でも下でも、運河でも、死者が出ている。さきに二月四日の空襲で橋のそばに大きな焼け跡ができたため、周囲がなまじ開けていたのと、石造りの大きな橋に運河の水、火に対して比較的安全に思われたのだろうか。空襲の三月十七日夜は北風が強かったそうで、火攻めにあった人々が市街の南側で海が近い、この橋に押し寄せたのは無理もない。

 しかし、この橋まで容赦なく迫った火と熱は、耐えられるものではなかったそうだ。
 運河の水に漬かりっ放しの材木まで燃え出し、そこへB29のさらなる低空爆撃。橋の上にいた人は吹き飛ばされ、運河に飛び込んだ人は焼死、炎が巻き込み水は沸きたって、橋の下に隠れた人たちは「蒸し焼き」になったという。いま撮った写真にも見える橋側面の黒い焼け焦げは、そのときのものだそうだ。
 関東大震災の大火災で隅田川が地獄絵図になったことは知られていたはずだが、どうしようもなかったのだろう。誤った避難だったとは、とてもいえない。

       *

 いっぽう、神戸空襲のさなかに、こんなことを考えていた人もある。二月四日の空襲の回想だ。

それは普通にいう恐怖とは違い、実にいい表わし難い不快感がともなった。そういう恐怖を催す自分が、そういう恐怖を自分に起させる敵機の搭乗員との間に、被害者とし、または加害者としての、何等個人的関係がなく、従って憎まれ憎む何等の動機がない筈なのに、事実こういう悪意関係に結ばれ、狙われ、狙うということは、実にくだらない。(略)

私を狙い、私に加害しようとしているのは確かにアメリカなのだ。併し、前線では又此の逆に、日本人が敵側の非戦闘員をこういうみじめな目に合わせているのだ。それでも私にアメリカをのろう権利があるだろうか。
 

 空襲を受けた製粉工場の社長で、近代文学研究もしていた増田五良という人の書いたものなので※3、当時の一般市民がみな、空襲被害にあいながらもこんなふうに考えたとはいえない。しかし、もっと簡単な言葉に置き換えてみれば、誰が思っても不思議ではないことだと思う。

       *

 七時間ほど、南スーダンに行ってきた防衛大臣が「治安情勢が落ち着いていることを目で見ることができた」といった。
 どんなふうに「落ち着いて」いたのか。
 と聞き返したくなるが、どうしてその部分、つまり安全か危険か、戦闘か衝突か、だけが議論の中心に──このところの衆参予算委員会で──なってしまうのだろう。
「何等個人的関係がなく、従って憎まれ憎む何等の動機がない筈」のところへ、なぜ武装して乗り込まねばならないか、その理由を議論しなければならないのでは。「安全だから、国際責任ですから」「ああそうですか」ということなのか。
 日本の自衛隊の「駆けつけ」が絶対に必要な事態が──いまの政権がその「絶対に」を乱用する問題は別にして──本当にあるのだったら、わが命は天に預けて「駆けつけ」るだけのことだろう。命の危険がある職務は、出動任務のある自衛官にばかりではなく、消防にだって警察にだって、あるだろう。問題は、身を呈してなんのために職務を行うか、ということだ。

 武装していなければならない紛争地では、「何等個人的関係がなく、従って憎まれ憎む何等の動機がない筈なのに、」「悪意関係に結ばれ、狙われ、狙う」ことがありうる、それは議論の余地がないはずだ。
 防衛大臣はこんなことをいっている。

「自衛隊員が実際に負うリスクは1+1+1=3といった足し算で考えるような単純な性格のものではありません」※4

「狙われ、狙う」ことや、攻撃をくらって死ぬ危険を「リスク」と表現しているのも不愉快だが、わたしがいま書いたのと同じことだ。ところが彼女は、これに続いてすぐ、まるで矛盾していることをいう。

「十分な教育訓練を行った上で現地の実情に応じた正確なリスク分析のもとできめ細やかな準備と安全確保対策を講じあらゆる面でリスク低減をする取り組みを行う」※4

 こういえ、といわれていっているのだろうが、自分でおかしいとは思わないのだろうか。
 思わないなら、防衛大臣はいますぐ、もういちど南スーダンに行き、そこにいる自衛隊員の前で同じことをいってみるといい。七十一年前に神戸で空襲を受けた、製粉工場の社長がいったことを読み直してから。

       *

 東京都八王子市にも「おほわだはし」があると知った。
 大和田橋
 一九二七(昭和二)年に、八王子では初めて鉄筋コンクリートで架けられた橋だそうで、神戸の大輪田橋と同様、一九四五年に空襲を受けている。
 ところがこの橋では、神戸とはかなり異なる出来事があった。というのは、避難してきて橋の下に駆け込んだ多数の人々が、焼夷弾から守られたというのだ。
 八王子の大和田橋も見てみることにした。

 横浜線で北へ向かうと終点が八王子駅。北口を出て右の「東放射線アイロード」へ。そこからけっこう歩くが、多摩川支流の浅川に出たら、そこが大和田橋だ。甲州街道を渡す橋なので、クルマの行き来がとても激しい。
 一九四五年八月二日の八王子空襲では、この橋に五〇発の焼夷弾が落ちたと推測されている。車道の弾痕は舗装で覆われたが、舗道の痕跡一七か所は、色タイルで示してある。そのうち二か所はガラスがはめられ実見できるそうで、写真を撮りたかったが、雨だったのでガラスが曇り、見られなかった。

161013h1.JPG 161013h2.JPG 161013h3.JPG

 かんじんの、八王子の大和田橋が空襲から避難者を守れた理由だが、調査力が足りなくて、まだ正確にはわからない。
 八王子空襲では市街のなんと八割が焼失したそうだが、市街地から逃げて浅川を渡った人たちは対岸でひと息つけたとの記述も見つけており、現在も市中心街からやや離れている橋までは、空襲による火災が襲ってこなかったのかもしれない。
 とはいえ、一夜で約四五〇人が亡くなり、約二〇〇〇人が負傷、一万四〇〇〇戸あまりの家屋が焼けた。戦前すでに一〇〇万都市だった神戸の空襲と、単純に比較してはいけない。このころ八王子市の人口は七万数千人ほどで、市民の大半が罹災しているのだ。

 となると、なぜ八王子のような小都市を、それほどまでに焼き尽くす必要があったのか。
 八王子といわれたら、多少モノ知りの人が「織物産業」を思いつくくらいだろう。ここ出身の松任谷由美の実家が呉服店だとかね。
 しかし織物工場があるからというのは、ひとつの市を壊滅させる理由にはならない。
 調べてみると、当時、米軍が空襲目標にした理由は二つあり、ひとつは八王子駅を東日本の交通の基点とみたこと、もうひとつは軍需工場労働者の住宅や東京からの疎開者の居宅が多かったから──在住者のほとんどが一般市民だと思うが──だそうだ。八王子には陸軍幼年学校や飛行機工場があったが、把握していなかったか重要視していなかったらしい。
 どうも納得がいかない。
 ひょっとすると、戦争末期に米軍が空襲目標に選んだ中小都市つまり、まだ空襲されていなくて、写真など情報資料が揃っているというだけで選ばれた地域、そのリストをただ、こなしていただけなのではないか。
 非人道的な残虐行為を几帳面に管理遂行するのはドイツや日本の得意芸と思われているが、なんの、アメリカが暴力に本腰を入れたときの、メガ企業経営やマスセールスのような全面展開力を侮ってはいけない。

 西と東で、同じ年に空襲を受けた、同じ名のふたつの橋を見に行ってきた。
 明暗が大きく分かれた理由は、正確にはわからない。
 そのせいかなおのこと、東京に戻ってなにごともなく暮らしていると、つくづく思う。
 橋が、いくら頑丈にできていたって、戦禍にあったとき人の命が助からなければ、なにほどの意味もない。そして、どんなものをいかほど堅牢に作ったとて、ひとたび戦争になれば、ひとたまりもないのだろう。
 すくなくともわたしたちは、そういう負けっぷりを経験していて、わたしはその一端を感じに行ってきた。が、被害者ぶってばかりはいられないのだ。よその国の人たちをみじめな目に合わせ≠ス勝ちっぷりも、わたしたちは経験ずみなのだから。
 今後は、橋を作ったり修理したりするなら、それが、いかなる形でも戦争の用に使われないようにしたいと思う。この国で人を守る目的を考えるなら、なにより防災のために、ということにしてほしい。防災に熱心なあまり防衛しているひまがない、そういう国は明日にも侵略されてしまうのだろうか。(ケ)


【参考】
※2「神戸空襲体験記<総集編>」一九七五年
※3 増田五良『粉屋の日記』──「日本の空襲 六 近畿」一九八〇年からの孫引き
※ 「日本の空襲 六 近畿」一九八〇年
※ 『八王子空襲』(八王子市郷土資料館/八王子市教育委員会/二〇〇五年)
※ 「浅川の橋めぐり」(八王子市中央図書館/二〇〇一年)
※4 news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2889480.html
※  二〇二〇年十月十九日、手直ししました。管理用

※1 二〇一六年九月現在、神戸市兵庫区の中之島二丁目(中央卸売市場本場・西側跡地)では、イオンモールの建設工事中だ。二〇一七年六月には、甲子園球場と同じくらいの敷地に、三階建て、駐車場一三〇〇台の、巨大モールが登場する。完成予想図の右上に大輪田橋が見えている。この予想図をみる限り、運河右手に遊歩道が整備され、橋へ行きやすくなるのかもしれない。
※  イオンモール神戸南は二〇一七年九月にの全館開店。なお建設中、兵庫城と城下町の一部遺構が出て来たが、調査の後、その上にイオンモールができている(未訪です)。


161013k3.JPG 161014im.JPG


■大空襲から七十一年めの神戸で(1/5)──空襲跡・三宮高架と海岸ビル は→こちら←
■大空襲から七十一年めの神戸で(2/5)──東福寺 は→こちら←
■大空襲から七十一年めの神戸で(3/5)──戦跡・電話交換手の殉職 は→こちら←
■大空襲から七十一年めの神戸で(4/5)──火叩キ は→こちら←
■兵庫県加西市「鶉野飛行場」(特攻機基地) は→こちら←
●シンガポール「セントーサ島」の戦跡記事 は→こちら←


posted by 冬の夢 at 15:38 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 旅・徘徊・発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大輪田橋(神戸)と大和田橋(八王子)の戦災被害の差は、素人考えですが、建物の密集度の違いに起因したのではないでしょうか。つまり、周囲に建造物が多い場合、それはそのまま大量の燃料が存在したということであり、それだけ火力が強くなるわけです。東京大空襲の体験談を読むと、熱風だけで人が焼け死んだそうです。しかも、火災によって強烈な上昇気流が生じるので、結果、水平方向の風力も強くなり、橋の下にも熱風が流れ込んで来たのではないでしょうか。ドレスデンの空襲でも(あちらは建物の外壁が石造りということもあり、完全なオーブン状態になったそうだが)同じように熱風による大量殺戮が発生したと聞いています。
Posted by H.H. at 2016年10月14日 01:11
コメントを書く:ペンネーム可・アドレスは表示されません
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック