2016年08月14日

高石ともやとザ・ナターシャー・セブン─ 「陽気に行こう」  元気が出る曲のことを書こう [8]【改】

 喜びの朝もある 涙の夜もある
 長い人生なら さあ 陽気に行こう
 陽気に行こう どんなときでも 陽気に行こう
 苦しいことは 分かっているのさ
 さあ 陽気に行こう


 高石ともやとザ・ナターシャー・セブンの「陽気に行こう」。
 このバンドが、かつて手がけたLPシリーズの第一弾、『107 SONG BOOK Vol.1 陽気に行こう。オリジナル・カーター・ファミリーをお手本に編』(一九七六年)で、初めて聴いた。
 ほぼ一発で、このバンドにはまり、ライブにも何度か行った。
 
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「オリジナル・カーター・ファミリーをお手本に」というサブタイトルどおり、この曲は、アメリカの戦前のフォークグループ、カーター・ファミリーが一九二八年に録音した「Keep On the Sunny Side」のカバーだ。
 カーター・ファミリーのことを説明すると本一冊書けてしまうから、かんたんにすませるが、このバンドの創設メンバーのひとり、メイベル・カーターこそがアコースティック・ギターの「カーター・ファミリー・ピッキング」の創始者である※1。フォーク、カントリー・アンド・ウェスタン、ブルーグラスなどのギター伴奏で誰もがアタリマエに弾く「ブンチャ、ブンチャ」は、このバンドから始まっているのだ。

 日本の一九七〇年代ごろのフォークでも、この弾きかたは定番奏法のひとつ。演歌のギターとは違う明朗さと、ナイロン弦のクラシックギターでなくスチール弦のフォークギターから飛び出す力強い響きが、若者をとらえたのだと思う。この奏法が知られていなかったら、日本の弾き語りフォークは存在しなかったのではないか。
 もちろん、戦前からカーター・ファミリーが日本でよく聞かれていたとは思えないので、戦後の一九五〇年代以降のアメリカのフォーク音楽、つまり日本のカレッジ・フォークへ影響したポピュラー音楽系のものや、オリジナル・フォークへ影響したヴィレッジの弾き語りなどからの孫引き的な伝播で、「ブンチャ、ブンチャ」は弾かれていったのだろう。おおざっぱすぎるけれど。

 カーター・ファミリーは、ケルトを源流とするアメリカの古謡などをとりあげ、ギター伴奏と聖歌ふうのコーラスをつけて演奏するところから始めた。
「Keep On the Sunny Side」はカーター・ファミリーのテーマともいえる曲で、一九三〇年代の大恐慌下で大衆を元気づけ、キャンプソングなどの替え歌になるほど親しまれたそうだが、オリジナル曲ではなく十九世紀末に作られた聖歌だ。作曲者の甥ごさんが車いす生活で、「通りの明るい所を押して」といつも頼んでいたことにヒントを得たという曲である。

 There's a dark and a troubled side of life;
 There's a bright and a sunny side, too;
 Tho' we meet with the darkness and strife,
 The sunny side we also may view.
 Keep on the sunny side, always on the sunny side,
 Keep on the sunny side of life;
 It will help us every day, it will brighten all the way,
 If we keep on the sunny side of life.


       *

『107 SONG BOOK』は、ナターシャー・セブンのレパートリーや発掘曲をテーマごとに集成した十一枚のLPと歌集で、バンドカラーであるアメリカのフォークやブルーグラス、オリジナル曲だけでなく、日本の民謡や童謡、世界の愛唱歌など、長く歌いつがれた歌も網羅している。いいシリーズだったと思う。

 ナターシャー・セブンはメンバー交代や活動の停止再開が多いが、『107 SONG BOOK』時代、七〇年代中盤から八〇年初めまでの、わたしが気に入っていたころのメンバーが文句なく最高だろう。
 一九六〇年代半ばの、日本のフォークソング黎明期から有名な高石をリーダーに、はしだのりひことクライマックスのメンバーとして大ヒット曲「花嫁」を作曲した坂庭省吾、それ以前に坂庭と大学で出会い、二人でアコースティック楽器をオタク的に練習しまくったという演奏巧者の城田純二、さらに、伝説のロックバンド「ジャックス」のドラマーだった木田高介がアップライトベース──ナターシャーで初めて弾いたらしいが──で加わっている。
 
 高石の、特別な歌唱力はないのに聴き入らせる、のびのびと自然体の歌いかたがいい。また、訳詩が巧みだ。英語詞の内容を損なわず短い日本語に置き換え、聴き手も歌いやすい愛唱歌や学生歌ふうに仕立てるのが上手い。
 坂庭と城田の演奏がすばらしい。息が合った爆発的なテクニックで、シリアスにまたコミカルに、とっかえひっかえ楽器を心地よく鳴らす。カントリー音楽ではややマニアックなブルーグラスというジャンルを親しみやすく広めたのも、このバンドの功績だ。
 ライブステージでは、ジミで温厚なベースのお兄さんという感じだった木田高介は、あのジャックスのメンバーだったという前歴以上の、知る人ぞ知る才人。その仕事のほんの一端として、かぐや姫「神田川」の編曲者だといったら、驚いてもらえるだろうか。プロデュース、編曲、多数の楽器の演奏など、木田が正式メンバーだったことが、バンド最盛期の要だったかもしれない。

 このあたりで、いま聴いても元気になれる曲ですと、いったん話を終える。
 曲やバンドのことを調べるため検索ヒットでアクセスした場合は、ここで読み止めてOKです。

       *

 高石ともやの存在を知ったのは、新宿フォークゲリラの歌本でだ。
 一九七四年か一九七五年、中学生のとき。若い担任教師が、それを持っていた。
 新宿フォークゲリラは一九六九年で、タイムラグがあるが、東京から遠い地方都市の中学校でのこと。その先生も地元大学出身だ。フォークゲリラは、東京・新宿に集めたあの人波を、さらに超える波及力を持っていたということだろう。

 当時の地方公立中学の空気からして、歌本を持っていた先生の勧めではまさかなかったと思うが、二人組のフォークバンドを作り、その歌本に載った曲を演奏し出した。
 といっても、フォークゲリラに実際かかわった人たちは怒るだろうが、一九七〇年代半ばに中学生だったわたしは、その本を『明星』か『平凡』の付録のヒット歌謡曲ブックと同じように扱っていた。ヒット歌謡集からはさすがに演奏しなかったけれど、吉田拓郎やかぐや姫の曲もやっていたから、ごちゃ混ぜである。ギターの技術がなくて選曲が決まる場合もあった。
 サイズや表紙の記憶がいまもぼんやりあるあの歌本は、以後いくら探しても見つからない。だから確かめようがないが、その本で知った高石が「想い出の赤いヤッケ」だったのは間違いない。岡林信康「友よ」、高田渡「自衛隊に入ろう」あたりか。加川良が載っていたかどうか……。
 
 フォークバンドは1年ほどで自然消滅したと記憶している。
 クラスが変わったり転校したりすると仲良しが嘘のように縁遠くなるのが、少年少女の常だが、それだけでなく、相方の思いとはたぶん違い、自然消滅でいいと思っていた気がする。

 相手が、フォークゲリラにこだわり、プロテストフォークということをしばしばいうようになった。
 現代の中学生からするとませているが、その五年ばかり前には全共闘運動に参加する高校生もいたのだから、不思議ではない。自分も「神田川」より、「友よ」や「くそくらえ節」のほうがよほど実感があったし、べつの若い教師(女)に小椋佳を演奏してみたらといわれ、聴いてうんざりした記憶もある。
 しかし、岡林信康の曲でも「チューリップのアップリケ」や「山谷ブルース」となると、それらを自分らがギターを鳴らして歌っている状態ってなんなのかと、中学生ながら離人症みたいなものに陥るようになった。
 自分のバンドでしたことはなかったが、シングアウトというのもひどく苦手。自分がほかの生徒の前で歌っていたくせに、合唱部はなおさら嫌い。まして、楽器をおいて社会活動や集会に「集まりに行く」ことは、考えもつかなかった。
 要するに、フォークゲリラの影響で演奏のまねごとをはじめたのに、フォークゲリラの思いや活動を伝え知るほどに自分に合ってなく、衣鉢を継ぐ気がない。一種のオマージュというのか、深く共鳴してバンドをやりたいメンバーと続くはずがない。

 高石ともやは、フォークゲリラの一部から、きわめて厳しく批判されていた。
 当時、観客席の若者が音楽フェスティバルなどのステージに上がり、コンサートを乗っ取る形で演説や議論を行うことがあったが、フォークゲリラの一部から、もっとも直接的にそういう行動を起こされた「フォーク歌手」のひとりが高石ともやだ。岡林信康もそうだったのだが、二人が日本のフォークの創始者的スターゆえにだろう。おそらくは二人とも、コンサートでの演奏中止や噛み合わない議論に疲れて、岡林は失踪、高石は音楽活動を停止しアメリカ旅行に出る。それらは一九六九年のうちに起きている。

 ナターシャー・セブンが軸足を置いたブルーグラスは、アメリカを旅してきた高石が演奏活動を再開するとき選択したジャンルだ。
 もともと高石も岡林も「うた」を社会運動のためにする派ではなかったが、とくに高石は、もともとのフォークソングスタイルを棄てずに演奏を再開継続したいと思ったのだろう。プロテストソングを演奏するなら、さらにそのルーツをまず見直すんだという姿勢を示す。そして、そのルーツからの流れにはあるが、高度な演奏技術と娯楽性が必要で、ド素人にはやれない、ブルーグラスというスタイルをコンバインしたのだ。
「陽気に行こう」は「オリジナル・カーター・ファミリーをお手本に」ということで発掘した曲だが、もっと時代を下ったモダンなギターやバンジョーのハイテクニックで舞台演奏され、ステージを盛り上げる人気曲になった。そこには、発言や抗議のためだけにする「うた」には一定の距離をおく考えがあったと、いまでは解釈できる。

 ところで、そもそも「フォークゲリラ」とはなにか、を説明していないから、話が見えにくい。わかっているが説明は略す。

 ステージを乗っ取られてまで、高石や岡林は、なにを批判されたのか。
 いま読んだり聞いたりできる限りの、青くさい理屈や冗長さだらけの若者たちの声から端的に浮かび上がるのは「商業主義」だ。

 音楽産業やマーケットの汚れをかぶっていない、手作り・手摘みの「うた」が、しなやかな反権力・反体制の行動として共有されていると感じる場所。それが当時の新宿西口広場だった。
 その場所は、まさに権力の象徴ともいえる、警察や機動隊に封じ込められつつもあった。
 そうした緊張感に満ちた新宿西口広場で歌われている曲の、かんじんの作り手たちが、その場に姿を見せず、距離を置いているような態度さえみせる。商業主義批判もさることながら、歌い手たちへのいらだちも、ステージ占拠という単純で粗暴な攻撃には表れていたと思う。
 しかし、もともと批判している側が高石や岡林の曲を選んで歌ったのだ。フォークゲリラの若者たちが、既存の「商業主義」な曲でなく、自分たちで「手作り・手摘み」した歌を活動の軸にできなかったのは責められないことだが、歌った曲にしろ、弾いた楽器にしろ、弾きかたにしろ、批判している対象の「商業主義」による流通なくしては、そこになかったものだ。彼らの議論はほぼ自動的に循環論に陥る。

 だが。

 その循環論に、より深刻に陥るべきだったのは、高石や岡林の側だったということは、あまり指摘されていない気もする。
 演奏者は、汚れた商業主義のつもりではなかったとしても、フォークは若者に売れると踏んだのは演奏者も含まれた音楽業界だ。レコード販売やギター製造※2などの業界もそうだ。
 潔癖すぎるほどの当時の若者感情は、自分たちにとりつくヒルのような「大人の商売」と、それにつきまとう偽善が許せなかったのだ。
 はなから商売でやっているシンガーソングライターたちを自分たちの偶像にまつりあげたのは彼らの勝手な思い込みだが、そのフォーク歌手たちにこそ「オトシマエ」をつけさせる、いやそれよりも、つけてくださいと切望するような気持ちが、正直なところだったのではないかと思っている。
 みんながいったん循環論に巻き込まれて、そして、どんな形が出てきたら「オトシマエ」になったのか、いま考えても詮ないが、もし「オトシマエ」がついていたなら、「うた」は、そのつぎの世代に、もうすこし自然に、歌い継がれていったのではないかと思っている。

 しかし、あれはもう「オトシマエ」などが問われている情況ではなかったのかもしれない。もはや何事も、噛み合わないのを前提にやっていたように思える。なにが噛み合っていないか時間をかけて検討するくらいなら暴力に訴える、そういう段階だったのではなかろうか。
 多くのプロミュージシャンたちは、当時のフェスティバルのステージに、ひどく怯えるかケンカ腰で出演していたらしい。そのころを知る音楽関係者から直接に信頼性のある話を聞いたことはないので、空気はわからないのだが、「俺らいちぬけた」したかったのは岡林信康ばかりではなかったはずだ。

 そのわずか何年かのちに、高石は陽気なブルーグラス、岡林は演歌と、理があるのかないのかわからない路線で、それぞれにまた成功していた。
 そして、ようやくその時点で遅ればせながら「フォーク」を知り、楽器をいじりだしたひとりの中学生は、「オトシマエ」がついていなかった、そのことのためだけで、いつしか「うた嫌い」になってしまった。

       *
 
 一九七九年、ナターシャー・セブンが『107 SONG BOOK』を完結させ、LP全巻揃いの全集もリリースした半年ほど後、木田高介が脱退。間もなく交通事故で亡くなってしまう。三十一歳だった。バンド内の対立もあり、八三年に城田が脱退。八五年にナターシャーは活動を停止する。
 以後、木田を失ったまま再結成がときどき行われるが、二〇〇三年に坂庭が五十三歳で亡くなり、翌年には城田が事件を起こし演奏活動から遠ざかった。
 なお、その城田純二は演奏活動を再開しているそうで、高石と二人のナターシャー・セブンが再結成され、数年前に『107 SONG BOOK』の曲を再演するライブも行ったそうだ。「想い出の赤いヤッケ」のシングアウトも、あったらしい。(ケ)



※1 メイベルは独特の指弾きでカーター・ファミリー・スタイルを弾く。

※2「フォークギター」はアメリカで発明されたものだけれど、アメリカ由来の「フォークソング」やその影響で作られた日本の音楽を、フォークギターを弾いて歌えば「フォーク」なんだ、ということは奇妙に感じてもいた。コドモでしたから。かといって「フォークギター」で日本の子守唄や愛唱歌、しまいに演歌をやるのがいいというのも変な気がした。コドモだったもので。なお、日本のギター製造会社の好景気は、エレキブーム、フォークブーム、イカ天ブーム けいおんブームと、「ブーム」とともにあったことは、ご存じのとおりだ。最近また、エレキギターが売れるようになり、AKBブームゆえだそうだが、AKBってギターバンドだったっけ……。

【参考】『1969新宿西口地下広場』(新宿書房/二〇一四年) 作り込まれた本で参考になり、当時「歌姫」とよばれた大木晴子さんが、いまも純粋に新宿西口にかかわり続けていることを知った──この人が夫君と応じている、意外なほどあっさりしたインタビューの内容から──が、この本すべてを読みぬくのは非常にしんどい。この本からは音楽がまったく響いてこない。それが苦しい。

     

Originally Uploaded on AUG. 15, 2016. 11:30:00
※二〇一九年一月二十七日、手直ししました。意見は変えていません。管理用



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posted by 冬の夢 at 23:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 日本のロック・歌謡曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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