2016年07月04日

大空襲から七十一年めの神戸で (3/5)──戦跡・電話交換手の殉職【追記あり】

 本題の前に「電話交換手」について説明しておかないといけない。

 企業やホテルの「代表番号」に電話すると、たいていは女性が出て、しかるべき内線につないでくれる。
「ダイヤルイン」で、そんな方法も減ってきたが、その女性が企業やホテルの「電話交換手」さんだ。現代の職名でいうと「オペレーター」さんか。
 かつては一般の電話も、電話局の交換手を通してかけていた。
 昔の映画などで、ダイヤルがない電話機のハンドルをグルグル回す場面があるでしょ。あれは交換手さんを呼び出し、かける先の回線につないでもらうのだ。

 ダイヤル直通方式が登場し、一九五〇年代に電電公社が発足しても、市外通話は長らく交換手経由だったし、一九七九年に自動交換機の全国配置が完了したのちも、交換手さんはいた。
 たとえば、貧乏学生時代お世話になったコレクトコール、あれは交換手さんに先方の番号を告げ、呼び出された相手が着信人払いを了承すれば話せる仕組み。確認のため調べるとNTT東西のコレクトコールは自動、オペレーター経由とも一年前(二〇一五年七月)に廃止になっていた。知らなかった……。

       *

 電話には交換手がつきものだった時代、交換手は女性の花型職業のひとつだったという。
 夜勤があったり、応対の態度や守秘義務など倫理を問われるので、勤労女性が多くなかったころは看護婦などと並んでエリート職種であったようだ。
 だからこそと思うが、戦時中、本土空襲が激化すると、電話交換手の女性たちは悲劇にさらされることになった。

 神戸市中央区の小野八幡神社。
 神戸市役所から二ブロック東、三宮中心部から歩いて行ける、ビル街の谷間の神社だ。
 本殿に向かって左奥に稲荷の鳥居が並び、そのすぐ手前に、こんな碑がある。

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 慰霊
 日本電信電話公社 總裁 米澤滋 書
 昭和20年3月17日未明の空襲によりこの地において耺に殉じた神戸中央電話局葺合分局職員の霊をまつる


 神戸の葺合というと、この神社よりかなり東。そちらに建っていた碑が阪神淡路大震災後に移設されたようだ。
 碑には来歴が書かれていない。この総裁の在任期を調べると、一九六〇年代前半の揮毫・建立か。
 名が碑にならぶ七人の女性は、一九四五年三月十七日の空襲で、同局で亡くなった電話交換手たち。三〇歳前後から最年少は一六歳だったという。

 その空襲は、一二八回におよんだ神戸空襲のなかでも大空襲のひとつで、B29が三〇六機、焼夷弾など二三二八トンを投下した。
 火災目的のナパーム焼夷弾、放水すると逆に燃えるマグネシウム焼夷弾、飛散破片で殺傷する破砕弾の三点セット。ごていねいにも、としか表現しようがない残忍な所業だ。
 米軍の損害評定報告書※1を見ると、神戸の西半分を焼失させ、やや東部の葺合近辺も、飛び地のように焼き払っている。夜間爆撃だったので宿直勤務の女性交換手たちが亡くなったのだ。

 悲劇にさらされたとは、碑文にもある「耺に殉じた」こと。
 当時の記録や回想で活字になったものが見つからず、近年の新聞記事しか参考にできていないが、命令で空襲の最中も避難できずに焼死した可能性が高い。
 電話回線は戦時の命脈ゆえ死守せよ、と強制されていたのだろうか。
 空襲や攻撃を受けても交換台を離れるな、そう命じられていて電話交換手が逃げられず、局舎と命運をともにしたり自決したりした悲話が、ほかの土地にもあるので、葺合分局もそうだったのではないか。

       **

 東日本大震災のとき、若い女性の自治体職員が、緊急放送をぎりぎりまで続けて津波の犠牲になった、ということがあった。
 その行動は「果たすべき職責を全うした」と報じられたり※2、道徳の授業の教材になったり※3した。

 亡くなった人の真意を知るすべもなく、その行動を「職責」や「天使」という表現で讃えるのは、失われた大切な命を侮辱していることにならないか。

 とうとい自己犠牲を賞賛して、どこがいけないのか、と怒られるかもしれない。
 しかし、自分だけ助かればそれでいい、周囲のことは知るか、という考えを利己主義だとは、まったく思わないのと同じくらい、自分が死んでも他人を、あるいは他人のため何かを、守る、そのためなら自分は死ぬ、という行動を「気高い」とは思わない。
 たしかに、ふだん「自己チュー」を目の前でやられると不愉快だ。災害時の、他人なんかどうでもいい的な行動は、その最悪の場合だ。
 だが、自分が死んでも他人が助かればいい、他人が助かるなら自分は死ぬ、という行動が、それとは反対の「気高さ」だといえるだろうか。

 震災と戦争が同じでないことは、よくわかっている。
 天災は止められないが、戦争は断じて不可避ではないから。
 だからこそ思う。災害時に身命をなげうって行動することを「職責」だの「天使」だのと賞賛することは、戦争をしてしまえる精神をつくり出さないだろうか、と。
 あるいは、戦争をしてしまえる精神があるから、そのような賞賛を思いつくのではないか、と。

 ただし、阪神、東日本の震災後に、知人を訪ねて被災地に行ったときのことを思い出すと、誰かが亡くなったことで自分が生きている、または、誰かの身代わりとして生きている、という経験を本当にした人は、二者択一的な固い理屈で、そうした経験を感じてはいない。
 そう実感したし、そう信じてもいる。

       ***
 
 市民にむかって、空襲を避けて逃げるな、敵前逃亡だ、とは愚劣な命令だが、当時の神戸市内にそういう「高札」が本当に出たそうだ※4。そのため市民の多くが、疎開したり市街地の居所を離れたりすることに「やましさ」を感じていたようだ。
 
 そういう高札の文面を作ったのも、電話交換孃たちに空襲があったら死ねも同然の「職責」を強いたのも、地域リーダーや末端の管理職だったのではないか。軍の通達の有無をとわず※5。自主的にやったかもしれない。
 彼らのキャラクターは容易に想像がつく。器が小さく権威に弱く、斟酌だけが機敏な輩だ。そういうところが戦時に重宝されて、職域や地域の長になれて威張った、そういう人びとだろう──。

 とは、かたづけられなくなった。電話交換手たちの慰霊碑を見てからは。
 
 電話交換手たちに「耺に殉じ」る覚悟を日ごろから説いたのはむしろ、局員の信頼が厚かった「ふつうの上司」だったのでは。
 いや、上からいわれるまでもなく電話交換手さんたちは、「死守」が当然、と思っていたのではないか。

 仕事への熱意や使命感、責任感は、美徳だと素直に思う。「たかが仕事」と斜に構えてばかりはいない。
 しかし、電話交換手たちの無残な死──遺体の身元はわずかに焼け残った「もんぺ」のハギレで判別したそうだ──を、「散華」などとはけっして思わない。美徳ゆえ「耺に殉じ」ねばならなかったのだとしたら、美徳など不要だ。
「まじめさ」は、ときに、ひどい悪の推進力になる。困ったことだが、それが「まじめさ」につきものの欠点だ。
 
 といっても、仕事に「まじめ」なんて、いまどきアナクロだな。アナログじゃないよ。「まじめ」を強いでもしたらパワハラだ。
 要するに、仕事は適当に流しましょう、「まじめ」はダサい、という気分が主流だろう。
 だからか、戦争なんて起きっこないとか、戦争しようったって、いまの日本の一般人に出来るわけない、という安心感が多勢の感じもする。
 だったらいいのだが、すこしも安心できない。どうしてなのだろう……。

       ****
 
 自問自答しているうちに、自嘲ぎみになってくる。
 神戸三宮近辺には、遊べるところがたくさんある。長い商店街をうろつくのも面白いし、首都圏ほどフトコロ具合を気にせず、呑み歩きもできる。なにせヒマだ。
 それがなぜ、わざわざ同じ三宮でも隙間のような場所に這い込んで、小さな碑を撮ったり、体を押し込んで裏の字を見ようとしたりしているのだろう。ヤブ蚊に刺されながら。(ケ)


【追記 二〇一六年七月二十二日】

 神戸市兵庫区東柳原町の柳原天神社(やなぎはらてんじんじゃ)にも、空襲で殉職した女性電話交換手の慰霊碑があった。兵庫駅から歩いて十分くらいだ。
 やはり一九四五年三月十七日の大空襲でのことだ。こちらの碑文に記録されている神戸中央電話局兵庫分局は、かつてこの天神さまの向かいにあり。碑のレリーフは局の壁面に設置されていたものだという。
 こちらの夜勤交換手は六人の若い女性で、シフト終了後の移動中に空襲にあったそうだ。五人が亡くなっている。
 神戸の空襲死傷者の実数は、いまだに確定されていない。想像をこえる数の電話交換手たちが、空襲で亡くなったかもしれない。(ケ)

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■大空襲から七十一年めの神戸で(1/5)──空襲跡・三宮高架と海岸ビル は→こちら←
■大空襲から七十一年めの神戸で(2/5)──東福寺 は→こちら←
■大空襲から七十一年めの神戸で(4/5)──火叩キ は→こちら←
■大空襲から七十一年めの神戸で(5/5)──空襲跡・ふたつの「おほわだはし」 は→こちら←
■兵庫県加西市「鶉野飛行場」(特攻機基地) は→こちら←



【注】

※1 神戸市文書館「米軍資料にみる神戸大空襲」の「1945年3月17日」に図があります。
   www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/kushu/kushutop.html

※2「河北新報」二〇一一年四月十二日

※3 埼玉県教育委員会が独自作成した道徳教材「彩の国の道徳」の一篇「天使の声」 二〇一二年

※4「昭和二十年三月、ぼくは神戸に住んでいた。ある朝、高札が立てられ、『防空要員ニシテ警報下裏山其ノ他ニ逃避セントスル者ハ戦列離脱の利敵行動ナリ、厳罰ニ処ス』とあった。この直後、神戸に空襲があった。これを受けた神戸の市民は、空襲による火の雨の中、火ハタキ、バケツリレーを行い、多くが命を落とした。」(野坂昭如『シャボン玉 日本 迷走の過ち、再び』二〇一四年)

※5 たとえば一九四五年八月二〇日、樺太・真岡郵便局の女性電話交換手たちがソ連軍の上陸攻撃下、引き揚げず業務を続け、集団自決した事件では、軍命令は存在していない。

※ 毎日新聞、産経新聞の記事、『神戸大空襲─戦後60年から明日へ─』二〇〇五年/神戸空襲を記録する会・編/神戸新聞総合出版センター を参考にしました。

Originally Uploaded on Jul. 09, 2016. 23:20:00
※二〇一六年七月一〇日わずかに手直し。
※二〇一八年四月一〇日全面的に書き直し。二〇二〇年一月四日やや手直し。
管理用


posted by 冬の夢 at 23:00 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 旅・徘徊・発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
自分コメント。二〇一八年四月一〇日全面的に書き直しました。
Posted by (ケ) at 2018年04月10日 01:24
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