2016年07月03日

大空襲から七十一年めの神戸で (2/5)──東福寺【改】

 慈照山 東福寺。
 神戸・三宮の繁華街東端から、さらに東へ徒歩十分か十五分。二宮橋の東側に見える曹洞宗のお寺だ。

 本堂に向かってすぐ左に不思議な形の塔がある。高さ二〜三メートルほどか。
 その形から、ミャンマーやタイのお寺さんのパゴダ、つまり仏塔ではないかと想像がつく。
 大きなものではないが、向かい合うと背景に神戸中心部のビルが見え、背後は大正時代に出来た本堂。ふたつの遠い時代空間をつなぐタイムマシンのような、不思議なたたずまいだ。
 東福寺のウエブサイトによると、ミャンマーから一九九四年に贈られたもので、ミャンマーの寺院から分骨された仏舎利が納められているという仏舎利塔だ。東福寺檀信徒の供養塔でもあり、永代供養の遺骨が下部に収められるようになっている。戦後このお寺に預けられた無縁の遺骨も、納められているそうだ。

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 一九四五年六月五日、『火垂るの墓』の野坂昭如が家を焼かれ養父を喪い、小説のモデルとなった幼い妹と疎開することになった神戸大空襲。その後、この寺に箱に詰められた遺骨が持ち込まれた。朝鮮人の遺骨と記されていて、当時、神戸の製鋼・製鉄工場で働いていた人びとのものらしい。そのときの住職が引き受けて今日にいたり、この仏舎利塔に永代納骨供養されている。国の違いに関係なく供養してあげたいという思いは、現住職も受け継いでいるとのことだ。

 引用が長くなるが、野坂昭如が、いまから二年前の六月に書いたこと。
 野坂は、その一年半ほど後に亡くなっている。下の引用の最後のところを、ほかのエッセイでも繰り返して。

 昭和のはじめ、日本は大国の一員に成り上がらんと、富国強兵、軍備増強に狂いはじめた。ぼくの住んでいた神戸は港町、港は神戸の表看板であった。また、神戸といえば、明治の頃から造船所で有名。ぼくが生まれた昭和五年あたり、神戸港は輸出貿易額全国一位。町は賑わい重工業の設備も充実していた。やがて満州事変勃発。これにより港も重工業もますます盛んになっていった。国の膨張政策によって、潤った町のひとつ。
 太平洋戦争はこの頃、無敵皇軍が進撃を続け、東アジア地域の王者。神戸に限らず列島の住人は大いに浮かれていた。ぼくはといえば、港で見受けた軍艦に夢中。(略)地域にもよる、また親の仕事柄などにより差はあるが、空襲が激しくなるまでは日常が続いていた。まさか自分の家が、父や母が爆弾でやられるとは考えていなかった。やがて日本列島は空襲に打ちのめされ辺り一面焼け野原。多くの国民が死んだ。今、あの戦争は過去のことと片づけられている。戦争の話はもはや生き残りの愚痴に過ぎない。だが近頃あの時代の空気そのままに甦ろうとしている気配がある。多分、間違ってはいない。
※1

『新修神戸市史』※2は「神戸市域における朝鮮人労働」という項をたて、「限られた史料をもとに、戦前・戦中の神戸市における朝鮮人労働者の実態を簡単にみておくことに止めざるを得ない」、(昭和初期の)「朝鮮人の神戸市域への渡来は強制という要素は少なく、彼らの意思によって行われたものが中心であったのである」としつつ、「強制連行実施後の神戸市域の朝鮮人労働」との小見出しで、こう説明している。

 昭和二十一年に厚生省の通達にもとづき、県が行った調査では、県下に一二二作業所、一万三四七七人が確認されており、うち徴用=六九九五人、「官斡旋」=三六九八人、そのどちらかに属するものを含めると一万一七二七人となり、少なく見積ってもこれだけの朝鮮人が強制連行されたことになる。残りの一七〇〇人にも、事実上強制が働いた可能性もある。(略)神戸市域では、徴用=三二九二人、「官斡旋」=一二九三人で両者合わせて四五八五人、「募集」その他、不明も合計すると四六四五人となっている。※3

 数字の大小や、強制の有無については云々しない。
 どう議論したとて、ある立場からは不充分にすぎ、ある立場からは存在しない話、の繰り返しになるだろうから。
 ふたたび野坂昭如の言葉を借りるなら「日本の中に生きてた人は自分自身の中の血に染ってた」帝国主義の膨張政策※4によって、少なくない朝鮮人労働者たちが神戸市にいた。そのことは間違いない。
 では、「大いに浮かれていた」ときもさることながら、浮かれている場合ではなくなったとき、日本人の「自分自身の中の血」は朝鮮人労働者たちを、対等な仲間として──もともと無理やり仲間に繰り込んだ(皇民化)にせよ──正当に扱っただろうか。

 二〇一五年の毎日新聞神戸版の記事※5は、寺の伝承と断ったうえで、遺骨が持ち込まれたときのことを、ややドラマチックに書いている。しかし東福寺によると、神戸空襲関連の詳細な記録はまったく存在しないため、正確なことはわからないそうだ。供養塔にも、このいきさつについての説明は付されていない※6
 そもそも、神戸空襲の実態そのものが「正確にわかっていないことがあまりにも多い」※7のだという。実態をつかもうと調査してきた人びともいるが、いまだ被害者数の確定はできていない。把握できていない犠牲者は相当数にのぼるようだ。

 人ひとりの存在が「亡くなったらしい」だとか「わからない」で消滅してしまうなんて、なんと悲しく、さびしいことだろう。
 はじめからそこに居なかったかのように、暮らした場所から消されてしまうとは。

 阪神・淡路大震災のとき、神戸の被災地域を戦場だとか戦災地のようだと報じたマスコミがあり、不謹慎だと問題になったことがあった。
 空襲後の焼け野原と、震災で壊れた地域の姿は、高所や遠方から撮った写真や映像では、似て見えるのかもしれない。
 しかし、まるで初めから存在していなかったかのように消えてしまった、さびしくわびしい命が数知れずあったこと、そして、それは自然災害ではなく「大いに浮かれていた」せいだったことを、無知からか故意にか思い出さず、直接には見たこともない「戦災地のようだ」と震災被害地をたとえたなら、たしかにそれは、ひどく「がさつ」な態度だったというしかない。
 そのような「がさつ」さに対する怒りや不安が、晩年の野坂に繰り返し同じことを書かせたに違いない。もちろん「がさつ」な多数派の側では野坂のことを、変な作家だと思っていたか、あるいは名前も知らなかっただろうけれど。

 神戸は一九四五年の一年間に一二五回の空襲にあい、うち四回の大空襲で壊滅的被害を受けた。そして一九九五年には、阪神大震災でまたも大きな被害。
 東福寺は、いずれのときも焼け落ちたり倒壊したりすることはまぬがれたようで、今日の姿がある。
 ということを知ると供養塔は、やっぱりタイムマシンに見える。過去と現在の光景をつないで静かな境内に立っているかのように。
 このタイムマシンのスイッチを押して、未来の神戸をこの場所に投影してみたい。
 戦争、それから震災、そのつぎが「また戦争」でないことを念じながら。(ケ)



【注】

※1『シャボン玉 日本 迷走の過ち、再び』二〇一四年
※2 新修神戸市史編集委員会/神戸市・発行/一九九四年
※3『新修神戸市史 歴史編W 近代・現代』872ページ。同史が参考にしたのは、朝鮮人強制連行真相調査団による『朝鮮人強制連行調査の記録 兵庫編』(一九九三)と書かれている。朝鮮人強制連行真相調査団は一九七二年に日本弁護士連合会有志と朝鮮総聯関係者で作られ、結成四〇周年をこえる組織。
※4『神戸空襲体験記<総集編>』一九七五年
※5 mainichi.jp/articles/20150823/ddl/k28/040/243000c
※6「東福寺ブログ」による。供養塔にとくに銘板などがないのは、よいと思う。
※7『日本の空襲 六 近畿』一九八〇年
※二〇一七年四月七日、手直ししました。ほぼ調整のみです
 Originally Uploaded on Jul. 05, 2016. 14:35:00


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posted by 冬の夢 at 23:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 旅・徘徊・発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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