2016年06月29日

大空襲から七十一年めの神戸で(1/5)──空襲跡・三宮高架と海岸ビル【改四】

 神戸市の中心街・三宮に、こういうものがあるとは知らなかった。何度となく通った場所だ。
 鉄道各線の駅が集まる三宮交差点に面した、神戸交通センタービルと三宮OPAを結ぶ連絡橋。阪急電鉄とポートライナーの乗り継ぎによく使う、東海道本線の高架南側に接した通路に、それはある。

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二〇一九年六月下旬現在、濃い青に塗り直されているそうだ 拝辞無許可転載

 連絡橋から網柵ごしに高架を見ると、橋げたの鋼板に直径四、五センチくらいの穴がバコバコにあいている。やや斜めに乱雑に貫通した穴の周囲にめくれあがった、鋼板の分厚さが不気味だ。
 いったい、何の穴なのだろう。

神戸の中心街にいまも残る爪あと

 これらは、太平洋戦争末期に神戸空襲に飛来した米軍戦闘機の銃撃痕だそうだ。
 戦闘機の役割は、おもに爆撃機B29編隊の護衛や哨戒だが、対地攻撃もした。戦闘機のみの編隊で機銃攻撃を行ったこともあったという。戦闘機だけでの空襲は回数が少ないが、小規模な攻撃は記録されなかったこともあるようで、いま資料で把握できるより多くの戦闘機が神戸に来襲した可能性がある。
 爆発性がない機銃弾で戦果がある標的というと、誘爆する燃料施設などか。といっても敗戦も間近なころ、そんなものが多数温存されていたとは考えにくい。戦災体験者の話によくあるように、三宮でも列車(駅)や人が標的にされたのではないか。
 ちなみに、機銃を撃ってくる戦闘機の操縦士の顔が見えた、という話をよく聞くが、それをいうならB29の爆撃も中低空からだった。日本の対空防御がいかに機能していなかったかだ。
 それにしても、三宮駅の一部が戦前戦中のままだったとは、にわかには信じがたい。二十数年前の震災の痕跡さえ、保存された場所以外で見つけるのは難しくなっているから、よく残っていたものだ。※1

無差別爆撃と機銃掃射

 あなた、機銃掃射って知ってる!

 と、わたしに語りかけるのは、九〇歳になろうという、お隣のおばあちゃん。
 東京の居宅の隣人なのだが、大阪で空襲にあったそうだ。
 世間話をしていて話題が戦争のことになると、いつも早口になり、せき立てられたように話す。
 小柄で細身の、背筋のとおった人。当時、はたち前くらいとすると、いかにも可憐な娘さんだったろう。
 防空壕に、見知らぬ人とすし詰めになるのが苦手で、何度めかの空襲に、つい逃げ遅れた。そのときにはもう、米軍機が頭上に迫っていたそうだ。ひとり走って逃げる若い娘を追って、たて続けにあがる土煙──。

 大阪で彼女を襲った戦闘機と、神戸の高架橋に弾孔を残した機が、同じ機種かどうかはわからない。
 が、高架橋の穴の大きさを間近で見れば、機種がなんであれ戦闘機の弾が命中したら、人の体などたちまちバラバラだと想像がつく。列車の車体も、むろん貫通だ。※2。
 日本側の迎撃でやられる可能性がきわめて少ない掃蕩戦なのに、逃げる若い娘を追いかけて破壊的な弾を浴びせたり、列車を乗客ともどもハチの巣にしたり。戦争だからとはいえ、鬼畜の所業だ。そんな行為が作戦命令に含まれていたのか。

 日本の都市を焼き払う無差別爆撃が、米軍の方針変更で行われたことは、よく知られている。
 変更前の戦術は、軍需施設が目標の精密爆撃だった。しかし、日本の軍需業は大工場より手工業的な町工場が主力、という判断により、全面爆撃になったのだ。
 この文を書く前に読んだいくつかの本では、全面爆撃には、真珠湾の仕返しをしてやるという報復意識があったともいう。原爆の製造と投下にもまた、復讐心が作用したのだろうか。

正義を名目に解き放たれた破壊願望

 仕返ししてやる、後悔させるぞ、という暴力が度を越しがちなのは、ふつうに生活していても想像はつく。
 だが、むしろその、ふつうの生活の中にこそ、とてつもなく残酷な破壊願望があるというのは、想像のしすぎだろうか。

 日々、さまざまな不満や不安、抑圧が累積するうちに、すべてを壊したいという願望が、人心につのっていく。
 身の回りのものに八つ当たりしたり、気を許した相手を傷つけてしまった、ということに始まり、ついには見ず知らずの人を、それも出来るかぎり一度に多くを、痛めつけてやりたい、やっつけてやる、という破壊願望が実体をとろうとしだすのだ。
 その願望は、ひとたび発散の機会を与えられると、ひとりの人間のどこにあったのかと思うほど爆発的に巨大化し暴れまくる。欲望の開放だから、性的興奮や薬物依存に似た快感があるだろうし、破壊願望とは破滅願望でもあるので、いったん解き放ったが最後、ほどほどで止めることはできない。
 この破壊と破滅の欲望が、正義という大義名分を得て爆発するのが戦争なのだ。
 人間は、そもそも滅びたいと思っているから、戦争したくなるのだ。

 そんなはずはない、人間は、そんな悲惨な存在ではない。
 そう思いたい。
 しかし、そう思いたい自分にも、破壊・破滅の願望が、あるような気がする。怖ろしくて、心の中をはっきり確かめる勇気はないが。

破壊と破滅に邁進する戦争協力のかたち

 いかなる戦争にも反対なのに、説得力のある反対論を、うまくいえたためしがない。心から肯ける反戦論を見つけてもいない。
 平和や人道の理想像を持って、戦争や武器に反対していないからだろうか。しかし、申しわけない気もするが、平和や人道のためと最初にいわれてしまうと、うなずけない気持ちがおきてきたりする。

 神戸三宮で、理不尽な攻撃の痕とされる鋼板の穴を、そこを通るたび何度となく見た。そのうちに、こう思うようになった。

 国が戦争をしたから、人が残酷になるのではない。
 人が残酷だから、国は戦争をするのだ。
 わたしに戦争と武器を与えたら、心の中の破壊・破滅願望が、たちまち私を怪獣にするだろう。
 わたしには絶対に戦争や武器を与えないでくださいと、切に望み続けるしかない。

 戦争になったから敵を殺せといわれても拒否する、数少ない人たちもいた。敵でなく味方に命を奪われることになっても。
 心の中のバケモノに負けず、そういう選択をすることもできる。しかし、もし本当に戦争になったら、わたしはつぎのようになってしまうと思う。
 つまり年齢などからして、兵站などの実務を命じられる。すると、それをいいことに、ひと一倍よけいな事務能力──大量殺戮のための──を、わたしは発揮しかねない。抹殺と破壊の快楽を、こっそりむさぼりたいがために。
 現代の戦争は、企業の国際競争と同じだ。強制収容所でのドイツも、侵略地での日本も、そして神戸を空襲したアメリカも、みな計画的で緻密で、冷静に残虐だった。大量殺人・徹底破壊を成長事業のように管理運営できた国が勝者になり、蛮勇や情緒にしか頼れなくなった国は敗者になった。勝者が勝ちの局面を手にするには、虚弱だ弱虫だと一段低く見られながらも営々と戦争経営に邁進した凡人たちの貢献があったことは、いまさら指摘するまでもないことだ。

緻密な計画と管理で遂行された米軍の蛮行

 抑圧された破壊欲を解き放つと同時に、悪の所業を冷静に事業化する。会社や工場、農場での、作業やセールスと同じように──。
 米軍の記録を見ながら神戸空襲を調べていると、米軍という戦争事業体の、当時からの完成度の高さが、おぞましいほど実感できる。
 真珠湾で卑怯な「だまし討ち」をした日本人をギャフンと言わせてやれ程度の「復讐心」では、神戸はもちろん、日本を徹底的に空爆したあの残忍さを、営々と反復したうえ「帳簿につけておく」ことなど、できはしない。

 日本への空襲は、軍施設をねらうピンポイント爆撃から、焼夷弾での無差別爆撃へと戦術変更されたわけだが、悲しいことに神戸は、その練習場所に選ばれたのだ。
 神戸には有力な軍需工場が多かった。北は山、南は海で、市域は東西に細長い。風向きを見計らって火をつければ、丸焼けになるというのだ。
 米軍が、木造建築中心の当時の日本の街区を効率よく燃やす研究をしたことは知られているが、日本の歴史的大火も調べており、「春一番」が吹く春季の焼夷弾攻撃が有効とみたのだそうだ。
 そんなことを思いついて提案した悪魔は、なぜか、さして有名でもない気象学者か、消防士あがりの一兵卒のような、平凡で勤勉なだけの男だと思えてならず、本当にそうだったらと思うと、なおのこと怖ろしい。

 そして神戸空襲では、焼夷弾のほか破砕弾も投下されている。
 破砕弾とは、日本の自衛隊も最近まで持っていたクラスター弾というやつ。一発あたり二〇〇キログラム分の破片弾が飛散し人体を傷つける。というより人間、バラバラになる。そんなもんがばらまかれたら。
 公式には「消火活動妨害弾」だそうだが、人を焼け死なせ粉砕することを、事業的に表記すればそうなる、ということだ。

●一九四五年二月四日、東京大空襲の一か月前に、選ばれた神戸で「火攻めの練習」。B29:八十五機、焼夷弾・破砕弾一七二・八トン投下。造船所に打撃を加え、家屋一八〇〇戸以上焼失。

●三月十七日、B29:三百六機、焼夷弾・破砕弾二三二八トン投下。神戸の西半分を焼き尽くす。

●五月十一日、B29:九十二機、二五〇キロおよび一トン通常爆弾、計四六〇トン投下。このときは工場地帯へのピンポイント爆撃だが、焼夷弾が足りなくなったからに過ぎなかった。工場のみならず役所や官舎が直撃を受け、死傷者が多かった。

●六月五日、B29:四百七十四機、焼夷弾・破砕弾三〇八〇トン近く投下。これは東京大空襲の倍近い量だ。神戸の東半分も焼失。作家の野坂昭如の家が焼け、養父が亡くなったのがこのときで、十四歳の野坂は『火垂るの墓』のモデルとなった妹とふたり、北陸へ疎開した。野坂の妹は、小説とは違い疎開先で亡くなっている。


 これらは規模が大きかったときの数字にすぎず、神戸市は計一二八回、うち空襲が本格化した一九四五年一月から敗戦までに一二五回の空襲を受けている。八月十五日にも空襲があったようだ。
 死者七四九一人、重軽傷者一万七〇一四人、罹災者を五三万八五八人とした『神戸市史』でさえ「この数字は確定したものでなく、実際はこれを上回る膨大な損失であった」と記している。同史によれば、人口千人あたりの死傷者率は東京や横浜より高かったともいう。※3

 本や資料を見て要約するのではなく、数字を書きうつしたのは、戦争体験はまったくないわが身に、数字がひとつの実感を与えたからだ。
 抜き書きメモをしていたら、人殺しの数字が、いかにもアメリカらしい大規模農業かマスマーケティングのように見えてきて、心底、恐怖を感じた。一二八回すべてのデータを、手書きで丁寧に書きうつしたら、その感覚はもっと強まるだろうか。

 そんなふうに思うのも、大学の先生をしている友だちから聞いた話が気になっていたからだ。
 教えている大学生に、日本が戦争に負けたことが理解できない学生がいたという。

「日本が戦争して負けたって本当ですか」と、講師に質問した専門学校生がいたというのは、その学校のべつの先生から伝え聞いたことがある。しかし直接経験で、しかも大学生、というのを聞いたのは初めてだ。
 米大統領の広島訪問でニュースにもなったから、日本に原子爆弾が投下されたことは知っているのに、日本がアメリカと戦争をしたといわれても得心がいかないうえ、あんな爆弾を二個も落とされて、負けないでいられるのかということも、わからないらしい。
 もし、わたしと資料を見たり数字を書き写したりすれば、その学生さんも多少は実感をもって納得できるのだろうか。※4

神戸空襲で被災した野坂昭如が語った戦災の両義性

 ボクはどうも、アメリカだけが悪いというのはいいにくい。

 一九四五年六月五日の神戸空襲で家が焼け、養父を亡くした野坂昭如は、そういっている。
 戦後二十七年め、一九七二年の同日の講演で。

 神戸という町は港があって、重工業があって、どんどん発展したわけなんです。昭和になってから。それはなぜかといえば、日本の膨張政策にそのまま身をまかせてたから発展した。その中にボクの父親なんかもいたわけなんです。しかし、同じように膨張政策でもって中国大陸で、例えば南京では何人死んだか。そういういい方をするならば、神戸の空襲では八千人死んだというけれど、帝国主義というものは、日本の中に生きてた人は自分自身の中の血に染ってたんです。
 だから、ボクはどうも、アメリカだけが悪いというのはいいにくい。結局、その中に生きていた人間はみんな死んでしまう。いま生きているのは、つまり、偶然に生きているだけなんです。
※5

 その四十年後、戦後七〇年を間近に、野坂はつぎのように書いて、ほどなく亡くなった。

 今、あの戦争は過去のことと片づけられている。戦争の話はもはや生き残りの愚痴に過ぎない。だが近頃あの時代の空気そのままに甦ろうとしている気配がある。多分、間違ってはいない。※6

 野坂はいう。「このままでは危ない。日本は踏みとどまることが出来るか。お仕着せじゃない資料はいくらもある。今こそあの戦争の犠牲者の声に耳を傾けよ」と。
 しかし「今やほとんどが戦争を知らない世代」なので「学校で教わるといっても、通りいっぺんの内容。教える方とてあやふやなのだ」といい、「戦争がいかに愚かであるか、数えきれない犠牲を出しながら何も伝わっていない」と憂えた野坂その人が、もはや最後の焼跡闇市派であった。阪神地域育ちの文芸作家で誰もが読むのは、そこで空襲を経験した野坂であるはずがなく、もちろん村上春樹なのだから。
 遺訓ともいうべき、このエッセイが書かれたときの首相、いまも同じ安倍晋三だが、その言動に「あの時代の空気そのまま」があると、野坂は実体験をもって看破したのだが、その憂いと警鐘は、安倍政権下の日本に満足だという大多数の人びとには、届かなかったのだ。

 かくいう、わたしも「戦争を知らない世代」である。「学校で教わるといっても、通りいっぺんの内容、教える方とてあやふや」だったに違いない。違いないとは、教わった記憶さえ薄い。野坂昭如の本だって、神戸空襲について調べていたら、さきほどの講演にいきあたったので、あわてて読み直しているくらいだ。
 とはいえ、わたしは「教える方とてあやふや」であることを責めないし、「何も伝わっていない」ことを怒りもしない。
 なぜなら、戦争の正しい教えかたなんて、あるはずがないからだ。あるというなら、その教えかたは絶対に疑わしい。

高架の銃撃痕をわが身の傷として見る

 日本人は歴史認識に欠けるといわれるが、それを聞くとつらい。日本史や世界史の試験は苦手だったし、それもあって不勉強だったから。
 歴史認識と暗記科目は違いますよ、という話もあるが、太平洋戦史ひとつとっても、出来事を関連づけた教養などろくにない。
 しかし、わが身に残る傷、つまり大きなケガの痕と、それをめぐる出来事のことは、けっして忘れることはできない。
 不慮の事故もなくはないが、たいていは自分の、そのときどきの世の中に対する鈍感さや、見きわめの甘さが原因なのだ。新幹線車内でカートをぶつけられて激しく出血し消えない痕などは、そのまま時代の風潮と結びついてもいる、というのは大げさ過ぎるとしても。

 神戸三宮の穴の周囲にめくれ上がった鋼板は、生傷の破れた皮膚のように見えた。
 ここを通って高架に目をやるたび、子どもの頃やらかした穴が開くほどのケガの痕が、なぜかシクシク痛み、いっぽう高架の穴からは、あのときとても恐ろしかった、黒い血が滲み出ているような気がしてならなかった。

 些細なことにこだわる性格なのか、自分に残った傷跡がつい気になる。同じ理由なのかどうか、周囲のモノについた傷も、よく目につく。
 自分の傷があらためて気になったとき、その傷の過去は瞬時に、動画のように記憶によみがえる。
 そして、自分とは関係ないモノの傷が目にとまると、その傷の原因を、時間をさかのぼって確かめずにはいられないような、困った感覚にとらわれる。
 
 野坂昭如は、「帝国主義というものは、日本の中に生きてた人は自分自身の中の血に染ってたんです。」といった。「その中に生きていた人間はみんな死んでしまう」と。
 わたしは、三宮高架の穴を見るたびに感じる、わが傷の痛みを、忘れないようにしようと思っている。わたし「自身の中の血に染って」いる、破壊と破滅の願望がもたらす災厄の証しとして。

商船三井ビルディングとシップ神戸海岸ビルの「穴」

 三宮の高架の「穴」だが、米軍戦闘機の機銃弾痕であると、活字になっている資料は、まだ見つけていない。
 もし後年の工事などでついた傷だった場合、この文はおかしなことになってしまう。
 そこで、本に載った形で紹介されていた別の場所を見つけ、そちらも見てきたので、書きたしておこう。

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写真はクリックで拡大 無許可転載拝辞

 戦前の美しい近代建築が、かなり残る神戸。海に近い地域にある大阪商船神戸支店(現・商船三井ビルディング)と、三井物産神戸支店(現・シップ神戸海岸ビル)の南面壁面。上の写真は後者のもの。ポートライナーの「貿易センター」から近いが、三宮交差点から歩いても十五分くらいで行ける。
 
 シップ神戸海岸ビルは、十五階建て新造ビルに、一九一八年竣工の四階建近代様式の外装──阪神大震災で全壊認定されたので外壁のみ保管してあった──を合体させた、いわゆるポストモダン型。バブル時代を代表するスタイルだが、現在形での完成は一九九八年。いまは、とてもおしゃれなテナントが入っている。
 南壁つまり海に向かっている側の、おもに一階壁面下側を見ていくと、明らかに修繕工事跡と思われる規則的な穴もあるが、それよりはるかに多い数の、不規則な丸い補修跡が散っている。三宮の高架と同じくらいの、直径四、五センチほどだ。
 断定形では書かれていなかったが、本に紹介されている。艦載機か、硫黄島から飛来したP51戦闘機の、機銃掃射の弾痕ではないか、ということだ。※7
 一階の出入口近辺に多いのは、海岸線に近づいた戦闘機から最初に見えた大きな建物群をとりあえず撃ったのか、それとも逃げる人がいるのを見て狙い撃ちにしたのか。

 背筋に冷たいものが走り、海側をいそいで振り返る。この日は梅雨の雨で、降りがやや強かった。
 野坂昭如の回想によると、一九四五年六月五日の大空襲の日は「高曇り」だったという。(ケ)


■大空襲から七十一年めの神戸で(2/5)──東福寺 は→こちら←
■大空襲から七十一年めの神戸で(3/5)──戦跡・電話交換手の殉職 は→こちら←
■大空襲から七十一年めの神戸で(4/5)──火叩キ は→こちら←
■大空襲から七十一年めの神戸で(5/5)──空襲跡・ふたつの「おほわだはし」 は→こちら←
■兵庫県加西市「鶉野飛行場」(特攻機基地) は→こちら←



【注】

※1 橋げた、あるいは駅舎や列車を撃ったのか、人を直接に狙った──神戸空襲では一般市民が火災を避けて鉄道高架を伝って逃げた場合がある──かどうかは調べきれなかった。

※2 一九四五年八月五日の昼過ぎ、新宿発長野行列車が、湯の花トンネル(現・八王子市)にさしかかったところで、米軍戦闘機二、三機の機銃掃射を受けた。五十二人以上が死亡、一三三人が重軽傷。
   列車は八両編成で、先頭の電気機関車と一両目客車が攻撃され、トンネルに2両目の中程まで入ったところで停車。トンネルからはみ出た残りの客車が、繰り返し機銃掃射を浴びることになった。当時の運行事情で列車は満員だったという。「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が一九九二年の同日に建立した慰霊碑などによる。

※3 本文で参考にした神戸空襲関係の本は、おもに以下。
   米軍機の数や、投下弾種、重量は、神戸市文書館のサイト「米軍資料にみる神戸大空襲」にある。

「神戸空襲体験記<総集編>」一九七五年
「日本の空襲 六 近畿」一九八〇年
「新編 神戸市史 歴史編W 近代・現代」一九九四年
「神戸大空襲─戦後60年から明日へ─」二〇〇五年
「日本空襲の全貌」二〇一五年
 
※4 被害者の体験談のほうが説得力があるという意見にも頷ける。が、若い人たちの感想を聞いたことがあるが、なぜかせっかくの体験談を、嘘っぽく感じることがあるらしい。語り手に無礼な態度は論外としても、聞く側の若い人たちを、一方的に責めることはできない問題だと思う。

※5 前出「神戸空襲体験記<総集編>」に収録されている。

※6 のさか・あきゆき 一九三〇〜二〇一五 引用は「シャボン玉 日本 迷走の過ち、再び」二〇一四年/毎日新聞社

※7「神戸大空襲─戦後60年から明日へ─」二〇〇五年(神戸空襲を記録する会・編/神戸新聞総合出版センター)


※二〇一七年八月十一日/二〇一八年四月/二〇一八年八月三日/手直し。
※二〇一九年五月十三日全面手直し。文脈は変えていません。管理用

(c)2015_2019 趣味的偏屈アート雑誌風同人誌 無許可転載拝辞

posted by 冬の夢 at 04:34 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 旅・徘徊・発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
戦争中の少女時代を宝塚界隈で過ごした義理の母(故人)も機銃掃射を浴びたときの恐怖をよく口にしていた。絶望的に欠乏していたガソリンを補うために児童の労力を動員した松根油(文字通り、松の根から取るテレピン油)採取が国策とされていて、ちょうどその作業をしていたときだったという。グラマン(だったと言っていたが、当時の軍国少女たちにとってアメリカの戦闘機は全て『グラマン』ということだったのか?)のコクピットに座っている人間の顔まで見えたらしい。本気で殺すつもりで撃ってきたのか、退屈しのぎに、ちょっと子どもを驚かすつもりで撃ってきたのか、それもわからないという。ともかく、少女であった彼女は、それこそ死に物狂いで木立の中に飛び込み、難を逃れることができた。そのときの飛行機はたった一機で飛んでいたらしいから、大方、偵察を兼ねていた飛行士が、ふとした「気まぐれ」で起こした行動だったのだろうが、それで子どもが死ぬのだから、つくづくやり切れない。
Posted by H.H. at 2016年06月30日 00:52
昨日時間があったので現地まで見に行ってきました。確かに鉄板が一定方向に規則的にめくれ上がっているから、言われてみればいかにも銃弾痕のように見えますね。転落防止の金網越しに見ていると、「歴史博物館」資料でも見ているような錯覚に陥りそうでした。「きっと貨物列車を狙ったのだろう」と努めて思うことにして、過去の話だとしても、よもや人の乗っている客車ではなかっただろうと願っています。無差別に人を殺す点においては、テロも戦争も同列だ。テロは断固許さず、そのくせ戦争は辞さないという愚劣な政治。自民党と連合は日本を「兵器の作れる国」に変えてしまったから、「戦争すれば金が儲かる」といって戦争を喜ぶ「死の商人」たちが跋扈する日もさほど遠くないのだろうね……
Posted by H.H. at 2016年07月08日 10:30
毎日新聞関西版の5月12日付の記事で神戸の元小学校教諭たちが「神戸・平和マップ」なるものをまとめた、というものを読み、神戸の高架の傷跡はやはり機銃掃射の跡だったのだ、と知りました。このマップは購入可能です。また、「神戸空襲を記録する会」では戦跡巡りウオーキングのようなイベントも開催しているそうです。マップは神戸学生青年センター(078・851・2760)で購入できるそうです。あきらめないで、忘れずに続けて行くしかないですね。
Posted by busca at 2019年05月18日 09:43
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