2016年03月02日

シベリウス(それともヘルシンキ・フィル)の思い出など

 シベリウス(1865-1957)という作曲家がいる。ご存知の人には釈迦に説法だが、フィンランドを代表する著名な作曲家だ。きっと交響詩「フィンランディア」などは中学校や高校の音楽の教科書にも解説されているはず。聞くところでは、この曲はフィンランドの「第二国歌」とも言われ、フィンランドに圧力をかけていた帝政ロシアによって演奏禁止にされた史実もあるらしい。また、交響詩「トゥオネラの白鳥」は、ベトナム戦争時のアメリカ軍による「ソンミ村虐殺事件」を扱った手塚治虫の短編マンガで重要な使われ方をしている。数多くの交響詩が残されているが、何と言っても7つの交響曲とヴァイオリン協奏曲が彼の代表作ということになるのではなかろうか。したがって(?)、我家にも彼の交響曲全集はすでに5セットもある。本国のフィンランドを度外視すれば、どういうわけかイギリスと日本での人気が非常に高いらしい。

 シベリウスの名を初めて意識したのは中学生の頃だ。たまたま第2交響曲のLPが我家のレコードラックにあり、「聞いたことのない名前の作曲家だな」と思いつつ、好奇心からそのレコードを聴いてみた。もしかしたらそれ以前に音楽の授業で「フィンランディア」を聴いていたのかもしれないが、その記憶は定かでない。

 確かに最初の出会いからシベリウスの音楽は、なぜかしら不思議に魅力的だった。よく言われるように、彼の音楽には独特の透明感と清潔さが感じられ、それが心地よかった。ところが、中学生がせっかく一人悦に入っているときに、「しかし、これは何とも映画音楽みたいな曲だな」と、お節介(?)な兄が横槍を入れたものだから、「そうか、これは映画音楽で、バッハやベートーヴェンと同じ土俵に上げてはいけない類の音楽なんだ」と、その偏見を素直に受け入れてしまったのがいけない、せっかくの出会いもそのときは実を結ぶこともなく、そのまま立ち消えになってしまった。しかし、そうは言っても、いったん気に入ってしまったものは映画音楽だろうと歌謡曲だろうと仕方ないではないか。高校生になる頃にはいつの間にかそのレコードを繰り返し聴くようになっていた。そして、大学受験を控えた頃、今はすでに一足先に鬼籍に入ってしまった我らが同人が「面白いクラシック音楽、ないかな?」と言うので、そのレコードを聴かせたところ、その彼が「こんな(素敵な)クラシック音楽もあったんだ!」と感動していたことも今では懐かしい思い出になっている。

 だが、シベリウスの音楽にまつわる思い出の筆頭は、何と言っても1982年1月〜2月に東京FMで放送されたヘルシンキ・フィルのライブだ。その頃は民放FM局でもクラシック音楽のライブ放送を熱心にしていたわけで、まさに現在とは隔世の感がある。時代は変わる…当然?このままでは憲法も変えられてしまうのだろう……戦争のできる国、ニッポン万歳となるわけか……いや、野暮な無駄口は慎もう。話を戻すと、初来日のヘルシンキ・フィルがお家芸のシベリウスを、オッコ・カムと渡辺暁雄の二人の指揮者に率いられて披露するというのだから、クラシック愛好家の間では非常に評判になっていた。今CDになって聴くことができる音源は、CDに記された情報によると、東京は厚生年金ホール(今はもうない!)、大阪はフェスティバルホール(こちらも建て替えの憂き目)、そして福岡サンパレスでの演奏だ。オッコ・カムが2番、3番、5番、6番を指揮し、渡辺暁雄が1番、4番、7番を指揮している。けれども、ぼくの記憶では、この連続放送の最初は、やはり第2交響曲と「フィンランディア」だったし、その会場は東京文化会館だったように思う。つまり、現在CDで聴けるライブ演奏と、ぼくが大学生のときにラジオのステレオ放送で聴いた演奏は、ひょっとしたら同じものではないのかもしれない。CDのクレジットには第2番の会場は大阪フェスティバルホール、「フィンランディア」の方は厚生年金会館と記されている。言うまでもないことだが、日本各地を巡回して、各交響曲はそれぞれ複数回演奏されたことだろうし、もしかしたら、担当する曲も二人の指揮者の間で(実は、この時の来日公演にはもう一人の指揮者が同行していたのだが、その指揮者による演奏はこれまでのところ聴いたことがない)交換していたかもしれない。現在のCDは、それら複数の演奏の選りすぐりであり、もしかしたら、1982年の放送の段階で、すでに編集されたライブ録音だったのかもしれない。当時のコンサートのパンフレットを確認すればすぐにわかることだが……

 いや、こんなことはどうでもよい瑣末なことで、とにかく、そのとき粗末なステレオセットから聞こえてきた「フィンランディア」は、決して大袈裟ではなく、鳥肌ものだった。まるでオーケストラが泣いているかのようにさえ感じられた。シベリウスの音楽に本当に感動したのはこのときが最初だったと思う。そして、ラジオ放送でそんなに感動したことは、その後も数える程しかない。指揮はオッコ・カムというフィンランド人で、そのときまではその名前さえも知らなかったのに、以後は決して忘れられない名前になった。

 それほど楽しみにしており、それほど感動したライブ放送だったのだから、当然録音したはずだ。が、その当時のテープは手元にはない。さらにいえば、シベリウスの全交響曲が順次放送されたはずなのに、その他の放送を聴いた確かな記憶もない。理由はわかっている。その年の1月末、ちょうどこの連続放送と同じ頃、当時住んでいた下宿が全焼するという災難に遭い、ほとんどの所持品が一遍に燃えてしまった。火元は階段を挟んだ隣の部屋で、ぼくの部屋は西の端にあり、西側に置かれた本箱に入っていた本だけが十数冊、消火用の水でビショビショになり、燃えかすの炭で黒く汚れて、それでも乾かせばかろうじて読める状態で残されただけだった。火事は朝方のことで、ぼくはパジャマ姿で焼け出され、古い木造家屋がいかにも頼りなく、呆気なく、灰になるのを寒空の下で見守っていた。同情した近所のおばさんが、「主人のお古だけど、これでも着ていなさい」と、やけに短く、しかし胴回りにはたっぷりと余裕のあるズボンと、確かに壮年が着そうな100%地味なセーターを着せてくれた。空はいかにも冬の東京の空らしく、すっきりと晴れ上がっていた。そして、ぼくの髪の毛は、自分でも知らないうちに炎を浴びていたらしく、一部がチリチリになっていた。この火事のおかげで、その年の早春の記憶はほとんど欠落している。ずっと後年になって、そのときの放送がCD化され、再会を果たしたときは本当に嬉しかった! 言うまでもなく、発売された4枚のCDはすぐに購入した。

 シベリウスの7曲ある交響曲の中で、一般に人気が高いのは第2番と、そして第1番らしい。実際にコンサートで演目に上がるのはこの2曲が圧倒的に多いようだ。一方、愛好家の間で「最高傑作」と見なされているのは第7番と第4番で、事実、第7番は先の第1番、第2番に次いで実演の機会が多いのではなかろうか。とはいえ、もしもファンの間で人気投票を行えば、おそらく第7番よりも第6番、第5番の方が僅差で金メダル、銀メダルとなるような気がする。が、いずれにしても、シベリウスの代表作と目される7曲の交響曲の中でこれら後期の3曲が最も傑出した作品であることは衆目の一致を見ている。けれども、個人的に愛着があるのはダントツに第3番だ。面白い(?)ことに、この第3交響曲は、シベリウス愛好家の間でも一番評判が悪い。つまり、一番不人気ということになるのだろう。こんなところで天邪鬼を気取っても仕方ないのだが、第1番と第2番を聴くことは滅多になく、もっぱら第3番と第7番ばかりを、そしてときおり第6番を聴いている。

 シベリウスといえば、上述のオッコ・カムのみならず、フィンランド出身の指揮者たちの大切なレパートリーになっているようで、評判の高い演奏が目白押しだ。真っ先に上がる名前はパーヴォ・ベルグルンドだろう。生前に録音した三種類の交響曲全集はどれも優秀らしいが、中でもヘルシンキ・フィルを振ったものはとりわけ評判が良いようだ。ベルグルンドの他にもユッカ=ペッカ・サラステ、オスモ・ヴァンスカ、レイフ・セーゲルスタムといった名前が立ち所に思い浮かぶ。けれど、ここでも若干天邪鬼な気質が影響するのか、ぼくが日頃ベルグルンド盤(ヘルシンキ・フィルとの共演と並んで、後年ヨーロッパ室内管弦楽団を振ったものも気に入っている)と共に愛聴しているのは、イギリス人指揮者コリン・デイヴィスのシベリウスだ。奇しくもコリン・デイヴィスも生前に三度シベリウスの交響曲全集を完成している。ベルグルンドがいかにもフィンランドの自然と気候を想起させるような、不思議に冷んやりとした、透明感の高い音楽を作るのに対して、コリン・デイヴィスの作る音楽は、もう少し明るく、深い哀しみを湛えた曲でさえも柔らかで伸びやかな感じがする。音楽が決して鬱屈しないと言えばいいだろうか。(だから、シベリウスの音楽に硬度や鬱屈を求める人には向いていないのかもしれない。)シベリウスを聴いてウットリとしたいならば、コリン・デイヴィスを聴くのがいいと思う。

 とはいえ、ヘルシンキ・フィル初来日の演奏を収録した4枚のCDは今でも別格だ。単に演奏の良し悪しばかりでなく(しかし、演奏自体も非常にいい!)、燃えてしまった下宿の風景、姉と兄から譲り受けた、人生で最初に所有したステレオ装置の視覚的映像、そのステレオで音楽を聴きながら友人と語り合った夜々の思い出、女々しくも毎晩枕元に置かれていた、好きだった女の子から届いた最後の手紙と写真、彼女の最後の言葉、それから、大学の先生から借りた貴重な本を燃やしてしまった罪障感、こうした様々なことが最も色濃く刻印されているような気がする。ちょうど手塚治虫の短編マンガの中で、ソンミ村で虐殺された農民一家の魂が世界各地で生まれ変わり、その生まれ変わりの子どもたちがシベリウスの「トゥオネラの白鳥」を耳にすると、それをきっかけにして前世の記憶を回復するというモチーフと似ている。確かに、シベリウスの音楽には忘れ去られて消失してしまった過去を回想するかのような、絶対に回復できないはずの過去が現前するかのような、不思議な感覚が付随しているような気がする。小さな単純なモチーフを微妙に変形させながら執拗に繰り返す彼の作曲技法の特徴とも関連しているのかもしれないが、ともかく、他の音楽では経験できない奇妙な魅力があるのは確かだ。
(H.H.)(後日手持ちのCDの写真を載せたいと思っています。)
posted by 冬の夢 at 02:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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