2016年02月08日

グルダの「テンペスト」問題、あるいはステレオのモノラル化

フリードリッヒ・グルダ(Friedrich Gulda)というピアニストがいる。いや、非常に残念なことだが、「いた」と言うべきか、すでに鬼籍に入っているのだから。とても好きな音楽家の一人だ。敬愛しているといってもいいくらい。

これまた極めて遺憾なことに、生前のグルダと個人的な面識は全くない。直接会ったこともない人を「敬愛する」というのも軽薄の誹りを免れまいが、数回聴くことができた彼のリサイタル、そのときの彼の語り(グルダはリサイタルでは自らマイクを持って曲目紹介や解説を行うし、特にアンコールでは観客のリクエストを促すこともある)、そして活字になったインタビューなどを通して、いや、何よりも先ず、彼の残した演奏を通して、音楽家としての彼の姿勢に(演奏技術や楽曲の解釈は言うまでもなく)いたく感心・感動した次第。ぼくの印象にあるフリードリッヒ・グルダというピアニストは、「確かにオレはコンサートホールでベートーヴェンのピアノソナタと一緒にジャズも弾くけど、パブやビアホールでもベートーヴェンやバッハを本気で弾くよ!」と言いかねない御仁だ。こう書きながらも、彼がミュンヘンの飲み屋でベートーヴェンを弾いている姿が脳裏に浮かぶ。(念のために書き添えるが、グルダは事実クラシックとジャズの曲目を一緒に並べたリサイタルをしばしば行ったが、その彼がパブやライブハウスでクラシックの曲を編曲なしに演奏したかどうかは、寡聞にして知らない。)とはいえ、音楽ジャンルの垣根を悠々と越境することが凄いのではない。(そういう人は他にも大勢いる。例えば、アンドレ・プレヴィン、あるいはキース・ジャレット、等々。)グルダの凄さは、彼の創り出す音楽の自由さにある。ピアノで自由を表現している、演出している、彼の音楽はそのように聞こえる。どんなに深刻な音楽を演奏しても、本質的に生き生きとして、伸びやかだ。

そんな彼の演奏するバッハやベートーヴェンに対して「軽すぎる」と非難する人たちもいるが、個人的には大好きだ。ベートーヴェンのピアノソナタは我家のCD棚に何セットもあるけれど、グルダ盤を取り出す回数はかなり多い。

ところが、この「ピアノソナタ全集」には実に深刻な問題が潜んでいる。以前このブログに書き記したように、吉田秋生のマンガに触発されて、ベートーヴェンの「テンペスト」(ピアノソナタ第17番、作品31−2)をあれこれと聴き比べをして以来、このグルダ盤に重大な瑕瑾があることに気づかされてしまった。グルダの「テンペスト」における演奏自体は文句なしに素晴らしい。評判のいいリヒテルの演奏も、昔からの「定番」であるケンプの演奏も、いや他にも良い演奏はいくらでもあるだろうが、グルダのこの演奏も非常にいい。第2楽章の美しさ、可憐さにおいては抜群ともいえる。ベートーヴェンのロマンティシズムにしばしば顕著な「晴れやかな孤独感」とでも言うべき情感を存分に味わうことができる。ところが、第3楽章に、とんでもない落とし穴が顔を出す。それがあるために、グルダ盤「テンペスト」の魅力を重々知りつつ、このCDを避けることにしているくらいだ。

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(これが問題のbrilliantレーベルの「テンペスト」)

問題の正体、それは第3楽章のおよそ1分44秒〜2分10秒くらいのところで、物理的な音が左チャンネルから右チャンネルに大きく傾いてバランスを崩しているのだ。つまり、1分44秒のところで音像が右に大きく跳ねるように移動し、2分10秒のところで元に戻ってくる。ついでに、この部分のダイナミックレンジもどうも不自然に広げられているようにも聞こえて仕方ない(もちろん、ピアニストが突然フォルテで弾き始める箇所だからそのせいかもしれないが、それを考慮してもかなり不自然に響く)。スピーカーで聴いていても気がつくほどのことだから、ヘッドフォンで聴く場合などは、せっかくの名演が台無しになるといっても過言ではない。

興味深いことに、この件に関してはネット上でもほとんど話題になっていない。ちょっと探ったところでは、同じ全集に入っている「ワルトシュタイン」で同じ現象で悩んでいる人もいたが、「テンペスト」の話題はみつからない。しかも、この音像の揺れは「どうせ再生装置の問題だろう」と一蹴されている。また、フォルテの箇所で音が割れるという苦情もある。が、いずれにしても、誰も深刻な問題だとは思っていないようだ。(ちなみに、この「ワルトシュタイン問題」はぼくが持っている全集でも確認できるし、実はその他のところでも、さほど顕著ではないにしても、微妙な音像の揺れやダイナミックレンジの不自然感は認められる。)個人的には再生装置の問題だとは断じて思わない。むしろ、プレスの段階でのミスなのではないかと考えているが、もっと恐ろしい可能性は、そもそもの編集段階での恐るべき不注意ということが考えられる。

グルダ以上にマニアックな(変わり者)アーティストとして、グレン・グールドというピアニストがいる。そのグールドがレコードを作る際に複数のテイクを編集して制作していたことは周知だが、複数テイクのいわば「いいとこ取り」でレコードなりCDを制作することはむしろ普通のことのようだ。アンドラーシュ・シフというピアニストはそれが嫌いで、彼はなるべくなら(もしかしたら常に?)「一発取り」で録音するらしい。そこで、このグルダのベートーヴェンだが、どうだったのだろう? グルダならどちらの可能性もありえるが、録音テープを編集していたとしたらどうだろうか。そのときのレベル合わせやミキシングの調整がいい加減だったのではないかという疑念が払拭できない。

ともかく、事の真相(深層)はわからない。確実なことは、手持ちのグルダの「テンペスト」の第3楽章で聴くに堪えない事故が起きているということだ。もどかしいのは、上述の通り、その第2楽章はとても気に入っており、本当は何度も何度も繰り返し聴いてみたい。このディレンマたるや、大昔、まだ髭も十分に生えそろわない頃、好きな女の子に電話をかけたくて仕方ないのに(当時は携帯電話なんて便利かつ不純(?)なものは存在しなかった−−思春期の娘さんをお持ちの現代の親は、携帯電話が秘める魔の所在を真面目に考え始めたら、恐ろしくて夜も眠れなくなるだろうな……言わば「携帯電話は眠りを殺した」か)、その彼女のお母さんの口調が滅茶苦茶に怖くて、なかなか電話ができないというのとどこか似ている(なんてことはないか)。とにかく、正直に言えば、いっそ思い切ってこの全集を買い直してしまおうかと思っているくらいだ。(ああ、ここまで書いて、またまた子どもの頃のイヤなことを思い出してしまった。当時、ぼくが受けた高校受験は「学校群制度」という極めて理不尽なシステムで、たとえ入試に受かっても、必ずしも自分の行きたい学校には行けなかった。簡単に説明すれば、二つの高校の志願者をひとまとめにして合格させ、その合格者を適当に二分してそれぞれの学校に振り分けるという、どう考えても「子どもの権利条約」に違反した乱暴なやり方だ。そして、案の定、ぼくは行きたい高校へは入学できず、何の親しみも感じられない、それまでは本当に名前しか知らなかった学校に倍近い時間をかけて通学することになった。そのとき(ようやく本題に戻ってこられる)「必ず行きたい高校に行ける確約があるなら、来年受験し直したいくらいだ」と本気で思っていた。もちろん、そんな確約はないので、高校時代はひたすら忍の一字の3年間、立派な不良高校生になり、今になってもまだこんな愚痴を言っている。)

長々と昔話を経由したのは、グルダの全集を買い直して音質が改善されるという確約があるなら、すぐにでも買い直すのだが、そのような確約はない、ということが言いたかっただけ。それでいまだにグダグダと逡巡を続けている。

そんな中、ある日、気がついてみればそれまで気がつかなかったことがいかにも迂闊だったと思えるのだが、その「当たり前」のことに思い当たった。「ステレオで聴くから不愉快なわけで、モノラルにしてしまえばそんな問題は最初からなかったことになる!」。

事の顛末は今しばらく先延ばしして、なぜこの単純な「解決法」がすぐに思い浮かばなかったかというと、従来慣れ親しんだアンプにはステレオ再生とモノラル再生を切り替える機能がなかったために、その存在を忘れていたということに尽きる。「モノラル、何それ?」という人がもしかしたらこの駄文を読んでいるかもしれないので、簡単に説明すれば、モノラル再生というのは左右のスピーカーから全く同じ音が出てくるが、ステレオ再生では左右のスピーカーからは微妙に(ときには明らかに)違う音が出ている。1960年代くらいまでの音楽再生は基本的にモノラルで、スピーカーは一つあれば十分だった。その典型は現在のAMラジオ放送、たとえ左右にスピーカーがあっても、その二つのスピーカーからは同じ音が出てくるはず。モノラルからステレオへの移行期に作られたアンプには、モノラル音源を正しく聞くために「ステレオ/モノラル切替」機能が必須だったが、今や一部のマニア=物好き=道楽者を除いて、モノラル音源なんぞを必要とする人はいないので、当然、最近の普及品アンプにはこうした機能はない。普段使用しているアンプは決して新しいものではなく、1970年代、80年代のものなのだが、やはりモノラル専用の機能はない。もっとも、それは「余分なものは可能な限り取り去る」というストイックなポリシーの反映で、「モノラル音源を聴くときは、一方のスピーカーケーブルを抜けばそれで済む話だ」という、何とも原始的な解決を薦めるような、そうした神話的Hi-Fiオーディオ哲学の影響だ。

というわけで、かれこれ4半世紀に渡ってボリュームとインプット切替 しかない「シンプル」なアンプを愛用してきたがために、ステレオ音源をモノラルに変換して聴いてみる試みに思い至らなかった。しかし、我家のリビングには数年前から紆余曲折を経てサンスイのAU-9900という伝説的?アンプが鎮座している。アナログレコード全盛の頃に製造されたこのアンプには当然ながらステレオ/モノラルの切替機能が付いている。いや、言い直そう。「付いている」どころか、「極めて充実している」と。通常は、左右に分離したステレオ音声をミックスしてモノラル化するだけだから、その切替スイッチには2段階しかない。ところがAU-9900のスイッチには5段階もあるではないか!

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(AU-9900のセレクター部分)

……どうなることかと胸躍らせた結果は、微妙というか、はたまた複雑怪奇というべきか……これまた突飛な喩えを使うことになるが、極々上のコーヒーを飲むときに、ブラックで飲むか、クリームを入れるか、クリームは入れずに砂糖を加えるか、はたまたクリームも砂糖も両方加えた方が美味しいのか……おそらく誰の耳にも明らかな変化は、ステレオ音源をモノラル化すると、少なくとも聴覚印象上の音の鮮度は落ちる。音から華やかさが失われると言ってもいいかもしれない。念のために他のCDでも確かめてみたところ、大なり小なり似たような変化が確認できたが、このグルダのCDでは音の鮮度変化がとりわけ顕著だった。詳しいことは理解できていないのだが、なんでも聞くところでは、ステレオ音源の左右のチャンネルをミックスすると、何らかの干渉が生じて、周波数に変化(減退)が生じるらしい。華やかさの減少はおそらくこのことと関連しているのだろう。もっとも、しばらく聴いていると、この華やかさを失った音もそれなりに楽しめるようになるから不思議だ。「ものは言いよう」だが、華やかさを失う=落ち着いた音色といえるのかもしれない。

しかし、この「落ち着いた音色」ではやはりどこかグルダらしくない。というか、慣れ親しんだ「軽さ」が影を潜めてしまったと言えようか。(あくまでもオリジナルのステレオ再生音とモノラル化した再生音を比較した上でのことだけれど。)そこで、「左右の音を混ぜてしまうから干渉が起きるというのなら、左チャンネルだけ、あるいは右チャンネルだけの音を取り出して聴いてみたらどうなんだろう?」と、AU-9900の機能をフルに活用してあれこれ試し始めたのがいけなかった。それぞれ驚くほど音色が変化する。左右を混合したのに比べ、片側チャンネルからだけの音を出すと、確かにはっきりと明るい、華やかな音が出る。しかし、他方、何かやけに腰の軽い感じもする。それにキンキンと耳障りな感じもする。それは特に左チャンネルからの音だけを使ってモノラル化したときに顕著だ。右チャンネルからだけの音と左右をミックスした音を比較すると、どちらが好ましいのか、正直なところ自分でもわからなくなる。やや控え見な、奥に引っ込んだ感じにはなるが落ち着いた音色を取るか、もう少し元気な、陽気な、しかし、どこか情報量が希薄になったように感じられる音色を取るか。ともかく、このグルダの全集を聴くときは、とりあえずモノラルにして聴く。左右の混合問題はその日の気分次第ということにしておくことにしよう。これがさし当たっての結論となったのだが、この長い馬鹿話のオチは実はちょっと別のところにある。

あれこれとステレオ装置をいじり回し、ヘッドフォンやスピーカーで比較を繰り返している内に、「そもそも本来の音源はどうだったのか? CDを買い換えたら、こんなバカな実験もどきをする必要なんてさらさらなかったのではないか?」という疑念があらためて沸々と滾ってくることをどうにも抑え切れなくなってきた。それで、グルダの「テンペスト」が収められている別のCDをついつい購入してしまった。元々は西ドイツのamadeoというレーベル名で世に出たシリーズだが、このオリジナルは今ではそう簡単には見つからない。たまたま見つけたにしても、おそらくプレミアが付けられていて、ちょっとした好奇心だけで買う気にはならない。が、どうやらCDを買い漁ることを宿命づけられているのか、こういうときに限って、奇妙(?)なものに出くわす。

これも随分と昔、まだ20代だった頃、グルダを聴き始めた頃のことだが、実は彼の音楽の魅力がちっともわからなかった。あるいはベートーヴェンのピアノ協奏曲の魅力が少しも理解できなかった。それで、せっかく大枚(当時の音楽CDはとても高価だった!)をはたいて購入した、グルダがウィーンフィルと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲全集(世間の評判も上々)を、気前よく姉に譲ってしまった。以来、馬齢を重ね、「いつかあの全集を姉から引き取らねば!」と、いじましいことを考えたりもしていたのだが、何と、何度も再発売を繰り返しているこの「名盤」の中に、第5協奏曲『皇帝』の「おまけ」として「テンペスト」が入っているではありませんか! これはつまりは一石二鳥。すぐに買え!という天の声に違いない。早速その翌日には我家のコレクションに仲間入り。

ところが、この「テンペスト」、何と!いわゆる旧録音で、元々モノラルで録音された、ぼくが比較したいと思っていたamadeo盤とは別物。(実は、そんなことではあるまいか?という疑念は当初からあったのだが……)これはこれで良い演奏だし、元々モノラルで録音された音源ということもあって、それなりに善い買い物ではあったにしても、当初の好奇心を満足させるには全く及ばない。こうなると、要するにどこか病気なのだろうと自覚はするが、どうしてもamadeo盤の「テンペスト」が聴きたくなる。もう仕方ない、禁断のネット・オークションにも手を伸ばし、ようやく手に入れたのがこれ:

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(日本製のamadeo盤)

これは「純正」ではない。amadeoの音源を元に日本で制作したものだ。だから、オリジナルではないのだが、ともかく、元々手元にあった「全集」の中にある「テンペスト」と比較すれば、その廉価盤CDに固有の問題なのか、そもそもの録音テープに問題があるのか、それくらいの「真相」は判明するだろうとの思いから、興味津々、戦々恐々、ワクワクドキドキで落札した。

その結果!
両者は厳密には同じではない! それどころか、単に音像の揺ればかりか、もっと遙かに恐ろしい事実に直面することになってしまった! 感嘆符の連発で、我ながら不潔な文章だと思うけれど、二つどころが五つぐらい使いたくなるほどの驚きなので、乞う御寛恕。両者の演奏時間を以下に記してみよう:

      brilliant盤 日本製amadeo盤
第1楽章  7:09       7:03
第2楽章  7:55       7:48
第3楽章  5:54       5:53

それぞれ数秒の違いだが、演奏時間に違いが認められるではないか。そして、その差異はそれぞれの楽章の長さに比例している。つまり、長い第2楽章で差異は最大、短い第3楽章で差異は最小ということ。となると、考えられることは(これまた、長くデジタルに親しむと、アナログ時代の記憶がこれほどに翳んでしまうという見事な証左だが)テープからカッティングするときに使った機械(つまり、録音テープ再生機)のスピードがわずかに違ったために(テープ・リールをモーターで回転させるのだから、ごくわずかな誤差が当然生じる)、結果として演奏(再生)時間に差異が生じたということだ。

考えてみればごく当たり前のことなのだが、どこかキツネにつままれたような気分にもなる。同じ音源のはずなのに、演奏時間が違うとは。西洋のスコラ学みたいだ。曰く、ipseとidemの違い、あるいは「同じ」とは何だ、何が同じの場合に「同じ」と言っていいのか、等々。

さて、肝心(?)の音像の揺れだが、これは明らかにbrilliant盤に顕著な現象だった。日本製amadeo盤でもダイナミクスの跳躍のようなものは認められたが、これは実際の演奏者の音量変化に録音機の方が正しく対応出来なかったのだろうと容易に予測がつく。音が割れるというのも同じことだろう。しかし、左右のバランスが崩れている(揺らいでいる)のは、デジタル処理の際のミスにちがいない。というわけで、そうであるなら仕方ない。やはりbrilliant盤のグルダを聴くときは、モノラルで聴く方が少なくとも精神衛生上は好ましいということだ。それに、しばらくモノラルで聴いていると、理由はよくわからないのだが、これはこれで本当に随分と好ましい音色のように思われてくるから不思議でならない。それに、パブでバッハやベートーヴェンを弾きかねないグルダの音楽を聴くときに、やれステレオだ、モノラルだ、演奏時間が数秒違う、音が割れる、云々といっても、それはいかにも野暮ということなのかもしれない。とすると、グルダの「テンペスト」を3枚も所有しているなんて、野暮天も野暮天、付ける薬なしといったところか…… (H.H.)

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(これが本来のamadeoレーベルの面構え)



posted by 冬の夢 at 23:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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