2016年01月25日

ブルックナー、ブラームス、ベートーヴェン、ヨッフム、スイトナー、サヴァリッシュ、メニューイン、ヴァント……みんなちがって、みんないい 2

(できれば1から読んで下さい)

シューマンはベートーヴェンの第4交響曲を「北欧神話の二人の巨人(第3番『英雄』と第5番『運命』)に挟まれたギリシアの乙女」と称したらしいが、ブルックナーやブラームスの交響曲を聴きまくった後で聴いたときの感じは、なるほどその通りで、溢れんばかりに健康的な若々しさを纏った朗らかな青年や少女たちが夏の草原を駆け抜けるような音楽だ。『フィガロの結婚』の序曲にもどことなく似ている。要するに、チャーミングな曲というしかない。(とはいえ、現代のせっかちな耳には不必要に長大と聞こえかねない序奏とそれに続く第一主題は、「乙女」というにはいささか重量感がありすぎるかな……)

そうなると、これまた例の「取っ替え引っ替え」が繰り返される。そして、ついに大発見! いや、すでに多くの人々にとってはとっくの昔から周知の事実で、ただぼくだけが知らなかったことに過ぎないのだが。CD棚の片隅にギュンター・ヴァントが北ドイツ放送交響楽団を指揮したCDが長年(もうかれこれ15年もの間)鎮座していた。この大指揮者の評価が日本で高まったのは1990年代だったろうか。ともかく随分な高齢になってから急に有名になったような記憶がある。特に彼のブルックナーは決定版のような扱いだった。しかし、当時はブルックナーに対しては不感症だったので、我家のCD棚に忘れ去られていたのはモーツァルトの「ポストホルン・セレナード」とベートーヴェンの第4交響曲がカップリングされた2001年のライブ録音。今では廃盤になっているらしいこのCDも、当時は鳴り物入りで宣伝されていた。このCDを購入したときの目当ては第4交響曲の方だったはず。おこがましいことに、その演奏でこの高名な指揮者が創り出す音楽の質を自分なりに見極めよう(聴き分けよう)としたのだろう。そして、そのとき「やたらと筋肉質の演奏だな」という印象を得て、そのまま「どうやらヴァントはぼくの好みではないね……」と判断し、その後はほとんど触れる機会もなかったというわけだ。それがこの正月に聴いたときには、本当に決して誇張ではなく、座っていた椅子から思わず飛び上がらんばかりに感動した。いや、させていただいた。かつて「筋肉質」「マッチョ」「いかつい」といった紋切り型文句でレッテル貼りした音楽は、「均整の取れた」「理知的な」「抑制の利いた」「清潔な」しかし極めてヒューマンな音楽になっていた。それにしても、ワインじゃあるまいし、本棚に長期保存している間にCDの音楽が熟成するはずがない。変わったのはこちらの耳だ。あるいは音楽を聴くこちらの態度だ。

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こうして、ヴァント先生の素晴らしさを堪能し、今度はベートーヴェンの第4交響曲を手元にある20枚以上のCDであれこれと聴いていると、言うまでもないことかもしれないが、高名なオーケストラは、なるほど確かにそれなりにふくよかな音を奏で、マイナーなオーケストラは幾分痩せ気味な音色になるという傾向が確認できる。ところが、ここでちょっとしたパラドクスが生まれる。というのは、痩せた音色には痩せた音色ならではの不思議な味わいがあり、ペーター・マークが指揮するパドヴァ・ヴェネト管弦楽団やメニューインが指揮するシンフォニア・ヴェルソニアが演奏する第4番には本当に他には代えがたい魅力がある。多くのクラシック音楽好きからは「フフン」と鼻で笑われるのかもしれないが……ジュリーニの、はたして水が本当に動いているのかと怪しく感じるほど悠々とした大河の流れにも似た長大なブルックナーも美しいけれど、晴れた早朝の森の中にひっそりと存在する湖を想起させるレーグナーのブルックナーも捨てがたいのと同じことだ。あるいは、あえて突飛な喩えを用いれば、マリリン・モンローの魅力と田中絹代の魅力を比較しても仕方ないし、そのような単純な比較がはたして可能なのかということにもなるだろう。

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(メニューインの全集、5枚セットで1,000円くらいだった!)

さらに、例えば、ティンパニの聞こえ方とか、木管(フルートやオーボエ)と弦のセクションの音量バランスとか、ちょっとした内声部の響き方の違いなどに思いを馳せている間に、ふともう一つの興味深いことに思い当たった。「しかし、これらの違い、各セクションのバランスや、例えばフルートの音量や音色、あるいはオーケストラ全体の音色などは、指揮者の意図ももちろんあるだろうし、各演奏家の個性や技量も深く関係するにしても、そもそもマイクのセッティングや録音技師のミキシングの問題もあるだろう。設置したマイクの本数だって影響しているはずだ。いや、その前に、もっと単純かつ重大な要因として、こちらの再生装置の性能や性質といったものがある。事実、ヘッドフォンを取り替えだだけで、音色はこんなに顕著に変化するではないか!」実際、ヘッドフォンを交換すると、聞こえる音楽の音色は激変してしまう。先刻まで耳障りだったフルートは不思議に沈んだ音色にもなるし、ティンパニの響きはスティックを持ち替えたのかと感じられるほどだ。

とすると、良い演奏・悪い演奏といったことを考えるときに、いったい人々は何を聴いていることになるのだろうか? オーディオ装置を取り替えるだけで印象が変化しかねないのだとしたら。そういえば、カラヤンという往年の大指揮者は録音技師に対してもかなり注文をつけた指揮者だったと耳にしたことがあるし、また別の有名な指揮者はレコード録音を酷く嫌悪したとどこかで読んだ記憶がある。ということは、自分たちの音楽が録音に際して大きく脚色される危険性を演奏家自身が強く意識していたということだろう。

気がついてみれば当たり前のことだ。そもそも、実際のコンサートであっても、座る席によって音の響き方は違うし、会場が異なれば、これまたそれだけで全然違う響きになってしまう。だからこそ、熱心な音楽ファンは会場にまでこだわるわけだ。そして、確かに同じ日に同じ演奏を聴いたのに、一人が「あのフルートがもう少し頑張っていれば世紀の名演奏だったのに!」と言うのに対して、もう一人が「木管は良かったよ! 問題はむしろコントラバスだったのでは」と返答するような事態だって、必ずしも小説やマンガの中だけの話ではないだろう。

「そうは言っても、テンポだけはかなり客観的な問題ではないか? 速い演奏と遅い演奏では、どうしたって半ば生理的な好き嫌いの反応が生じてしまうのではないか?」という問題を再び蒸し返すつもりはない。ただ、20代の頃は、曲のテンポ設定は決定的に重要な要素、おそらく最重要な問題だと自分自身も強く思い込んでいた。「この曲をこんなに速く演奏する指揮者はアホだ」とか、「この楽章を遅く演奏する指揮者なんて、もう二度と絶対に聴かない」とか、そんなことを額に青筋浮かべて喋り散らしていたような気がする。それを優しく、しかし決定的に窘めてくれたのはメニューインだった。メニューインがシューベルトの「グレート」(彼の二つあるハ長調の交響曲のうちの長い方)を指揮したのをライブで聴く機会があった(オーケストラは新日本フィル)。それが、とてつもなく速い、いや、異常に速い演奏で、最初はほとんど悪い冗談と感じられるほどの違和感を覚えたにもかかわらず、曲が進むに連れて、その速さにもそれなりの説得力があることが、それこそどうしても否定しがたい説得力があることが次第に明らかになっていった。(その日以来、メニューインは、他の誰が何を言おうと、ぼくには偉大な音楽家の一人となっている。)ちなみに、そのとてつもなく速かった「グレート」の演奏は、新日本フィルの演奏者たちの間でも伝説になっているらしい。そりゃそうだろう。多くの指揮者たちが、健康とはいえ年の頃は80歳くらいの老人の足取りで始める冒頭のアンダンテを、メニューインは若さと元気に溢れる青年のアンダンテにしてしまったのだから、フィナーレのallegro vivace「元気いっぱいのアレグロ」では、他の指揮者たちの演奏でもエンジン全開で走らなければならないところを、メニューインの指揮では「もっと、もっと、ずっと速く!!!」と急かされるわけで、おそらく弦のセクションでは「そんなこと、音符をすっ飛ばさないと弾けません!」という事態になっていたに違いない。だから、あの演奏がどれほど痛快であったにしても、もしかしたら、もう二度とあんな「非常識な」演奏には巡り会えないかもしれない……ともかく、その体験以来、自分のテンポ感覚というものも決して絶対ではないことを肝に銘じている。

そうなると、とりあえずは意味のありそうな結論は二つだろうか。一つは、こと芸術に関しては何かを嫌いになっている暇なんてない。何かを否定している時間があるなら、その時間を使って別の何かを肯定している方がずっといい。もう一つは、金子みすゞにならって、

鈴と 小鳥と それから私
みんなちがって みんないい

深呼吸して、こう呟いてみる。  (H.H.)
posted by 冬の夢 at 01:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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