2016年01月20日

鶴岡八幡宮には「カマキン」がよく似合う 〜 神奈川県立近代美術館のこれから

※通称は「カマキン」でした。「カマビ」と間違って思い込んでおりましたので訂正します。

古式ゆかしき鶴岡八幡宮。源平池の向かって左側が平家池で、その水面にモダンな佇まいを映して建つのが神奈川県立近代美術館。坂倉準三が設計した建物は鎌倉館にあたり、鎌倉別館と葉山館が後になって別の場所に建てられた。
この鎌倉館は「カマキン」と通称されていて、平成二十八年三月をもって閉館が予定されている。その最後の展覧会が『鎌倉からはじまった。1951ー2016』(※1)。昨年の春からスタートした三部制の展覧会は、現在から開館まで時間を逆回しして美術館の歴史を振り返る構成だ。その『PART3 1951ー1965 「鎌倉近代美術館」誕生』を見に行った。
会期終了まであとわずかとなった休日とあって、切符売り場には行列ができ、館内も多くの人で賑わっていた。でもそれがちっとも不快じゃない。絵が好きな人たちが、好きな絵を見に来ていて、実は絵が好きな人は世の中にたくさんいる。そんな好ましい賑わい方だった。
都心で開催される大量動員の展覧会では、絵を見ることさえ、チケットを買って会場に入った行列の流れそのままの順番通り。ひとつの絵をじっくり見ようとして立ち止まることは許されないし、ちょっと離れて眺めて見るなんて絶対に無理。絵より人の数の方が圧倒的に多いのだから当たり前だ。
ところがカマキンは混雑しているけれど、人の流れが全然違う。陳列順にきっちりと進む人もいれば、ササーっと飛ばしながら自分のお気に入りの作家のところで立ち止まる人もいる。作品に顔を近づけて細部に見入る学生、真ん中のソファ(座面のヘタレ具合は半端ではない)に腰掛けて行き交う人越しにひとつの絵と向き合う壮年の男性、絵の前で作品にまつわる思い出を語り出す女性二人組……。
美術好きの人たちが思い思いの休日を過ごしに美術館にやって来た、というだけのことだが、そこには美術館に相応しい熱気が立ち込めていた。たぶん、それはカマキンがこの地にオープンしたときと同じ、静かなる熱さであったのだろう。

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神奈川県立近代美術館が建てられたのは昭和二十六年(1951年)。美術館の歴史をひもとくと、その経緯は「1949年に県在住の美術家、学者、評論家たちが集い、第二次大戦後の混乱と再生の時代に、文化芸術の指針を示す活動の必要性を感じて美術館建設を目指し、神奈川県美術家懇談会を設立したことに端を発した」(※2)のだと言う。敗戦からまだ数年しか経たない時期に、美術館を、しかも近代美術館を建てようとしたのだから、その志に驚くしかない。
神奈川県は鶴岡八幡宮から賃貸借契約で土地を確保(これが今日の問題につながることになる)し、美術館の建物はコンペでその設計者を決めることになった。選ばれたのは坂倉準三。ル・コルビュジエに師事した坂倉は、師が提唱した建築の原則に従って、ピロティを活用した建物をつくった。
二階部分を柱が支え、一階は外部空間と一体になった構造。天井から自然光を採り入れた二階で絵画を展示し、一階は開放された空間の中で彫刻を置く。そうした坂倉の意図はともかくとして、この建物の魅力は八幡宮の環境に溶け込んだナチュラルな存在感だと思う。木々の高さを超えずに横に広がる建物は、森の中に軽く浮いているように見える。コンクリートよりも大谷石の肌触りが印象に残り、モダンなフォルムと色遣いは森や平家池の緑と相性がいい。
今月がそうであるように、手水でお清めをして八幡宮に詣でたあと、破魔矢を携えながらカマキンに寄って所蔵品の展示を見る。そんな楽しみ方がごく当たり前の流れになっているところが、八幡宮にあるカマキンの魅力だったのではないだろうか。

そのカマキンが閉館する。
最大の理由はカマキンが建つ土地の賃貸借契約期間が終了すること。戦後の混乱期に神奈川県が鶴岡八幡宮と交わしたのは、六十五年間の定期借地契約。当時は永遠と思われただろう六十五年という年月が経ち、現実としてその期限を迎えてしまったのだ。
六十五年の歳月を建築物の耐久期間として捉えてみると、これはもうかなり危険水域まで来ていると言わざるを得ない。事実、建物の細部を見るとヒビ割れや腐食が否応なしに目につく。
では、次の世代に向けて、いっそのこと建物を解体して建て直し、カマキンを再生させるのはどうかと考えるのであるが、しかし、建て直すことは不可能なのである。
鶴岡八幡宮境内は国の史跡に指定されており、史跡は地方公共団体の教育委員会管轄下に置かれる。当事者である神奈川県教育委員会は、カマキンについて以下のような発表を行っている。

・鶴岡八幡宮境内は、昭和四十二年に国の史跡に指定され、鎌倉市教育委員会が策定した史跡の保存管理計画では、「史跡の中では、宗教活動あるいは史跡にとって重要不可欠なもので、かつ、史跡にそぐうもの以外の現状変更は認めない」とされている。
・そのため、建設後六十年以上を経過し、老朽化が顕著な建物を美術館として改修することは難しいため、県は、鶴岡八幡宮との借地契約が満了する平成二十八年三月末で、美術館としての活動は終了することとしている。
・借地契約では、契約満了後に県が建物を除却し、更地にすることになっているが、建築関係団体等から、故坂倉準三氏が設計した近代美術館の建物について保存要望があることから、現在、県と鶴岡八幡宮で借地契約終了後の建物の扱いについて、協議を行っている。(※3)


要するに、新しい美術館を建て直すことは、鶴岡八幡宮が国の史跡であるから出来ないということらしい。一方で「美術館として改修することは難しい」というのは曖昧な表現だが、たぶん神奈川県としては、鎌倉別館と葉山館を使えば十分な美術館活動が継続できるというのが本音なのだろう。老朽化した建物が使用に耐えず、かつ、その敷地が借り物であって契約満了を迎えたとなれば、普通に考えれば更地にして八幡宮に返すのが妥当な流れである。
ところがそうならないのは、カマキンがあまりに八幡宮に似合っているからなのだ。
上野公園の中に国立西洋美術館があるのと同じように、鶴岡八幡宮に県立近代美術館が併設されていることに違和感を持つ人は皆無だろう。逆に、カマキンが忽然とその姿を消してしまった図を想像してほしい。それは思い浮かべることすら怖ろしくなる光景であって、平家池の向こう側はポッカリと抜けた虚無となり、参道の左へ折れる小径の先には何もない空地が広がることになる。
坂倉準三の作品価値があるから建物を残すべきだとする建築学会的な論議もある(※4)ようだが、ことカマキンに関しては、本質はそれではない。あくまで市民レベルの生活者視点で考えたときに「なくなることが想像できない」くらい八幡宮の境内に馴染んでしまった建物をあえて取り壊すことはないではないか、という素朴な感覚の話だ。それは周辺住民であろうと、たまにしか訪れない美術愛好家であろうと、同じように感じるのだと思う。
幸いにも、カマキンは美術館としての活動は終えるが、その建物は残されることがほぼ確実な状況になっている。土地の賃貸借契約が終了した後、神奈川県が建物を鶴岡八幡宮に移譲し、協同して耐震工事を行う。その建物を「鶴岡八幡宮は、宗教活動の中で文化的な施設として社会貢献も視野に入れた活用を図っていく方向で検討している」(※5)そうである。とりあえず、ひと安心というところだ。

老若男女幅広い動員で溢れかえった会場は、カマキンへの想いをそれぞれのやり方で伝える空気で満たされていた。
親子が揃って中庭にあるイサム・ノグチのコケシの彫像と並んで記念写真を撮っている。出口付近にはカマキンへの思い出コメントコーナーが設置されていて、子どもたちがカラーペンで熱心に書く様子がある。ピロティの柱を写真におさめる学生がいるその二階では、いつもは空いている喫茶室が満席になっていて、老夫婦が並んで待っている。
もちろん、展示内容も充実している。最後の展覧会に相応しく、六十五年に及ぶカマキンの美術品収集活動の集大成とも言える作品が並んだ。特に、松本竣介の「立てる像」と古賀春江の「窓外の化粧」「サーカスの景」の前には、立ち去り難く絵を眺める人々が多く見られた。
最後の展覧会を開くにあたって、カマキンの館長は次のように語っている。

そのときようやくタイトルが、はじめはぼんやりとですが、徐々にはっきりと浮かんできました。
「鎌倉からはじまった。1951-2016」
「さようなら」「さらば」「グッドバイ」とお別れの言葉をかけるのではなく、この美術館に命を吹き込んできた尊敬すべき先輩たち、そして、美術を愛し、この美術館を支援してくれた方々と、その出発の意義をもう一度、展覧会というかたちで確認し、それを踏まえて未来を模索していきたいと考えたのです。(※2)


建物の主が、神奈川県から鶴岡八幡宮に変わるカマキン。美術館ではない何かになっていくのだろう。また、八幡宮を訪れたとき、境内をそぞろ歩きながら、池越しにカマキンを眺めてみたい。ごく自然にカマキンの未来を見つめていきたいと思うのである。(き)


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(※1)『鎌倉からはじまった。 1951−2016』
    PART1 1985−2016「近代美術館のこれから」 平成二十七年四月十一日〜六月二十一日
    PART2 1966−1984「発信する近代美術館」 平成二十七年七月四日〜十月四日
    PART3 1951−1965「鎌倉近代美術館」誕生 平成二十七年十月十七日〜平成二十八年一月三十一日
(※2)神奈川県立近代美術館HP「館長からのメッセージ」より。
(※3)神奈川県HP「県立近代美術館鎌倉館の建物調査結果について」(平成二十七年一月二十三日記者発表資料)より。
(※4)一般社団法人日本建築学会は、神奈川県知事宛てに「神奈川県立近代美術館の保存活用についての要望書」を平成二十五年十二月十九日付で提出している。
(※5)平成二十七年九月十一日の神奈川新聞は「八幡宮に移譲、保存へ 県立近代美術館鎌倉本館」という記事を掲載した。





posted by 冬の夢 at 00:55 | Comment(3) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
しつこい肩こり、鉄棒で遊べなくなったこと、ちょっとした物忘れ等々もさることながら、自分が老いたことを痛感させるのは案外とこのようなニュースだ。「あの美術館がなくなるんだ……」正に歳月人を待たず。
ブログ記者と同じく、建物が残ることはせめてもの慰めだが、建物を残すのに美術館としては消滅するということがどうにも解せない。短いとはいえ「歴史」ある美術館を消してしまう。こうした事実に日本という文化の野蛮さが如実に示されると言っては言い過ぎか? でも、これは確かに野蛮な所行だと思う。多くの人の記憶を乱暴に奪うことでもあるのだから。
Posted by H.H. at 2016年01月21日 15:38
 完成したばかりの「かまきん」でデートする場面のある映画があります。
 中村登監督の「旅路」(松竹)。一九五三年公開。よかったらご鑑賞ください。
 佐田啓二が岸恵子をさそって入館。佐田のセリフは「いちど入ってみる価値はありますよ、絵なんか見なくたっていいんだから」。
 上の文中にあるイサム・ノグチの作品を前にしてのやりとりもあります。
 うきうきと鎌倉の陽光に照らされてはじまった恋愛がビタースイートに展開していくのは、戦後の人心の荒廃と浮わつきを嘆き続けた大仏次郎の現代小説が原作ゆえ。
 大仏の現代小説は、どこか教訓的というか説教風というか(映画では日守新一の演じる没落旧華族が担当)、いま読むとしんどい所もありますが、こうなってみると、もうすこし聞いておくべきだったんでしょうね、大仏のいうことを。
Posted by (ケ) at 2016年01月22日 12:40
いろいろな意見のあることだとは思いますし、関係者のコメントもそれぞれの立場でそれぞれなことも理解できます。でも私にとって永遠にナゾなのは、なぜ、「まず第一に」美術館として残すにはどうしたらいいかということを考えないのか、ということです。残念でたまりません。かくなるうえは、鶴岡八幡宮が市当局以上の見識をもって、「これまでどおり、市民に愛される美術館として運営していく」と決めてくれることを神仏に祈るばかりです。
Posted by maya at 2016年01月22日 20:28
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