2016年01月06日

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 〜 ジョージ・ルーカスから「精神のリレー」はされたのか

スター・ウォーズシリーズ最新作『フォースの覚醒』が公開された。エピソード7に相当し、1977年に始まった初期の三部作(『スター・ウォーズ』『帝国の逆襲』『ジェダイの復讐』)から時系列でつながる新作だ。
これがとにかく面白い。映画の役割をまず観客を楽しませることだとするならば、百点満点に近い出来栄え。双葉十三郎先生の採点でも☆☆☆☆は十分にいけそうなくらい、あっという間に二時間が経ってしまうSFアクション編に仕上がった。
この圧倒的な娯楽感を持つ『フォースの覚醒』を見ると、エピソード1に巻き戻した第二期三部作(『ファントム・メナス』『クローンの攻撃』『シスの復讐』)に今ひとつ乗れなかった理由がはっきりしてくる。
『フォースの覚醒』にあってエピソード1・2・3になかったものは以下の通り。

(1)主人公が明るく、ユーモアがある
(2)どの星のどこでどんな対抗勢力が戦っているのかがわかりやすい
(3)コンピュータグラフィックが目立たない
(4)人物、ドロイド、兵器など登場する構成要素に馴染みがある

『フォースの覚醒』から登場したレイ(デイジー・リドリー)は新たなるヒロイン。自立したしっかり者の一方で、間違えてスイッチを押し、格納庫に閉じ込めていた怪物を解放してしまうようなお茶目さがある。アナキンがどこか薄暗く、見ていても陰鬱になるばかり(ダークサイドに堕ちるのだから当然だけど)だったのとは真逆なキャラクターだ。
舞台となる惑星が明快なのもいい。エピソード1から3では、話が入り組んでいるせいか、たくさんの惑星とその惑星の中での場所移動が多くて、地理的感覚を掴めなかった。
それらの場所の多くが宇宙国家の大都市で、俳優以外はすべてデジタル処理で描かれた架空映像が頻出していた。そこにあえて「人間」種族の割合を減らして「宇宙人種」を配するので、これまたコンピュータグラフィックによる架空人物が乱立。クローン戦士なんてのが大量に出てきた日には、もうほとんどアニメと同じで、見ていても目が疲れて仕方なかった。
『フォースの覚醒』には宇宙都市は出てこないし、砂漠や森、雪原や海などの自然の風景をうまく使っている。惑星の印象は一発でわかるし、何しろ目に優しい。CGキャラクターは酒場の女主人だけで、あの鬱陶しいジャージャービンクスみたいなのが出て来ないのでセイセイする。
そして、決定的なのは、ルークとレイアとハンソロが出てくること。この三人こそがスター・ウォーズそのものなのであって、その馴染み感は第二期三部作に全く欠けていた(三人が生まれる前の話だから当然だけど)。C-3POもR2-D2も出てくるし、チューバッカもいる。スターデストロイヤーは砂漠の真ん中に墜落したまま廃墟になっており、レジスタンスが乗っているのはあのXウィング・スターファイターだ。
エピソード1・2・3にはなかったものが、『フォースの覚醒』ではきっちりと押さえられている。昔は良かったという懐古趣味から言うのではない。最も大切な世界観が継承されていることが重要なのだ。その点においても、『フォースの覚醒』は世界中のスター・ウォーズファンが待ち望んだ正統的な連作続編だと言えるだろう。

映画として面白かった『フォースの覚醒』だが、注目すべきなのは、スター・ウォーズの生みの親であるジョージ・ルーカスが製作にタッチしていないことだ(※1)。
これまでの六作品では必ず製作総指揮・監督・脚本のいずれかを担当しており、ルーカスはスター・ウォーズの実質的な「作者」であった。『フォースの覚醒』の監督は、J・J・エイブラムス。1966年生まれだというから、第一作の『スター・ウォーズ』を十一歳のときに見ているはずだ。その少年がプロの映画監督になり、シリーズ最新作を作っている。反対にルーカスは作者の立場から去り、エイブラムスの作り方に口を出すことはなかった。これを世代交代とみるか、資本争いと呼ぶのか、はたまた精神のリレーと捉えるか。その解釈によって『フォースの覚醒』の後味はずいぶんと変わってくるはずだ。

世代交代とは、師から弟子へ、先達から後進へというふうに、同じ集合体の中で起こるべきもの。ルーカスとエイブラムスは一度も仕事上の接点はないから、世代交代とは言えなさそうだ。
資本争いと呼ぶのは、かなり的を射ていて、『フォースの覚醒』の製作が始まる直前の2012年、ルーカスは自身の映画製作会社である「ルーカス・フィルム」をディズニー社に売却した。40億ドルとも言われている買収額によってシリーズの映画化権を手に入れたディズニー。完結していたはずだったスター・ウォーズに新たにエピソード7が作られることになったのは、資本がディズニーに移ったからだ。ルーカスは新作の出来を酷評しているようで、「私がスター・ウォーズの創造主なのに、ディズニーは古いタイプの映画を作りたがっている。私はスター・ウォーズを奴隷業者に売ってしまったのだ」という趣旨の発言をしている。(※2)
ルーカスにしてみれば、スター・ウォーズは自身のイメージに合わせて新作ごとに新しい創造を試みる場であったのだろう。それをエイブラムスはファンが待ち望む観客視点の作り方に舵を切った。だから、エピソード1から3は暗く沈んだ三部作になり、『フォースの覚醒』が本来のシリーズらしいスマッシュショットを決めることが出来た。
ところが、ディズニーへの売却が決まった当時、ルーカスは「これでシリーズは今後100年作り続けられる」と語っていたらしい。つまり、自分がいなくなってもスター・ウォーズという作品が誰かの手によって継承されることをルーカス自身が望んでいたということである。
そうであるならば、作者がルーカスからエイブラムスへ変わったことを「精神のリレー」だと捉えることが可能になる。
「精神のリレー」とは、埴谷雄高が提唱した考え方。自分が出会った文学なり哲学なりがあり、それを契機に考えることがあるとしたらば「人類は何か考えたらお前が発展させろ」と受け止めなければならない、と埴谷は言う。ドストエフスキーを読んだ埴谷はこう感じたそうだ。

「ドストエフスキイの作品のなかにある目に見えない力強い放射があつて、ある課題をつきつけながら"お前もリレーしろ"と命じているというふうに私は理解しています」(※3)

このアプローチで『フォースの覚醒』を解釈するならば、エイブラムスは「ルーカスの作品の強い放射があって、シリーズ製作をリレーしろと命じられた」ということになる。エイブラムスはルーカスのスター・ウォーズの精神を後世に伝えるためにリレーしているというわけだ。
シリーズにおいて、「精神のリレー」が成り立っているように感じるのは、世界観の共有が前提にあるからだ。
作品が持つ「世界」を受け手が共通に理解すること。例えば、江戸時代の庶民が歌舞伎を見に行くとき、江戸の実話が鎌倉時代に置き換えられて語られるその虚構の「世界」を見物たちは十分に理解していた。そこに登場する人物は、庶民にとっては当たり前の存在であり、身をやつしているだけで実は誰それだったというオチもお約束として見物の間で共有されていた。曽我兄弟ものなどがその代表格で、「実は曽我十郎」というシチュエーションは毎度お馴染みの展開なのだ。
それを考えればスター・ウォーズシリーズもまったく同じであって、実は親子、実は兄弟、という人物設定が頻出してきた。そして観客はそれに戸惑うことなく、その世界を受け入れている。歌舞伎は江戸というひとつの限定された文化圏での事象だが、スター・ウォーズは風土や言語が異なる様々な国々において、その世界観が等しく共有されている。他にどんなものがこうした地球規模で受容されているだろうか。こんなにすごいことはない。
『フォースの覚醒』もそうだが、スター・ウォーズシリーズには映像的創造性はさして必要ではなく、どちらかと言えばその登場人物設定とストーリー展開が世界観のほとんどを占めている。常にカメラは動いていて、各キャラクターごとのテーマ曲が流れる。映像表現のスタイルは明らかにワンパターンの繰り返しだ。一方で、映画でなければこれほどグローバルに拡散しはしなかったのだろう。物語を伝えるのなら本にすれば足りるのだが、映画以外の媒体で全世界に波及させることは不可能だったに違いない。
惜しいのは、先のルーカスの「奴隷業者」発言にもある通り、一番先に生み出した創造主がまだ存命であり、後進による「精神のリレー」を批判してしまえる立場にあること。ルーカスにしてみれば、シリーズの世界観を積み重ねる作業にひとり孤独に打ち込んでいたわけで、かなり鬱屈とした気分でいたことだろう。だからエピソード1〜3のようなわかりにくい暗いトーンへと低く重く流れ落ちていったのだ。
そこへ、なんの悩みもないエイブラムスが現れ、シリーズが持つ最も簡潔で明瞭な「宇宙活劇」的魅力をバトンとして受け取った。『フォースの覚醒』を見た創造主ルーカスにとって怨嗟の思いしか浮かばなかったのも至極当然のことである。

蛇足ながら、文句を加えると、サブタイトルの邦題のまずさは何とかならないものか。何でもかでも「〇〇の〜〜」と訳していては、スター・ウォーズのスペースオペラ的な味付けを理解しているとは言い難い。"The Force Awakens"はクラシカルに「フォースが目覚める」と訳すのが相応しいし、同様の「主語+動詞」ではエピソード5にあたる"The Empire Strikes Back"も「帝国逆襲す」が元のイメージに合っている。そもそもエピソード6の"Return of The Jedi"を「ジェダイの復讐」と誤訳したのもお粗末なら、あとになって「ジェダイの帰還」とタイトル変更したのも作品イメージを漂流させる逆効果しかなかった。
久しぶりに次作が楽しみな終わり方をしたのだから、エピソード8公開時には日本の配給会社も「精神のリレー」に参加して、「世界観」を共に出来る邦題をつけてほしい。(き)

starwars.jpg

(※1)『フォースの覚醒』でのジョージ・ルーカスは「クリエイティブ・コンサルタント」。名ばかりのクレジットである。
(※2)「ロサンゼルスAFP=時事通信」2016年1月1日の記事によると、ルーカスは「奴隷業者」発言を謝罪したという。
(※3)『精神のリレー 講演集』河出書房新社、昭和五十一年十二月刊より。



posted by 冬の夢 at 18:55 | Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ep6の邦題がジェダイの復讐なのは誤訳とは違うと思います。
当初ep6はRevenge of the jediといっていたのが公開前にReturn of the jediと変更したんです。
Posted by at 2016年01月07日 05:47
 今作の主人公は、チューバッカですよね。どう見ても。
Posted by (ケ) at 2016年04月27日 10:47
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