2015年12月08日

藤田嗣治の戦争画と退屈な映画『FOUJITA』

東京国立近代美術館に別の展覧会を見に行ったついでに、常設展示作品をじっくりと眺めてみたことがある。その中で、藤田嗣治の絵がいくつか展示されていて、有名な猫の絵とともに戦争画が飾られていた。戦後七十年となり、俄かに戦争画が注目されていることは知っていたが、実際に藤田の戦争画を見たのはそのときがはじめてだった。
その後、美術館では藤田嗣治の作品展が特集され、映画館では『FOUJITA』が公開された。

東京国立近代美術館で開催された『MOMATコレクション「特集 : 藤田嗣治、全所蔵作品展示。」』(※1)では二十六点の藤田の絵を見ることが出来た。そのうち戦争画が十四点と半分以上を占め、これだけの規模で藤田の戦争画を展覧するのは初めてのことだと言う。
藤田が戦争画を描き始めた初期の作品に「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」がある。
まず惹きつけられるのは突き抜けるような明るい空だ。そこに浮かぶ白い雲。一方で近景と遠景に配された兵士たちの描き方は、他の戦争画に出てくる兵士と大して違わない。すなわち、ごく当たり前の西洋絵画風な描き方だ。
ところがその数年後に描かれた、藤田の代表作とも言える「アッツ島玉砕」は違う。
ここでは一切の明るさは排除され、光のない暗闇が世界を支配している。絵からは妖気が漂い、迫力が見る者を圧倒する。うごめく兵士たちは、目をこらしてはじめて日本兵と米兵だとわかる。戦い続ける者と息絶えた者が、重なり合って混じり合う。敵味方と生死の境目がわからなくなってしまったような、戦争の最前線をそのまま絵に定着させた大作だ。
作品はほぼ時系列に沿って展示されていて、最後の戦争画となった「サイパン島同胞臣節を全うす」に至るまで、暗闇のトーンが変わることなく続く。
それらの戦争画をはさむようにパリ時代の毛筆と乳白色の絵〜裸婦や猫や自画像〜が置かれている。繊細な白い絵と重厚な暗闇の絵。同じ画家が描いたとは思えないくらい対照的で、互いに対立しているように見える。「アッツ島玉砕」を核としながら、なんともアンビバレントな展示であった。

foujita3.jpg

続けて見た映画『FOUJITA』(※2)は、感想を記すのが面倒臭く思えて、あまり気が進まない。と言うのも、観客に二時間の苦行を強いるような、退屈極まりない映画だったからで、さっさと整理して押入れの隅にでも追いやりたい気分だ。
映画は、二部構成をとっていて、前半は世界恐慌前のパリ、後半は戦時中の日本の疎開先が舞台である。
パリでの藤田は"Fou Fou"(お調子者)とあだ名されながら、時代の寵児になっている。絵は次々に売れ、新作発表には記者が群がる。芸術家仲間のサロンでも常に中心にいて、乱痴気騒ぎのパーティに明け暮れる。
かたや十五年ほど後、戦中の日本。陸軍美術協会会長職にある藤田は、山と川に囲まれた疎開地にあって、軍の要請に沿い、戦争を描く大作に取り組む。
映画はそういう時代を暮らした藤田の日常を淡々と描く。あえて藤田に焦点を当てるのではなく、積み重ねる画面は藤田のいる日常の風景ばかり。二時間の映画の中にクローズアップのショットはひとつもない。風景のほとんどがロングショットのみで構成されている。つまり、人物は風景の中の一構成要素として映されるのみだ。

パリの街角や疎開地の山道など、まず風景がひとつの絵としてあって、その中に人物が配置される。人物は常に全身が映され、カメラは人物には近づかない。藤田は、映画の主人公でありながら、カメラからかなり遠い位置に置かれる。オダギリジョーが藤田そっくりだという評判もあるようだが、それは映画宣伝用の惹句に過ぎない。なにしろ、映画のどこにもオダギリジョーの相貌を映したショットはないのだ。
そんな風景のショットの連続の中で、たまに大音量で効果音が唐突にインサートされるのみ。特段にエモーショナルな場面はなく、あえて感情を排除した描写に終始する。
その風景の画面は美しい。綿密なロケハンがされたのだろう。街並みや森や川自体が、もとから映像の素材としての魅力を備えている。さらにそれらを最低限の光量で、彩度を抑えて画面に定着させている。パリの夜の街角に浮かぶカフェ。曇り空の夕暮れの中に屹立する枯れた大木。カメラマンと照明さんの仕事は完璧である。
しかし、映画は写真集ではない。オリジナルな表現はいくらでもあっていいが、それは観客に向けられなければ意味がない。『FOUJITA』には、観客に近づく意思が感じられない。極めて私的で内向きな作品だ。観客は、藤田嗣治を取り上げた映画だから見に行っただけだ。観客を無視して、あくまでプライベートなアートにこだわるのなら、興行ベースにのせるのは止めたほうがいい。

映画自らが観客に歩み寄らないとすれば、こちらからわざわざ近寄って、この映画が意図するものを読み取る努力をしなくてはならない。
その鍵は、たぶん唯一出てくるバストショットにある。
藤田が妻の君代とふたりで鎌倉を訪れる場面。能面を売る店の店先にふたりが座って、微笑を浮かべながら女面と鬼面が並んだのをじっと見つめる。その藤田と君代を正面から切り取った胸上の画面。最も人物に寄ったショットはこれのみだ。
意図があるならば、藤田が「見る」という行為。でなければ、見つめる先にある「能面」ということになる。

まず、藤田の「見る」という行為について。
パリで日本から来た画家志望の若者たちとカフェで休むシーン。若者が朗読する高村光太郎の詩には耳を向けず、藤田の視線は隣の席のパリジェンヌへ。「なぜ私の顔をジロジロ見るの?」と憤る娘に対して「見なければ描けませんから」と、コートの中で描いた娘の顔のデッサンを取り出す。
不躾に他人の顔を見るというのは、洋の東西を問わず失礼な行為である。しかも男が女を舐めるように見るのは、一歩間違えば犯罪をも疑われる。しかし、その「見る」という行為が絵を描くためのものだったとしたら?その瞬間、その行為は一気に浄化されて「観察する」ことに変化する。「観察」は絵を描くための重要なプロセスのひとつであり、見られる側はいとも簡単にその執拗な視線を受け入れることになる。
パリ時代も疎開地でも、藤田は常に傍観者であった。
パリでは藤田の相手となる女性は単なる同居人兼モデルであり、彼女がどこで誰と会おうが藤田は干渉しない。愛する対象ではないということだろう。かたや、日本に戻ってから熱心に取り組んだ戦争画は、実際に戦地に派遣され現場を見てはいるものの、やはり藤田は目撃したに過ぎない。自ら銃を取って戦うことはあり得ず、疎開先の息子に赤紙が来てもそれは他人事である。軍人用のマントを羽織って銃後の務めを説く藤田の姿は、傍観者と言うよりは滑稽なだけだ。

次に「能面」について。
読み取りにしてはあまりに単純だが、藤田は時代に合わせた「仮面」を被っていたということを表現したかったのだろう。
パリで記者や評論家を集めた新作発表会が催される。「五人の裸婦」について滔々と作品解説する藤田。かたや「アッツ島玉砕」が展示された聖戦美術展会場。藤田は直立不動で来場者に敬礼する。どちらもまったく違和感なく描かれるので、藤田の本当の姿がどこにあるのかがわからない。最も自然な解釈は両方とも藤田であり、その意味において、藤田は時代ごと、自分の置かれた状況ごとに相応しい藤田像を演じていたと言えるだろう。
その藤田が台詞の少ない映画の中で、突如として自作を本音で語る場面がある。聖戦美術展の帰りの電車の中。藤田は「アッツ島玉砕」のことを「会心の腕試しでした」と語る。絵の前でひとりの女性が倒れ伏して泣き出したのを思い出し、「絵が人の魂を揺さぶるということを初めて目の当たりにした記念の日になった」と正直に心情を吐露する。ここでの藤田は「仮面」を脱いだ素のままであったはずだ。
それは、パリのカフェでパリジェンヌに素描をプレゼントした藤田に極めて近い。藤田は「アッツ島玉砕」に投入した渾身の画力が人に感動を与えたことに素直に感心する。すなわち「仮面」をはずした素顔の藤田はひとりの画家なのだ。画家としては純粋に表現力を追求する。そこにはなんの邪心もない。よく言われているように戦争画を描くことも藤田は躊躇しなかった。ただ、ひたすら西洋画の技法を駆使したかっただけなのだろう。
しかし、絵を生業とするには「仮面」が必要だった。テクニックだけで絵が売れるのであれば、誰でも職業画家になれる。それではダメなことを藤田は知っていた。いかに話題を振りまき、注目を集めるか。パリの「フジタ・ナイト」も陸軍美術協会の役職も、藤田にとってはマーケティングとプロモーションの道具であったはずだ。そのためには、絵以上に画家としての自分のキャラクターを売り出すことが重要なのだ。そのためであれば、藤田はどんな「仮面」でも被ることが出来たのだったろう。

映画のラストは、本作らしさで溢れている。
山の川向こうに渡った藤田が、通り過ぎる村人が持つ籠の中身を尋ねる。答えはない。カットが変わり、森の中に倒れる兵士。カメラが徐々にトラックバックすると、そこは小川のほとり。川の清流の中には「アッツ島玉砕」の絵が沈んでいる……。
ロングショットの風景で全編を構成してきた映画の最後が、なぜだか抽象的で現実離れしたイメージで終わる。観客を無視したアート作品らしい終わり方で、理解に苦しむ。
さらに、主要キャストのクレジットが出たあとに再び風景に戻る。映されるのは、藤田が晩年に私費を投じて建設したランスの礼拝堂。カメラが礼拝堂の中に入ると、壁一面にキリストの磔刑が描かれている。藤田が生涯の最後に完成させた壁画だ。壁画の隅には信者たちが集まっていて、その信者のひとりが藤田本人の顔になっている。
藤田の顔は、磔にされたキリストを眺めているようにも見える。あるいは、信者の中でただひとり東洋人のお面をつけているふうにも描かれている。いや、それは穿った見方に過ぎないのだろう。
このランスの礼拝堂は、現地見学でもしない限りはじっくりとは見られない。そんな礼拝堂の壁画を『FOUJITA』のエンディングで見られたのは幸運だった。
もしかしたら、『FOUJITA』を見る価値は、壁画の映像のみかも知れない。(き)

foujita2.jpg

(※1)MOMATコレクション「特集 : 藤田嗣治、全所蔵作品展示。」は2015年9月19日から12月13日まで東京国立近代美術館で開催。
(※2)『FOUJITA』。監督・脚本小栗康平、2015年日本・フランス合作。



posted by 冬の夢 at 23:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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