2015年07月25日

逆転の慶應 〜 上田昭夫監督の「魂のラグビー」

大学ラグビーが人気だった時代がある。
建て替えで話題沸騰中の国立競技場が、ラグビー早明戦で超満員になったのは、もう三十年前のこと。当時は、展開ラグビーにより一時代を築いた早稲田と重量級フォワードで縦に突進を繰り返す明治が、毎年、覇権を争う好勝負を見せてくれていた。
まだ高校を出たばかりで、身体も出来上がっていない選手もいたし、技術的に見ても、楕円形のボールが手につかないような選手もいた。ポールの左四十五度から蹴り込む絶好の位置からのペナルティキックも、成功確率は半分行くか行かないか。
でも、大学ラグビーは面白かった。
大学ごとのカラーの違いがプレースタイルに現れていたし、一方的なワンサイドゲームよりはワントライで逆転可能な接戦が多かった。ゲームプランやメンバー構成がそれぞれに異なるチームが、ほぼ似たような力量の中にひしめき合っていたということなのだろう。

かつての大学ラグビーの面白さを象徴していたのが「逆転の慶應」だ。早稲田と明治になかなか勝てなかった慶應が、突如覚醒したように活躍を始めたのは、昭和五十九年のシーズンだった。関東の大学チームで構成される対抗戦を連戦連勝。無敗のまま、明治、早稲田との試合に臨んだのである。

まずは、明治との全勝対決。後半ロスタイムに入ってからがすごかった。
スコアは7対4で、明治がリード。相手陣でのプレーを続ける慶應のプレッシャーを受けて明治が反則。22メートルライン手前でペナルティキックを獲得した慶應のキャプテン松永は、同点を狙ってショットを選択する。しかし、スクラムハーフの生田は、チョン蹴りからバックスに展開。レフェリーは、宣言したのとは別のプレーをしたということで、ペナルティを取り消し、明治ボールのスクラムに。
慶應応援団はため息をつき、誰もがノーサイドの笛が鳴って明治勝利の場面を思い浮かべた。ところが、レフェリーはかなり長いロスタイムをとっていて、明治が二度、タッチキックでボールを蹴出しても試合は終わらない。慶應のラインアウトがノットストレートになって、再び明治ボールのスクラム。さすがにこのプレーを切れば、ホイッスルが鳴る。
奇跡はここで起きた。決して明治のスクラムが押されたわけではない。崩れながらスクラムが半回転した拍子に、誰かの足にボールが当たって、たまたま慶應側にこぼれたのだ。すかさず生田がボールを拾い、すばやくスタンドオフの浅田にパス。センターの林を経由してボールを受けた松永がカットインして、トイメンを抜く。そこから左へ出したパスが明治の選手にはじかれるも、リカバーしていた生田が拾い上げ、ウイングへ。渡瀬がグラウンド左へ走り抜け、最後はフランカーの良塚にボールが渡ってトライ。ゴールキックは失敗したが、同時にノーサイド。慶應がゲーム終了前の最後のワンプレーで7対8と逆転勝利したのだった。

「逆転の慶應」はこの試合だけでは終わらない。
やはり全勝を続ける早稲田とのゲームは、対抗戦優勝をかけた決戦となった。明治戦はいつもの秩父宮ラグビー場で行われたが、この年の早慶戦は国立競技場が舞台。注目の一戦にスタジアムは超満員だった。
試合は、早稲田ペースを慶應が食い止める展開。得点は11対6で早稲田がリード。グラウンド中央でボールの支配権が行ったり来たりという膠着状態のまま、後半30分を過ぎたところで、またまた奇跡は起きる。
攻め込んだ慶應のラインアウトが早稲田側に取られて、キックで押し戻される。スタンドオフの浅田がなんとか追いつき、キックしたボールは早稲田陣の10メートルライン付近へ。双方のフォワードが一斉に集まり、ラックを形成しようとする早稲田側にボールが転がる。早稲田のスクラムハーフがボールをつかむ寸前、猛ダッシュでそのボールに食らいついたのが、なんと慶應のフロントロー橋本。早稲田フォワードが戻りきる前に、ブラインドサイドに生田がクイックパスをだす。そこには、ウイングの若林がいた。すぐにトップスピードで走り出し、早稲田ナンバーエイトのタックルを身を沈めてかわす。かがんだ姿勢のまま疾走したがため、次にいた早稲田の選手は若林をつかまえられない。最後はフルバックとの一対一を制して、若林はタッチライン際を独走。インゴールした後、回り込んでトライした。
かわされただけでなく、ポール下までボールを運ばれたのは、早稲田のミス。ゴールキックが決まって、11対12と逆転した慶應が、残り時間の早稲田の反撃を押さえて、四年ぶりの対抗戦優勝を決めたのだった。

同年の大学選手権においても、「逆転の慶應」は苦しいゲームを乗り越えて、なんとか決勝まで駒を進める。
相手は三連覇を目指す同志社。当時は同志社の黄金時代で、平尾、大八木、土田といったその後の日本ラグビーの屋台骨となる選手がズラリと並び、学生の自主性に任せた自由な練習法が、選手たちの才能を開花させた。彼らの目標は、大学選手権優勝の先にある日本選手権で、連覇を続ける社会人チーム、新日鉄釜石に勝利することだった。

決勝戦をTV中継したNHKの解説者は、対抗戦で慶應に敗れた早稲田の日比野監督。その日比野さんが番組の冒頭で「同じ関東の大学としては、なんとか慶應に頑張ってほしいですね」とコメントするほど、どの大学が戦っても歯が立たないくらい、同志社の強さは圧倒的だった。
試合は開始後すぐに動く。「慶應としては同志社の得点をなんとか10点以内におさえないと勝ち目はないですね」と日比野さんが言った途端、同志社のセンター平尾が軽快なステップを踏んで慶應のディフェンスラインを切り裂き、いきなり右隅にトライを決める。やっぱり同志社の一方的なゲームになってしまうのか。
しかし、「逆転の慶應」はひと味違った。同志社のミスを誘い、ペナルティキックを獲得する。ところが、この日はキッカーの浅田が全くの不発。ことごとく3点のチャンスをつぶす。
後半に入っても、慶應の粘りを受けて点差を広げられない同志社。それでも得意の形でボールを受けたバックスが、サイドを縦に突っ走る。トライかと思われたが、慶應ウイングの若林が逆サイドから猛然と戻ってタックル。ゴールラインまであと1メートルのところで同志社バックスを倒し、決定的な追加点を許さなかった。
スコアは同志社10点、慶應6点の僅差のまま、残り時間は5分。「逆転の慶應」の奇跡が起きるにはうってつけの時間帯だ。
同志社陣22メートルライン付近のスクラムは慶應ボール。同志社フォワードのプレッシャーがかかる中、マイボールを渡さずに生田が浅田にパスを出す。浅田はセンターをひとり飛ばしてキャプテンの松永にパス。このボールが少し弱くて、松永が身体を右にひねって手を伸ばしてつかむ。これがフェイントになった。飛ばしパスと松永にかわされた同志社ディフェンスは、なんとか横から松永をタックルする。そのタックルを受けて倒れる寸前に松永は、ボールを浮かした。そこに走り込んだのがフルバックの村井。解説の日比野さんが思わず「行ったあ!」と叫ぶ。ボールをつかんだ村井は、そのままゴールポストの真下にトライ。湧き上がる大歓声。またもや「逆転の慶應」が土壇場の大逆転をやったのだと、席を飛び上がって観客が歓喜する。
ところが、レフェリーのジャッジはスローフォワード。松永から村井へのパスが、ボールを前に放ったと見なされたのだ。トライは成らず。「惜しいことでした。いや、いい攻撃でしたね〜。本当に惜しい」という日比野さんの嘆息は、「逆転の慶應」を期待していたラグビーファン全員のため息でもあった。
残り時間に得点する力は、慶應にはもうなかった。同志社の三連覇。関西の雄が大学ラグビーに金字塔を打ち立てた瞬間であった。

この年、「逆転の慶應」を率いたのが上田昭夫監督。幼稚舎からの慶應ボーイで、学生時代はスクラムハーフとして活躍し、日本代表にも選ばれる。当時の学生の就職先一番人気であった東京海上火災に入社するも、ラグビーをするために半年で退社。トヨタ自動車に入り直して、日本代表でプレーを続けた熱血漢だ。
三十二歳の上田監督は、二年間コーチとして慶應蹴球部をサポートした後、監督に就任。その一年目でチームを大学選手権決勝まで持ってきた。それまでとは何が違ったのかを探ろうとしても、はっきりとした戦略は見えてこない。一年間では育成計画も組み立てられなかっただろう。
選手も大半は内部進学組。慶應高校のラグビー部が花園で活躍するのは後年の話だ。外部出身者は、松永と若林のみ。それぞれ天王寺高校、小石川高校から慶應に入った。進学校として名前が通ってはいても、決してラグビーが強い高校ではない。
戦略なし、育成なし、高校時代からの突出した選手も不在。そんな中で上田監督がチームに課したのは、ただひたすら選手を「叩いて」「練習」することだけだったらしい。そして、それを繰り返すことで自信をつけさせる。例の「魂のラグビー」というやつである。

対抗戦優勝後、雑誌の企画で早稲田の日比野監督と対談した上田監督は、日比野監督にこう言わしめている(※1)。

慶應高校というのはレベルの高いチームだから、決して素材がないわけじゃない。それは高校日本代表だとかいろんなやつがあつまってきていないという、ハンディはあるかもしれないけれども、やはり慶應のラグビーをずっとやってきてる連中だからね。叩いていけは強くなるというノウハウを持っているわけですよ。それにラグビー部だけには、これが慶應か(笑)というようなドロ臭さがある。

かたや当事者たる選手たちの記憶の中には、「練習」のことしか残っていないというのも事実のようである。翌年スタンドオフのポジションを任される清水は、こう振り返っている(※2)。

土俵際に来たとき、そこで力を出せるのは、理論とか理屈ではないような気がします。当時の慶應ラグビー部には有名校から来た選手は殆どいませんでした。だから練習を人の1.5倍や2倍やって、その努力した自負を自分たちの自信に変えて試合に臨んでいました。常に巨像を倒すというようなメンタリティーだったと思います。

そして、極めつけは、キャプテンの松永が同志社との決勝戦を振り返って受けたインタビューでの発言。外部出身者である松永の言葉には、それなりの重みがある(※3)。

下から上がってきたやつを叩き上げる。修行僧と言われていましたから。それくらい厳しい練習をやってきたんで、派手な勝ち方なんて出来ない。とにかく食らいついて、相手チームが弱ったときにトライをもぎとるという戦い方だったんです。

「叩けば強くなる」「練習を2倍やって」「修行僧」……。ゾッとするようなアナクロめいた言葉で形容される「魂のラグビー」。絶対にそんな集団に身を置きたいとは思わないが、これはこれでひとつの価値を生み、「逆転の慶應」として昇華することになった。

「逆転の慶應」は、実際の事象からついたネーミングなので特に違和感はない。一方の「魂のラグビー」は、言葉として使うには、かなり恥ずかしい。書面だからまだいいのであって、とても口には出したくない。
しかし、決勝で同志社を追い詰めた上田監督は、選手たちの「魂」を揺さぶることによって慶應ラグビーを一年で立て直したのだった。
対談の場で、上田監督はこうも語っている。

僕はわがままな人間だから、自分の思いどおりにならないと気が済まないタイプなんです。上に立ったほうがやりやすいといいますか、僕の性格に合っている感じがします。それとキャプテンの松永がまたすごい大人でね、冷静なやつなんですよ。だから僕と松永は組み合わせとしては非常にいいなと思っています。

上田監督率いる慶應蹴球部は、翌年も大学選手権決勝に進み、明治と戦った。大雪の中のフォワード戦は互いに譲らず、同点のままドロー。両者優勝となった。
社会人王者と戦う日本選手権に抽選で駒を進めた慶應は、トヨタ自動車と対戦する。長く日本一に君臨していた新日鉄釜石に代わり、社会人リーグを制したトヨタは、慶應贔屓で超満員に膨れ上がった国立競技場の雰囲気に気圧されて、ミスを連発。強力フォワードがスクラムでコラプシングの反則を取られたことも微妙に影響し、慶應の勢いに屈した。慶應ラグビーは、上田監督のもと、初の日本一に輝いたのだ。

この二年間のシーズンを終えて監督を退いた上田は、その後、フジテレビに転職。TVのニュースキャスターとして活躍する。
一方、慶應のラグビーは、長期の低迷期に入り、対抗戦では下位に沈み、大学選手権すら出場できなくなっていく。
そのていたらくを見かねたのか、周りが推したのかは知らないが、平成六年、九年振りに上田は監督に復帰。徐々に態勢を立て直し、平成十一年のシーズンに対抗戦優勝。同じ年の大学選手権も制する。
さすがに、第二期監督時代は、「魂」が通じなくなったのか、コーチの林雅人を従え、徹底的なデータ分析を実践した。確率の高いプレーを選手に選択させるデータ重視ラグビーで翌年も対抗戦を連覇。上田が退任した後、慶應ラグビーは一度も大学選手権出場を逃すことのない古豪として復活を遂げたのだった。

その上田昭夫が亡くなった。
アミロイドーシスという難病が、六十二歳の命を奪っていった。「逆転の慶應」が同志社を追い詰めてから三十年。フジテレビを定年退職したというから、これからじっくりとラグビーに時間を使える環境は整っていた。「魂」に加えて「データ分析」まで身につけた幅広い視野を持つ監督として、慶應だけでなく、日本ラグビー界が上田昭夫の現場復帰を望んでいたはず。あまりに惜しい人物を、あまりに早く喪ってしまった。

けれども、昭和五十九年に上田監督が作ったあのチームのことは、多くの人の心に深く刻み込まれている。逆転に次ぐ逆転。低い姿勢のタックル。最後まで諦めない粘り。「逆転の慶應」は、忘れられないし、忘れたくない。
そうして、上田監督が作り上げた「魂のラグビー」は、いつまでも消えずに人々の記憶の中で輝き続けている。
上田昭夫監督のご冥福を心からお祈りします。(き)


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(※1)文藝春秋 スポーツグラフィックナンバー 114 昭和六十年一月五日号「真冬の決闘」より

(※2)J SPORTS Webサイト「ラガーマンの経営・仕事術 〜 FILE.6 清水周英」より

(※3)NHK DVD 大学ラグビー激闘史 1984年度「伝説!慶大幻のトライ」より

同DVDのインタビューで、同志社戦のスローフォワードについて聞かれた松永敏宏は次のように答えている。

『あれは一番得意とするプレーで、想定されていたプレーだったんです。それがスローフォワードであってはいけないし、自信が最もあるプレーだった。「直勝負」というんですけど、スタンドオフから一線を飛ばして二線が直にもらう。我々が一番トライを取れるプレーなんです。だから、正直なところ、ミスジャッジだったと思います。けれど、今では感謝しています。トライできなかったことで、何回言われたかわからないくらい、特に慶應ファンの方々の頭に焼きついたプレーになったと思います』




posted by 冬の夢 at 22:12 | Comment(1) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「逆転の慶應」というキャッチフレーズを、はじめて知りました。なんと映画「若大将」シリーズで、京南大学の若大将が西北大学を(京南は加山雄三の母校、慶應がモデル。要するに早慶戦にたとえていた)逆転で破る、毎度お約束のラストシーンとまったく同じだったんですね。
 学生時代に何かの大学対抗試合を見に行った経験はありません。運動神経がないからか。運動ができなくてもスポーツは観戦できますが、多少はスポーツができる人でないと、試合をただ見ていても面白くなかろうと思います。
Posted by (ケ) at 2015年07月26日 19:21
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