2015年04月18日

四月十三日のロックンロール「燃えつきる=ラスト・ライヴ」とジョニー大倉

 ひさしぶりにのぞいてみたCD店。
 ジャズCD売場なのに、なぜか流れているのは日本人若手バンドのロックンロール。ライブアルバムだ。
 いい!
 田舎くさくてアカ抜けない、ぎりぎりいっぱいの演奏。息苦しいほど余裕がない。ギターを鳴らし、シンプルな日本語歌詞を叫ぶ。どの曲もあっけないほど短く、繰り返す全力疾走。胸苦しいせつなさがこみあげる。
 いまどき、こんな荒っぽい音のCDが出ているはずはないから、インディーズブームのころの盤かなと思いながら、ジャズの盤を見るのをすっかり忘れている。
 めったにしたことがないけれど、店員さんにたずねてみた。
 いま流している盤、なんですか。
 キャロルの「燃えつきる=ラスト・ライヴ」だった。
 初めて聴いた。

 当時の自分は地方都市の中学生。
 キャロルのファンはもちろん、コピーバンドが周囲にけっこういたけれど、そのどちらも苦手だった。
 ファンが苦手なのは、不良がかった奴が多かったからではなく、子どものころから、すなおに「まぜて」と「やめる」がいえない性格だったからだ。興味がなかったわけではなくて。
 コピーバンドたちに対しては、カッコだけ真似すれば誰でもできるような音楽をやってるのに、なぜ誰よりモテるんだという、誤解とひねくれた嫉妬だったな、いまから思えば。
 そもそもキャロルは、多少楽器がいじれる暴走族が、なりゆきまかせに演奏していたのではない。自作曲づくりには身を削るほど念をいれていたし、リハーサルも熱心にしていた。ゴーゴーホールやビアガーデンの演奏で揉まれた組と、腕を見こまれて加えられた組とで出来たバンドなのだ。二〇一〇年代の耳で聴けば、どこか知らないアジアの国のハコバンみたいに聴こえるかもしれないが、そこがいい。日本のロックンロールは、それでいいじゃないか! 

 しかし、キャロル最終公演のライブ盤だと知った後で回すと、かなり違って聴こえる。
 曲が終わるとすぐ次の曲のカウントで、ゲスト紹介コーナーをべつにすれば曲間のしゃべりはほとんどないのに、矢沢永吉がひとりで仕切っている感じがする。いわれてみればああそうかと気づくおなじみの歌い回しもほぼ完成していて、リードボーカルは分担だから、矢沢が歌わねえと始まんねえな、とも思ってしまう。
 ところがそのうち、ジョニー大倉がリードボーカルの曲のほうに、なぜか心をひかれだす。声も歌いかたも、ドスのきいた矢沢とは違い、大倉はカン高く線が細くて不安定。ロックンロールらしくない。しかしなぜか、大倉のリードのほうがキャロルに合って聴こえる。歌詞もリズムを生み出す要素だからカッコいい字面でさえあれば自分が形をつけてやる的な矢沢の歌いかたより、にごりの少ない声で言葉がまっすぐ飛んでくる感じがする。キャロルの歌詞は大倉が書いているからなのか。 
 それをいうなら、矢沢が歌っている「ファンキー・モンキー・ベイビー」も「ルイジアンナ」も大倉の歌詞。初めて歌詞を書いたのがキャロルでだったというから驚くが、いまの日本のポップ音楽の歌詞ほとんどすべてがそうといっていい、日本語に英単語を混ぜて洋楽にのせる歌詞作りは、大倉がはじめたことだろう。その詞の効果を出すためローマ字で「フリガナ」をつけ、仮歌を歌って歌い回しを教えて矢沢のスタイルを作ったのも大倉だ。革ジャンにリーゼント、バイクというスタイルは、ドイツをどさ回りしていた初期のビートルズからとった演出で、それを考えたのも大倉。※1暴走族の登場はキャロルの後を追ってだ。だいたい「キャロル」というバンド名からして大倉の発案なのだ。※2

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 それにしては、大倉は、あまりにも報われなかったのではないか。
 いや、「永ちゃんにしてみれば一銭の価値にもならないような、そんなことでも、生涯をかけて求めつづける大切なものがあるのだ」と書いているのだから、※3「ビッグ」な成果だけを追っていたのではかならずしもなかったろう。
 日本の芸能人としてみると、大倉はきわめて早い時期に在日コリアンであると表明している。そしていまから二十五年近く前、ある雑誌の企画で三十九歳ではじめて、韓国へ行く。※4
 当時この記事を読み、「元キャロルでたぶん暴走族出身の」という間違いだらけのイメージしか持っていなかったジョニー大倉という人の、自己のアイデンティティに対する、まじめ過ぎるほどのまじめさにとても驚かされた。自分の問題は解決できないとわかっていて企画に乗ったのもさることながら、結果としてより深くアイデンティティの問題と向かい合ってしまっている「まじめさ」にだ。時代的にも大倉本人にとっても、企画はまだ早すぎたが、近年の「韓流ブーム」に合わせて行けたとしても、それを道具に表舞台への復活を狙ったり、裏方に回って芸能ビジネスを立ち上げるようなことは、この人は考えもしなかったであろう。

 日本人としてもコリアンとしても中途半端なぼくが、しっかりと両足で踏みしめる大地のないこのぼくが、ふらふらと、右へ行ったり左へ行ったりしながら、いつもいつも、ぼくは何者なのかと、なぜぼくは生きているのかと、何のためにぼくは死んでいくのだろうかと、そんなことばかりに心を奪われ、どこかにその答えがあるという願いを捨てきれずに、はるか水平線の彼方に目をやるばかりで、さまよいつづけて生きてきた。※3

 大倉の揺れる悲しみは、成功へ向かって突っ走る矢沢の攻撃性とぶつかって火花を散らす。そのまぶしさが「燃えつきる=ラスト・ライヴ」からあふれてくるのに違いない。

 ときには、涙が溢れ出るほどの激しい愛情を向ける相手として、そしてときには、殺してやりたいほどの激しい憎悪の対象として、いつもいつも、永ちゃんはぼくの心の中にいた。※3

 接触して火花が散るからには、キャロル時代の矢沢にも大倉と変わらないほどの屈折があったに違いない。
 ここでは大倉の側の見かただけを手がかりにしているから、活動を投げ出して失踪したり、マスコミを通じて批判したかと思えば和解のメッセージを出して「揺れ」続ける、大倉の態度を受け止める側だった矢沢のことを書かなければ、フェアではない。が、後付けでない偽らざる思いを聞ける機会は、おそらくないだろう。
 キャロルの解散コンサートは一九七五年四月十三日。なるほどCD店でこの盤が回されていたのも同じ四月十三日。知らなかったのだが、この日、キャロルの出発点でもあった川崎でジョニー大倉の「音楽葬」が行われていたそうだ。メンバーだった内海利勝とユウ岡崎が演奏したという。(ケ)


※1 矢沢はもともとマッシュルームカットで、リーゼントスタイルにするのは渋々だったという。大倉は長髪に丸メガネ。ジョン・レノンの真似だった。
※2 アマチュア時代から女のコ名前のバンド名が好きだったが、これは「クリスマス・キャロル」からの連想だという。キャロルの解散をいい出したのも大倉。
※3「キャロル 夜明け前 第2章」
※4「03」一九九一年十月号

【参考】
「03」一九九一年十月号
「週刊実話」二〇〇二年十二月五日号
「週刊現代」二〇〇三年六月十四日号
「アサヒ芸能」二〇〇三年七月十日号
「キャロル 夜明け前」二〇〇三年/ジョニー大倉/主婦と生活社
「キャロル 夜明け前 第2章」二〇一〇年/ジョニー大倉/青志社  ほか


じょにー・おおくら 03/09/1952─19/11/2014

posted by 冬の夢 at 00:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 日本のロック・歌謡曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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