2015年04月14日

青春ジャズ特訓映画「セッション」に感動してはいけない

「弱冠28歳の天才監督がわずか3億円の制作費でオスカー3本の奇跡」という宣伝文句もにぎにぎしく、今週、国内公開される映画「セッション」。
 ストーリーは簡潔明瞭。ビッグバンドジャズのドラム奏者をめざす若者と、彼を徹底的にしごくスパルタ教師の、師弟対決だ。
 弟子の人格を否定しジャズ・ロボットを作るかのようなシゴキ教育の背後に、師匠の屈折した思いが浮かび上がる。日本人のある世代ならすぐ思い出すのは「巨人の星」。あのルーツは剣術や柔道の修業譚だと思うが、アメリカのビッグバンドジャズにも当てはまったところが面白い。

 監督のダミアン・チャゼルは高校時代、学校のジャズバンドでドラムを叩いていた。しかし顧問の猛特訓にメゲて挫折、そのトラウマを濯ぐべく書いた脚本の映画化だ。
 パイロット版的に作った短編が評価されて長編の制作資金を得たが、ドラムの経験がない俳優に、叩き方を教えながらの撮影日数はわずか十九日。撮影中に交通事故に合うも完成させたという、話題の多い作品だ。

 主人公は、往年の名ジャズ・ドラマー、バディ・リッチに憧れて名門音大に学ぶアンドリュー・ネイマン。演じるマイルズ・テラーは、のんびり屋っぽいキャラで、いかにも「お前にゃ練習しかないよ」という感じ。いいキャスティングだ。
 アンドリューは、参加できたら将来が約束されたも同じの、学内のトップバンドに抜擢される。指名したのはバンドの指導教員、フレッチャーだが、この男は校内でも有名なスパルタ講師。始業時を秒単位で厳守させ、一糸乱れぬ完璧なアンサンブルを要求。怒声と殴打の恐怖で支配する授業だ。※1
 ホーン奏者の学生は、わずかに音程が合わないだけで泣くまで面罵され教室を追い出される。そのさまに驚愕するアンドリューもまた、リズムが正確でないと怒鳴られ続け、顔めがけて椅子が飛んで来る。スティックを持つ手が傷つき血が流れても、ひたすら叩かされる。やらなければ正奏者の席は瞬時にライバルと交代だから意地で続けるが、ケガした手で演奏がよくなるはずがないから無意味なシゴキだ。

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 ところが、連日フレッチャーの罵声を浴びるうちにアンドリューはいつしか練習マシンと化す。音楽のじゃまだと彼女にはあっさり別れを告げ、ジャズに理解がない家族から進んで孤立し、学内バンドでのポジション死守に邁進する。アンドリューの人格は変調しはじめ、ついに事故と事件で音楽学校を去ることになってしまう。
 しかし、教える側のフレッチャーも学校をクビに。有望な卒業生の事故死の報にフレッチャーが悲しむ場面があり、冷血教師にも人間味がと一瞬、思わせるが、教え子はフレッチャーの暴力的指導で鬱病になり卒業後も苦しんで、活動がままならず自殺したのだ。事実の内通でフレッチャーは職を追われる。
 数か月後、あるジャズバーで、さえないピアノを弾いていたフレッチャーと、ドラムをやめてしまったアンドリューが出会う。
 フレッチャーはスパルタ教育の意図を初めて真摯に語り、音楽祭で久々にビッグバンドを指揮するから叩かないかとアンドリューを誘う。アンドリューに和解の気持ちが起き、本番ライブが映画のクライマックスだ。
 が、その演奏は和解どころか、やはりこういう展開かという、陰惨な復讐合戦になる。そこでアンドリューのソロが火を吹き……。

 公開前だから書かずにおくが、すごいサプライズエンドなのだとか。
 国内向け宣伝チラシには、音楽業界を中心にミュージシャンや評論家などが、驚きや感動のメッセージを数多く寄せている。しかし宣伝用のほめ殺しとはいえ、音楽や芸能でメシをくっている連中が、この映画に本気で驚いたり感心したりしているとしたら変だ。あくまで格闘技の師弟勝負コミックで、設定をジャズのビッグバンドにしたところが斬新で面白い、そういう映画だからだ。多少なりとも音楽を知っていれば一目瞭然のはず。描かれかたが不快だとコメントしているミュージシャンもいるが、劇画的誇張を実際の音楽教育の一例と誤解している。
 しかし、この「師弟対決マンガ」には、なにか別の次元の、認めたくない麻薬的な誘引力があるのかもしれない。

「セッション」を見ていると、まったく別のテーマの、ある映画に非常によく似ている。ベトナム戦争に志願した海兵隊訓練生に徹底的な罵倒と体罰を繰り返す場面や、いじめなどが執拗に描写される、スタンリー・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」だ。
 人格を否定し、差別的な罵詈雑言を繰り返して、命令と統一に瞬時に順応する完璧な兵士を作る教育。訓練生の中には、精神を痛めつけられて教官を射殺し自殺する者さえ出る。それでも若者たちは人が変わったように「成長」し殺人マシンとなって──自殺した訓練生も、もとは不器用ないじめられっ子だったが、ガンマニアックの強力なスナイパーに育っていた──ベトナムへ向かう。
 あの映画でもっとも印象的な場面は、兵士たちが戦火残る中「ミッキーマウスのマーチ」を歌いながら進むラストシーンだ。交戦での見境ない殺戮、同僚たちのあっけない死、それらを踏み越えて進む若者たちは、男の中の男のはずだが、テレビアニメの曲を歌って──実際にこの曲は猥褻な替え歌になってベトナムで歌われたらしい──いる。殺戮者の幼児性というあのいびつさが、映画「セッション」で、聖書のように扱わされる譜面を諾々となぞる、コンテスト常勝の若い演奏者たちの姿につながる。

 教職を追われてバーのピアノ弾きになったフレッチャーが、さらけ出すように語ったスパルタ哲学とは、こうだ。
 演奏家志望の若者を教えるとき、もっとも間違った方法は「よかったぞ」とほめてばかりいる軟弱な教育だという。罵倒したり殴ったりするのは、生徒たちにいま一度、ジャズが熱かった時代の伝説的演奏者になってもらいたいからで、チャーリー・パーカーも荒っぽい教わりかたで天分を開花させたのだと。
 フレッチャーが繰り返すチャーリー・パーカーのエピソードは、若いとき演奏をミスし、ドラムのジョー・ジョーンズにシンバルをアタマに投げつけられたという話。くそっと思ったからこそパーカーは伝説的存在になったんだというオチだ。リズムが悪いと激怒したフレッチャーがアンドリューの顔めがけて椅子を投げる場面は、これに呼応している。たしかにサカナのアタマも骨もすっかり取り除いて与えるような環境で育てながら、最近の子どもは打たれ弱いと文句をいう矛盾を思い出すと、程度の問題はあれ「叱って教える」ことにも意味があるかと感じる。
 
 ただし、納得する前に、チャーリー・パーカーのエピソードのおさらいが必要だ。
「ザ・ニューヨーカー」の記事からの孫引きだが、※2出来事に居合わせたベース奏者のジーン・ラムリーへのインタビューがあるパーカーの伝記では、こうだ。
 ときは一九三六年。十六歳のチャーリー・パーカーは舞い上がってしまい、ソロの最中に二小節さきへいってしまった。ドラムのジョーンズは、シンバルのベル(真ん中の鐘みたいなところ)を「カ〜ン」と鳴らして知らせる。カ〜ン、カ〜ン、でもパーカーはやめられない。そのうち客も「そいつをやめさせろ!」と騒ぎ出す。ジョーンズはとうとうシンバルをはずして「カ〜ン」といいながら床に落とした。ガシャ〜ン! パーカーはびっくりして飛び上がり、ソロは終わった。メンバーも客も全員が、笑ったり叫んだりの大騒ぎ。それが「シンバルをアタマに投げつけた事件」の真相なのだ。
 見落としてはいけないのはラムリーが、ずれていたけど小節数は正しく吹いていたし、ノリもばっちりだったよ、といっているところ。
 フレッチャーの解釈とは逆だ。屈辱や恐怖、反抗や復讐の心から、正確な技術だけを得ようとすることでは「ジャズが熱かった時代の伝説的演奏者」は決して誕生しなかった。もっと大事なのは、演奏をよくわかって聞いている客の存在だ。いい演奏を目指すのは自分のためでもバンドのためでもない。演奏者を育てるのは聴き手なのだ。その「師弟関係」がライブの場での偶然の出会いによる、というところこそ、ジャズの素晴らしさだと断言できる。

 さすれば、この映画のラストシーン、いきがかり上すこし言及してしまうが、どう鑑賞するか。
 師匠が弟子に仕掛けた復讐の落とし穴をものともせず、逆に師匠を飛び越えてバンドをリードする弟子。
 その姿に示した師匠の笑顔とは何か。
 師匠は敗北を認め、「伝説的演奏者」の誕生を喜んだのだろうか。
 ひねくれ者のわたしには、どうしてもそうは見えなかった。
 邪悪なマゾヒズムの世界へようこそ。
 バトルに勝ったのは師匠のほうだ。
 
 原題の「Whiplash」は、映画に登場する学内バンドの練習曲で、意味は「ムチで打つ」こと。七〇年代の軽快なジャズロックだが、ふつうジャズでもロックでも使わない変拍子が曲中で入れ替わる難曲だ。この曲を学生たちの課題曲に選び、題にも採用したところは、監督のうまい設定である。筋のつなぎなどが納得しづらく未熟さを感じるが、さすがはハーバード大学で映画を学んだ秀才というべきか。
 邦題になった、いわゆる「ジャムセッション」は、この映画のなかでは一度も行われていないことに気をつけたい。音楽的にはむしろ「ディシプリン」という邦題であるべきことは、意識しておきたいところだ。(ケ)

※1 三つのアカデミー賞のうちのひとつ、助演男優賞を、演じたJ・K・シモンズが受賞している。
※2 www.newyorker.com/culture/richard-brody/whiplash-getting-jazz-right-movies
※  四月十七日から全国のTOHOシネマズなどで。


posted by 冬の夢 at 18:49 | Comment(1) | TrackBack(1) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
会社勤めをしていたときの常務は部下が何をやっても「グッジョブ!」。その常務が嫌っていた専務は部下を褒めたかと思えば、いきなり面罵し、すぐ横にいる後輩に代替案を出させる。どちらが業績を上げたかと言えばどちらでもなく、結局のところ業績は天気のように変化する景況に支配されていただけでした。
本作も同じで、天才とは指導者が導くものではなく、出現率がゼロに近い突然変異種としてしか出現しないものではないでしょうか。
Posted by (き) at 2021年04月17日 20:26
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