2015年02月16日

An die Musik ~ 先ずはバックハウスの『皇帝』

 このところ公私ともに疲弊することが多く、気分も塞ぎがちで、積極的に何かをしようという気に少しもなれないのだが、ありがたいことに音楽だけが唯一の例外になっている。というか、音楽だけは今も文字通りに夢中に聴いている。つまり、寝ても覚めても。音楽のおかげでかろうじて息をしていられるといってもいいのかもしれない。Du holde Kunst, ich danke dir dafür.

 しばしば音楽中毒になることは以前にも書いた通りだが、今回のきっかけはベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第5番』、通称「皇帝」と呼ばれている作品だ。これも先に別のところで書いたように、ずっと長いこと『皇帝』はどちらかと言えば苦手の作品だった。「派手すぎ!」と感じられたし、その派手さがベートーヴェン特有(?)の押しの強さとも重なって、たとえへそ曲がりと言われようとも、彼の5つのピアノ協奏曲の中では聴く頻度は最も少なかった。ところが、先日、どういう風の吹き回しだったのか、「鍵盤の獅子」とさえ称賛される往年の大ピアニスト、ウィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus)のベートーヴェンをこれまできちんと真面目に聴いたことがない、最近では「もう古い!」と揶揄されることもあるらしい彼のピアノソナタかあるいは協奏曲を聴いてみたい、それもせっかくだから苦手な『皇帝』を聴いてみたいとふと思い立った。

 それにつけても、なぜこの高名なピアニストをこれまで敬遠してきたのだろう? 今となっては我ながら理不尽にさえ感じられる。つくづくバカなことをしたものだ。子どもの頃、この見るからに厳めしい容貌を映したLPレコードが我が家にも数枚はあったはずで、あったからには一度ならず耳にしたはずなのだが、バックハウスに関する印象はゼロだった。今に思うのは、ぼくのどうやら根っからの天邪鬼な気質が悪さをしたのだろう。つまり、バックハウスの評判があまりに神々しく、それこそ猫も杓子も「ベートーヴェンを聴くなら、何はさておきバックハウス」と言うのをあまりにしばしば耳にして、そのせいで、ろくに聴きもしないで「権威の押しつけ、ご馳走様」という気分になってしまったに違いない。ともかく、ベートーヴェンといえば、キリッと辛口が好ましいときにはギレリス(Emil Gilels)を、甘口が好ましいときはアラウ(Claudio Arrau)を、さらりと端麗ならばゼルキン(Rudolf Serkin)を好んで聴いていた(もちろん、この3人もそれぞれにピアノの巨人であることは言うまでもない)。
 しかし、バックハウスを「鍵盤の獅子」と呼び始めた人たちにも少々文句を言いたい気がしないではない。それとも「獅子」という言葉から「強靭さ」「攻撃性」「厳めしさ」を勝手に連想したぼくが悪かったのか? ともかく、初めてきちんと聴いたバックハウスは、勝手に思い抱いていた先入観とは裏腹に、何ともエレガントな、優しげといっても過言ではない音楽を紡ぎ出しているではないか! そりゃ、ライオンだって優雅で優しくあってもいいのかもしれないが……ここまで書いて、遅まきながら自分で思い至ったが、「獅子」という用語から真っ先に連想すべきはおそらく「高貴さ」だったのだろう。ということは、「鍵盤の獅子」という称号は、日本人が勝手に作ったものではなく、欧米の誰かが作ったものに違いない。ともかく、バックハウスの演奏は真にnobleの一語だった。彼が演奏する『皇帝』にはぼくが長く敬遠してきた下品さのかけらもなかった! もちろん、これには指揮者のイッセルシュテット(Hans Schmidt=Isserstedt)の功績も大きいと確信するが、 バックハウスの、充実しつつ謙遜なピアニズム、つまりは過不足ない絶妙な表現力は、音楽に内在する造形的さらには彫刻的な美しさを顕在化してぼくのような阿呆にも見事に示してくれる。
 それが最も遺憾なく発揮されるのが緩徐楽章でもある第2楽章だ。これまで数多くの美しいアダージオやラールゴを聴いてきたつもりだったのだが、大いにお見逸れいたしました!『皇帝』の第2楽章もおよそ人間業とは思われないほどの美しさだ。月並みな表現で恐縮だが、本当に、CDを聴いていても「思わず息を飲む」と言いたくなるほど。決して大袈裟ではなく、「啓示」にも等しい経験だった。つまり、生まれて初めて『皇帝』の魅力に圧倒されたという次第。

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(バックハウスの1959年の演奏だそうです)

 芸術とは面白いもので、いったんその世界の魅力の秘密を知るや、その後は坂を転げ落ちるボールのように、勝手にどんどんと理解が進んでいく。理解と言っては言い過ぎだとすれば、それまでよくわからなかった作品の魅力を知ってしまうと、その後はその魅力を貪るように味わいたくなる。キュビズムの絵画でも同じだろうし、現代音楽でも同じことだろう。最初はピカソの描くバラバラの人物画なんぞは激しい拒絶感を生むだけだったのに、いつの間にかその空間構成の魅力に取り憑かれてしまう。十二音階の音楽なんて、最初は幽霊が出る効果音にしか聞こえなかったのに、いつの間にか眠る前の音楽に収まっている。そして、苦手だった『皇帝』も、いったんその美しさを知ってしまうと、手元にある全ての『皇帝』を聴き直してみたくなってしまう。そうなれば、それぞれの演奏がそれぞれに面白く、結局、夜が白むまで聴き続けることになる……
 元々手元にあったCDに新たに数枚のCDを加え、合計10種類の『皇帝』を取っ替え引っ替え次々と楽しみながら、何となく自分が一種の「ドン・ファン」でもあるような気がしている。つまり、「どんな演奏も、実はそれぞれに味わい深く、甲乙をつけることに大して意味はない」と思われてならないのだ。世の中には「名盤番付」に血眼になっている人たちが多いようで、事実「名盤100選」のようなものが後を絶たない。下品なものになると「これを聴け!」といったような、やけに押しつけがましいリストさえある。そして自分の贔屓は褒めそやし、相手の贔屓はこき下ろす。やれ、最近のポリーニはどうだ、やれ、アバドはどうだ、やれ、カラヤンの下品さはどうだ、云々。けれども、まがりなりにもCDに録音され記録として残されている演奏であるなら、どんな演奏もそれなりに楽しめるのではないだろうか?(もちろん、その作品に興味がある限り、という但し書きは必要だろうけれど)。幸か不幸か、本物のドン・ファンのように多勢の女性とお付き合いした経験はないので、こと女性に関しては全く不明だが、例えばワインであれば、「どんなワインも、一定の水準を超えたものであれば、それなりに美味しい」ということは確実に言えるし、ワインを楽しむためにはワインそのものよりも、むしろ時と場合の方がいっそう重要な役割をすることも確かだ。それは日本酒でも同じことだろう。その上、同じ酒がいつも同じ味であるということもない。その日の料理にも影響されるし、こちらの体調にも影響される。そして、音楽も実は全く同じなのではないだろうか? アルゲリッチのピアノが聴きたくて仕方ないときもあれば、同じ彼女のピアノがヒステリックに聞こえて仕方ないときもある。バッハの音楽が天国的に心地よいときもあれば、機械仕掛けのドタバタ劇を無理やりに見せられたように白けてしまうときもある。だが、何にせよ、例えばバックハウスの弾く『皇帝』とグールドの弾く『皇帝』を交互に聴けるということ、そういう時代、そういう環境にいられるということは、実はとてつもなく幸せといえるのではないだろうか。そして、何はともあれ、この世に音楽があるということが、よくよく考えてみれば、とてつもない幸いなのではなかろうか。片方に深い厭世観を抱えつつ、こんなことをしみじみと思い、ただただ音楽に感謝! (H.H.)

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(これまた絶美ともいうべき、グールドの『皇帝』)
posted by 冬の夢 at 01:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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