2015年01月18日

二つの異なったこと:「テロ」と「表現の自由」

 おそらく、どこかでとっくの昔にだれか立派な哲学者が手際よく解決した問題だろうと期待するのだが、二つの異なった事象の間に関連性を認める、つまり、両者の間に確かな因果関係なり、有意義な対比なり、ともかく何かしらの確実な関係があると認識し、かつ認定する仕組みは、いったいどのようになっているのだろうか? 関係性を認める条件とは何なのだろう?

 例えば、極貧に苦しむ人がコンビニでパンを盗んだとしよう。その場合、その窃盗の直接の動機は空腹であり、窃盗に及んだ理由は所持金がないということにあると考えられる。このことは多くの人にとってほぼ自明のごとく理解される。一方、同じく極貧に苦しむ人が銀行強盗を企て、警備員を殺害した場合、この殺害の理由も所持金がないことに求められるのだろうか? 手際よくは説明できそうもないが、感覚として、「それは違う」と思えてならない。確かに極貧と銀行強盗には強い関連性が感じられる。お金がないから、たとえ不正な手段によってでもお金が欲しい。しかし、極貧と殺人には、いかなる確かな関連性もない。極貧と殺人を結びつける確実な根拠がない。仮に何らかの社会的統計が「富裕層と比べ、貧困層では殺人の割合が高くなる傾向がある」と示していると言われたとしても、それでもなお、「貧しいことが殺人の根拠になる」とは絶対に考えられない。また、銀行強盗と殺人の間にさえも、確かな関連性があるとは思えない。

 以上を前置きとして、パリで起こったテロ事件とそれに関する一連の社会的反応及びマスコミ・大衆の反応に関して、奇妙に感じていることを自分なりに簡単にまとめてみたい。要は、「言論の自由」と「風刺漫画」と「ジャーナリスト殺人」の間に、本当は何の関連性もないのに、テロリストの側も、「言論の自由を守ろう!」と息巻く人々も、両者が共にこれら二つの因子(風刺漫画と殺人)に、それこそ実存的な関連性が確実にあるかのように振舞うという、何とも愚かな間違いを犯している(と思われてならない)。言い換えれば、テロリストも「言論の自由擁護派」も、「あれかこれか」の妖術にたぶらかされているのではないのか? そんな気がしてならない。四の五の言うまでもなく、「何事も殺人を正当化することはできない」。この原則が全てであり、これで事足りるのではないのか。例外的に「正当防衛による殺人」がありえるだけで、だからこそ、ヨーロッパでは死刑までが廃止されているのではなかったのか。つまり、テロリストを批判・非難することと、言論の自由を擁護することは、本来は別物、これら二つの問題はそれぞれに個別に論じられるべきだろう。この二つの問題は決して同じ土俵には登れない。もっと簡単にいえば、たとえどんなに腹が立っても、それを理由に人を殺してはいけない。こんな、幼稚園児でも理解できそうなことが、テロリストには受け入れられなかったわけだから、問題の核心は、「なぜそんな自明なことが今さら蒸し返されたのか?」にあるはずだ。そして、この問に対する答えは「宗教を揶揄することは死に値する」であるはずだろう。あるいは「偉大な預言者を茶化すことは死に値する」ということかもしれない。いずれにしても、はたしてこれがイスラム社会において広く受け入れられる倫理価値観なのか、これが問題であり、そう考えれば、ここでもまた、テロリストが決定的に間違っていることは自明と言ってもよいだろう。「それは大罪だが、それで殺人を正当化することはできない」と、まともな人間なら答えると期待したい。(事実として、人間の形をした人喰い鬼は、日本にもアメリカにもイスラエルにもシリアにもいるわけだが……ついでに言えば、ヨーロッパで宗教を理由に大量殺人が行われたのはそれほど昔の話ではなく、16世紀の「宗教改革」の時代には、「キリストは人間だった」と言っただけで、生きながらに焼き殺されたわけだし、信仰の自由を主張した途端に、何千何万もの人間が虐殺された。それからまだ400年程度しか経っていない。) 要するに、何か恐るべき錯誤によって、愚かしくかつ無惨な殺人が行われた。しかし、それは「表現の自由」とは無関係だ。死人に口はないが、犯人たちに「表現の自由」について尋ねてみても、相手はそれこそ目を白黒させるだけだろう。彼らにはまったく理解を超えた概念だろうから。さて、このように「理解を超えた概念」をはたして人は肯定したり否定したりすることができるのだろうか。

 今度の殺人事件に「表現の自由」を持ち出す必要があるのか、正直よくわからない。襲われたのが新聞社だからなのか? テロリストが問題視した対象が風刺画だったからなのか? けれども、繰り返すが、「殺してやりたい!」(あるいは逆に「殺人をするな!」)ということと、「表現の自由を守れ!」ということの間に、どうしても無視できない齟齬があると感じられる。

 そもそも、「表現の自由」(あるいは「言論の自由」)を問題にするのなら、「その『自由』はいったい誰に対して保障されるべき自由なのか?」ということを真っ先に考慮しなければならない。国王に代表される「権力者」に関して「表現の自由」が問題になることなんか、それこそ問題外だ。権力者(王)は最初から何でもかんでも言いたい放題だったはず。(極東の比較的小さな島国の「王」あるいは「王妃」には、言いたいことがどうやら山ほどあるのに、それにも関わらず、極めて小さな声でしか話すことが許されない、まるで「フィロメラ」か「舌切り雀」のような人たちがいるらしいが……)もしも「言論の自由」というものが問題になるとすれば、その対象は誰よりも先ず「抑圧された者たち」であり、「自由に語ることのできない者たち」であることは、それこそ自明であろう。つまり、権力が占有してきた「表現の自由」「言論の自由」をもっと広く享受できるようにしろ、というのがその眼目であるはずだ。貴族・僧侶たちが独占してきた「表現」を第三階級にも自由に使わせろ! 表現の自由を今切実に必要としているのは、ヨーロッパではなく、むしろアラブの民衆、特に女性たちであるはずだ。

 ところで、現代のいわゆる先進国のマスコミというのは、これはときに「第四の権力」とも言われるように、間違いなく「権力をもった存在」であり、さらに言えば、マスコミこそが現代においては「表現」を占有している存在ではないか。なるほど、マスコミの舌を縛るものは確かにある。「スポンサー」と言われている、つまりは産業資本だ。マスコミが決して自由に語れないという事実は、例えば、日本の事実上の国営放送の有様を見ればそれこそ一目瞭然。反原発の特集も組めないし、政治家を揶揄したギャグも放映できない。しかし一方で、マスコミは容疑者の名前を晒し、小さな取るに足らない破廉恥罪を全国ネットで流し、浮気したタレントを晒し者にしてなぶり尽くす。ここで明白なことは、マスコミは強きに弱く、弱きに強い。マスコミは、自分の主人にはほとんど歯向かわないが、自分よりも弱い者に対しては容赦ない。だが、「表現の自由」がわざわざ問題になるのは、「自分よりも強い者に対して物言う自由」である。マスコミはそのためにこそ戦うべきだ。

 はっきり言おう。フランスのマスコミがアラブ文化あるいはイスラムを風刺するのは、学校の先生が生徒を風刺することと大同小異だ。逆ならば容易に理解できるし、共感もできる。生徒が先生を風刺するのなら、それこそ風刺の正当な使い方である。アフガニスタンの痩せ細った農民が肥え太ったアメリカのご婦人方を醜いメス豚として描いたなら、これまたある程度には理解できる。同様に、パレスチナにとって最も有効な対イスラエル闘争の手段は武力なんかではなく、気の利いた風刺であるだろう。そして、現代の中国の自由主義者に唯一「安全な」反共産党活動は匿名の風刺なのではないだろうか。

 フランスのジャーナリズムがすべきことは、アラブやイスラム原理主義を茶化したり風刺したりすることではない。そんな必要がそもそもどこにもない。フランスは「表現の自由」を謳歌している文化圏なのだから。だから、自由に、とことん、正々堂々と論理的に原理主義を批判すればいいのだし、そうして困る人は誰もいない。風刺は「一寸の虫にも五分の魂」を体現する表現形式だ。他にどうしようもない人たちが最後の手段として訴えるものだ。江戸庶民の戯れ歌だ。象や鯨が使うものではないし、鷲やライオンが使うものでもない。たとえ風刺がフランス文化の伝統の一部だとしても、その使い方を間違えたのであれば、それはただの愚行だ。

 しかし、まるでボタンの掛け違いのような今回の悲劇はほとんど収集不可能の様相を示している。殺人犯たちの主張は、暴力によって自らの主義主張を通そうとする点でテロリズムそのものだ。そして、いかなる良心もテロリズムに屈することを潔しとはしない。醜悪かつ無意味な「風刺画」は支持され続けるだろう。だからもう一度言おう−−「殺人」と「言論の自由」は本来全く別の事柄なのだから、両者を結びつけて考えるよりも、それぞれの問題を個別に考えるべきだ。さもないと、そのうちに「虐め」も「表現の自由」と言われかねない。(H.H.)
posted by 冬の夢 at 00:03 | Comment(2) | TrackBack(0) | 時事 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
フランスがテロとのと戦いとして「言論の自由」を主張することに対して、私も強い違和感を覚えました。今起きていることはそんな分かりやすい構図ではないと。彼らの言うことはもっともだけど、風刺画に対してのイスラム諸国の人々の憤りが間違っているとは思いません。ある人々にとっての当然の概念も他者にとっては全く受け入れられないものであり、ただ主義主張を繰り返すだけではさらなる不毛な争いを生むだけで、ならばこれからどうすれば良いのかと言われると言葉に詰まるのですが。
Posted by ごん at 2015年01月20日 22:29
自分でもよく整理しきれないことがあるのですが、「表現の自由を守ろう!」というデモが「政府主導」になってしまったこと(先頭を各国の首脳が占めていた!)が気色悪いのかも。だって、各国政府は現実に「表現の自由」を大なり小なり規制してきているのだから。良識ある人々が否応なく「政府支持」に組み入れられてしまう図式のどこかにファシズムの匂いさえ漂っています。表現の自由は、政府の片棒を担ぐ拡声器ではなく、自国の政府を批判する唯一の武器のはず。せめてあのデモのスローガンに「声なきイスラムとの連帯」みたいなものが混じっていたら(混じっていたかもしれませんが、そういうことはなかなか報道されない)、もう少しすっきりと共感できたかもしれません……フランス革命のスローガンだって「自由」だけではなく、それと並んで「平等」と何よりも「兄弟愛(博愛)」ってのがあったはずなのに。
Posted by H.H. at 2015年01月21日 00:12
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