2015年01月11日

パリ風刺紙襲撃事件とパロディの死

「シャルリ・エブド Charlie Hebdo」は、一度も読んだことがなく、歴史と知名度があるという「ル・カナール・アンシェネ Le canard enchaîné」も手にしたことがないから、フランスで「風刺紙」といわれるものが、日本でいうと、どのあたりの新聞・雑誌にあたるのか──文字メディアを読む階層・文化の違いが大きいから比較できないことはわかっているが──空気感がわからない。
 シャルリ・エブドのビルでは、警官一人を含め十二人もが殺害された──居合わせたマンガ家がいちどに五人(ひとりは発行人)亡くなっている──が、休刊せず来週も発行するという。
 事件は起きたばかりで、その背景には、はっきりしない所がまだまだある。
 報じられたように、実行者のひとりが特定集団の軍事的訓練を受けていたとして、かりになんらかの命令に従って行った行為なら、風刺漫画にキレて成敗した、ということとは違う思惑が背後にある。いまひとことで、この事件はこういうことだとはいえない。

 風刺や批評は、その対象を尊重しながら行わなければならない、という意見がある。たとえば、同性愛者や女性への差別を助長するような表現は風刺や批評ではない、行ってはならない、というように。
 しかし。
 イスラム教徒の神経を逆なでするような下品な漫画を載せて部数を稼いだりすれば、撃ち殺されても仕方ないじゃん。怖いんだよ、イスラム教徒って──。
 そんな考えかたは、間違っている。
 イスラム教徒に「おだやかに」叱られるだけだ。
 ならば「ヘイトスピーチ」も「表現の自由」なのか。
 いうまでもない。表現の自由だ。
 同性愛者や女性を抑圧したり下品な扱いの表現をしてはならないという法律による禁止や抑制も、用意してはならない。 

 日本国憲法、第二十一条の一。

 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 憲法の他の条文に出て来る「公共の福祉」という但し書きはない。
 どんなに下品で粗暴な表現にも「表現の自由」がある、となれば「やったもの勝ち」ということになるから、にわかには受け入れがたいかもしれない。
 めげているとき、慰めようとする見当ちがいの冗談をいわれたら、余計に参ってしまう。そんなことに始まって、笑いに含まれる毒は、ときに大きな副作用や拒絶反応をもたらす。
 なのになぜ憲法に、表現の自由は、公共の福祉や利益を侵さない限り、という但し書きがないのか。憲法条文に欠陥があるのだろうか。
 いや違う。
 自分の心をあらわにすることに対し、権力からいかなる支配も受けないこと。誰も疑問に思っていないかもしれないが、その状態は、酸素や水の存在と同じくらい大切なことだ。それを失わないため誰もがしなければならないのは、あらゆる「許せない表現」を受け止めること、しかも、許せない表現の限度を広げ続ける苦しい実験の繰り返しに参加することだ。なぜか。
 アクティブな行動によって行使し、育て続けなければ、「表現の自由」はいつしか失われるからだ。餌を待つ家畜のように口をあけて「きもちのいい表現」を待つだけだったり、他人の行った表現のあげ足をとるだけで偉そうにしていてはいけない。他者の表現を受け止め、自分も表現することで、自分が表現すべきこととその方法を、考え続けなければならない。それが表現の自由の本質なのだ。

 すっかり忘れていたが、「カナール・アンシェネ」は、二〇一三年九月、東京オリンピック開催の決定を受けて二つのブラックコメディマンガを載せた。その内容が「東日本大震災の被災者の心情を傷つけるものであり不適切で遺憾」として、日本政府は在仏大使館に電話抗議させた。それが日本でも話題になったのだ。
 日本での報道は、抗議に対し「カナール・アンシェネ」がいかに下品に開き直り、責任逃れをしているか、という文脈だった。「フランス人は屁理屈ばかりコネるイヤな奴」というイメージがあらためて広がったに違いない。
 載った漫画が「不適切」かどうかは、ネット上で容易に画像が見つかるので判断していただくとして、「カナール・アンシェネ」は翌週号で、マンガで解らないなら言葉で説明してあげましょうといわんがばかりに、福島の原発事故に関する機能不全や不手際について徹底して解説したそうだ。
 それというのも、なぜ「カナール・アンシェネ」に「被災者の心情を傷つけるものであり不適切で遺憾」なマンガが載ったか。発売数日前、ブエノスアイレスで開かれていた国際オリンピック委員会の最終プレゼンテーションで安倍晋三が、背筋が寒くなるような嘘をつき、オリンピックが東京で開催されるはこびとなったからにほかならない。

 読んだこともない「カナール・アンシェネ」の話題を使って「シャルリ・エブド」のカタを持ちはしない。風刺や笑いは、かならず人を傷つける。大阪流で、自分に向けて他者の傷を薄める「自虐ねた」という方法があるが、風刺や笑いには毒がある、という点は変わらないのだ。
 しかし、笑いに笑いで切り返すセンスを世界が失い、笑いに毒をしのばせる叡智を世界が捨てたら、そのさきには、有無をいわせぬ殺戮で黒白がつけられる、言葉なき世界しか存在しなくなる。(ケ)
 
 
* パリでの襲撃乱射事件は直近の日本の報道を、「カナール・アンシェネ」のマンガ掲載については、
  jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE98B06E20130912 ほかを参考にした。繰り返すが、実際に両紙を読んだことはない。
 

posted by 冬の夢 at 00:00 | Comment(3) | TrackBack(0) | 時事 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
表現の自由は当然守られるべきだと思います。ただそれが特定の宗教、民族で特にマイナーとされる人々に向けられたものである時、多くは主義と思想に欠ける単なる感情的な「差別」でしかなく、さらにそのような人々に対する「殺せ」という言葉は表現ではなく凶器です。守られるべき「表現」とは…。今回のシャルリ・エブドの事件では色々なことを考えさせられます。

Posted by ごん at 2015年01月12日 00:23
表現の自由といって何をいっても許されるなら、誹謗中傷と言う概念は不要ですね。
相手の気持ちを配慮してこそのユーモアじゃないかな。
身勝手な表現の自由が許されるなら、言葉なき世界の方がどんなにか良いことか。
Posted by 嘘つきは嫌い at 2015年01月18日 19:02
 本文にもあるとおり、わたし自身も心情ではいまだに受け入れがたいところがありますが。
 表現(言論)とは、身勝手なものなのです。したがって、誹謗中傷も表現(言論)です。
 相手の気持ちに配慮する、とか、思いやり、ということはマナーとしては大切かもしれませんが、それがとんでもない誤解やおせっかいである場合も、ないとはいえないでしょう。
 
「つまり、政治的なものにせよ、審美感にせよ、自分の思想や信条では公共の福祉の害だと判断されるものに対してでさえ、敬意を払わなくてはならない、ということだ。」(ウィリアム・O・ダグラス、一九五一)
Posted by (ケ) at 2015年01月18日 19:44
コメントを書く:ペンネーム可・アドレスは表示されません
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック