2014年10月28日

こわれたデジタル写真【2/2】

──【1】はこちら

 なくすと困る大切な写真は、プリントにして保存する。これが昔も今も変わらない最善の写真保管法だ。

 百七十年ほどの写真の歴史で、いまのところもっとも美しく長期間画像を保持している写真は、モノクロプリントだ。
 わたしが実家で見ていたような、素人が撮った記念写真でも一目瞭然。汚れや破れは別として、わたしが幼いころの写真はもちろん、子ども時代のわたしの親が彼らの両親、つまり、わたしのジイちゃんバアちゃんと写真館で写したような写真だって、びっくりするほど細部の再現がいい。色がついていないだけだ。
 わたしが写っているモノクロ写真は五〇年以上、ジイちゃんバアちゃんの家族写真なら軽く七〇年以上たっているから、「銀塩写真」の保存力は時間が証明している。わたしが子どものころオモチャカメラで撮った写真でさえ、写りの甘さはともかく画像の劣化は感じられない。六〇年代ごろのカメラ屋さんの現像焼付は職人的に徹底していたということかもしれない。

 昔のモノクロネガフィルムは、保管中の自然反応でベースが劣化、収縮を起こす事態が指摘されている。九十年代以前のモノクロネガにその可能性があり、実際に昔の貴重なネガが侵されたケースもあるそうだ。しかし現在のフィルムベースは別の素材に替わったし、昔のネガでも保管が良好なら、よりよい用紙や装置でプリントすれば素晴らしい写真がよみがえる。昔のモノクロ映画のニュープリント版を思い出せばいいわけで、きちんと撮影されたモノクロネガフィルムが視野を蓄える力は、いかにすごかったかと。

 ただカラーネガプリント、カラーネガフィルムの保存性となると、赤ランプ点滅状態か。家庭向けカラー写真はとくにそうで、七〇年代ごろのネガやプリントには退色がひどいものがある。八〇年代になって「百年プリント」という商品が出て来たと思うが、あれは良好なのだろうか。
 わたしの実家にあるカラープリントも、七〇年代のものは数年前見たらかなり厳しい状態だった。台紙に接着剤がついていて透明フィルムでカバーする式のアルバムに貼ったものは、台紙そのものの傷みも含めとくにひどい。この、密封する形での保管の方が本来よいらしいが、貼付けのやり方や保存場所が悪いのが裏目に出たらしい。接着剤も当時のは成分が強過ぎたか。「焼き増し」用にネガを保管しておく習慣が薄かった時代ゆえ、のり付きアルバムから一枚ずつ剥がして整理し直すしかないが、これ以上、さわれない気もする。

 現在のデジタルカラープリントは、発色はもちろん保存性も格段に進歩しているはず。やっぱり大切な写真はプリントにしてとっておくことだろう。

 が、わたしはぜんぜん、そうしていない。
 
 プリント店でプリントした写真は、カメラやパソコンのモニタで見るのとは違った感じに仕上がる。かなりの違和感で、決定版とは思えないプリントを「保管」する気持ちになれない。
 ネガフィルムをDPEショップに渡し写真ができるまで、素人にはどう写っているか解らなかった時代にはなかった問題だ。
 それが不満なら、自分で相応のバソコンとプリンタを買って両者の設定を詰め、自分でプリントすればいい、しかし、ただでさえ撮影枚数がフィルム時代の何倍にもなっているデジタルデータのためにそこまですると、撮る気がうせてしまう……。

 デジタルカメラで撮って、データを保管することが、むなしい予定調和の繰り返しに思えてくる。
 壊れてしまうかもしれないデータの面倒を見つづけることが、その写真を何度も熱心に見直すことになるのだろうか。ならない気がする。

 母の父つまり、わたしの母方の祖父は早く亡くなり、その人の写真は実家に1枚しかなかった。それも、ブローニー6×6判の密着で、風呂場のタイルのような小さい正方形の写真。国民服の立ち姿で写っているジイちゃんはルーペで見ないと顔がわからないほど小さい。兄姉妹たくさんの末っ子の母は、父親のことはあまり知らなかったらしく、なぜかバアちゃんもあまり話してくれなかった。いまこの場では写真に写ったジイちゃんの姿形を思い出すことはぜんぜん出来ないが、あの1枚の写真の大きさ、手ざわり、モノクロの色調、なぜかジイちゃんその人ではなく背景の空気感、そうしたものが浮かび上がってくる。
 さっきからデータの保存性、というようなことを話してきているけれど、孫のわたしと出会うことはなく、そうだと説明されなければどこの誰かもわからない、いまのわたしより歳下に違いない男の姿をくっきりと写し出しているただ一枚の写真とは、何なのだろう。つまり、その他すべての写真が失われることで存在している一枚の写真。この一枚を、その後八〇年近く残すために撮影した、この写真の撮影者とはいったい誰なのか。思いは止まらない。
 いま自分が、何かの集まりに招かれて──そんなことは最近はなくなってしまったが──写真を撮ってと頼まれたら、たちまち百枚くらいは撮ってしまう。同じカメラで動画も撮れる。多少の取捨選択はするにしても、この、私的な出来事の場にあったことほとんどすべてを撮った山のような、将来誰も見ないようなデータを未来永劫、保管しようとすることにいったい何の意味があるのだろうか。写真の専門家からすれば、その行為自体に意味がある、ということになるのかもしれないが……。
 さきほどあまり意味がないように書いた、最近のカメラの機能と関係があることなのかも知れないが、デジタルカメラで撮って、データを保管する「作業」には、いつも「させられている」感がつきまとう。それを「面白い」と思うとしたら、ちょっと変なのではないか。
 しかし、だからといって、街中でふつうの人があまり居ないような場所で撮ったり、ふつうの人はあまり写さないようなものにカメラを向けたりして、あ〜でもない、こ〜でもないとやっていることのほうがよほど変なことなので、こう聞かれてしまう。

「写真はご趣味ですか〜」

 振り返ると、おまわりさんが立っている。(ケ)

posted by 冬の夢 at 03:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 写真 カメラ・写真家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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