2019年09月20日

フリーズとプリーズ──ハロウィンと日本人留学生射殺事件【二〇二一改】

 日本でハロウィンが盛り上がり出したのは、いつごろからだろう。
 東京・渋谷で、若い人たちがセンター街を埋め、奇声を発したりするのに驚いたのが二〇一〇年ごろだったか。子どもの行事としては、それより前からなので、すっかり定着しているわけだ。

 ハロウィンといえば、三〇年近く前のことだが、アメリカで日本人留学生が射殺された事件を忘れることはできない。外国で英語がうまくできなくて困ったとき、かならず思い浮かんだできごとでもある。

 留学中の日本の高校生が、ハロウィンパーティに出かけたが、訪ねる家を間違えた。
 すると、その家の男が拳銃を構えて「フリーズ(Freeze)」といった。
 しかし留学生には「プリーズ(Please)」と聞こえたので、そのまま近づいたら、射殺されてしまった。発砲した男は無罪だった。
 という事件だったと思うが、いま仮装して集まる若い人たちは──おとなもいるが──おそらく誰も知らないだろう。

 あらためて思い出すと、どことなく変だ。
 ほんとうに英語の聞き間違いで、そんなことが起きたのだろうか。
 かなりの年月がたっているが、調べてみることにした。
 当時のアメリカでの報道も確認したかったが、力不足で、アメリカで制作されたテレビ番組の録画をすこし見たほかは、ほとんど日本の本や雑誌で調べた。おもに日本語の情報をもとに、アメリカの事情を書いていることになるが、お許し願いたい。

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『フリーズ ピアーズはなぜ服部君を撃ったのか』という本で(文末参照)、事実関係と刑事裁判の流れを、アメリカの法律の仕組みとともに知ることができた。
 アメリカで弁護士をしている日本人と、アメリカ人新聞記者の共著だ。法律家が再現した法廷のようすには緊迫感があり、事件のことも、当時の日本のメディアに理解できたとは思えない点が伝えられている。事件直後、発砲者に警察が行った尋問の調書の写しも巻末に付されていて、とても興味深かった。
 ただ、率直なところ、この本は読みづらい。理由を書いていると本題に戻れなくなるので、読みにくいせいで大切なところを誤読していないよう祈りつつ、さきへ進むことにする。この本と、集めた雑誌記事などから、たどり直した事件の経緯はこんな感じだ。

■事件の経緯と「パーティに来ました」

 一九九二年十月十七日の、夜八時過ぎ。
 米ルイジアナ州バトンルージュ市の郊外で、ふたりの男子高校生が、ある家を訪れた。
 ひとりは、AFS留学プログラムで二か月前に来米したての、十六歳の日本人高校生。名古屋生まれで、愛知県下有数の進学校生だ。
 もうひとりは、米国人高校生で、留学生の受入家庭の子。留学生と同い年で、いっしょに学校に通い、英語がうまく話せない留学生を助けてあげていた。

 ふたりが向かったのは、受入家庭がある市内から車で四十五分ほどの、べつの留学生受入先。留学生を集めて親睦ハロウィンパーティをします、という話だった。
 運転したのはホストファミリーの男の子。ルイジアナ州では深夜以外なら十六歳で運転ができた。 
 ところが、道を間違えて時間に遅れ、めざす街区に着いたが番地も間違え、違う家を訪ねてしまった。ハロウィンの飾り付けがあった家のドアベルをホストファミリーの子が鳴らしたが、留学生パーティをする家ではなかった。

 玄関ではなく、その家に向かって左の駐車スペースの奥の通用ドアを、奥さんらしき人が開ける。そのドアは急に閉じられた。
 家を間違えたらしいと、ふたりは路上に停めた車に戻ろうとする。
 すると、閉じられた通用ドアがもう一度開き、男が拳銃を両手で自分の前に構えて出て来た。
 車に戻りかけていた日本人留学生は、ホストファミリーの男の子に「やっぱりパーティはここだよ」といって、男のほうへ歩き出す。
 ホストファミリーの米国人高校生には銃が見えた。「ノー、カムバック!」と大声で何度も叫ぶ。
 しかし、日本人留学生は軽い足どりで嬉しそうに体を左右にふりながら「パーティに来ました」といって──ホストファミリーの男の子の記憶では「I'm here for the party. みたいなこと」をいいながら──近づいていった。
 日本人留学生は、映画『サタデイ・ナイト・フィーバー』のファンで、主演のジョン・トラヴォルタの扮装。英語がまだうまく聞き取れなかったからか、話しかけられると相手に飛びつくように近づく癖があったという。

 男は留学生に「フリーズ」といった。
 留学生は立ちどまらず近づきながら「パーティに来ました」と繰り返す。
 男は発砲した。

■フリーズとプリーズの真相

 事件後アメリカで放送された番組の録画を見ると、現場はアメリカの映画やドラマでよく見る郊外の宅地だ。
 車道に面した広い敷地の正面は芝生。道路ぞいに郵便受けがあり、リードインがあって車停め、その奥に平屋の大きい家がある。
 といっても、広いとか大きいというのは日本の住宅事情からすればで、高級住宅地ではなく、住民の所得や教育水準は、かならずしも高くない。

 日本人高校生を射殺した男は、そのとき三十歳。高校卒業後、大手スーパーに勤務してきた、前科のないふつうの市民だ。
 だが、撃った銃は日本でも「マグナム」という名が知られる、四四口径の大型拳銃である。写真を見ると、鹿猟用の巨大なスコープがついた、持ち上げるのも大変そうな、ごつい銃だ。
 男はほかにも拳銃や散弾銃を持っていたが、違法所持ではなかった。銃器マニアでも狩猟家でもなく、シューティングレンジで撃つ趣味もなかったらしい。ということは、一般家庭に護身や自衛のための攻撃的な武器が揃っていると考えるしかない。ちなみにルイジアナ州刑法では、正当防衛の特別規定が明文化されていた。不法侵入を企てたり侵入したりした者を当該施設内で殺した場合、侵入を防ぐか退去させるため必然と信じて行ったなら、正当防衛で免責というものだ。

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 男が、「フリーズ」といったことは間違いない。
 しかし、留学生が「プリーズ」と聞き誤ったという事実は、調べたかぎりでは見つからなかった。
フリーズプリーズ」を聞き間違えたかどうかは、撃たれて胸に大穴があき、呼吸困難のうえ動かせば痛みで全身が跳ね上がるほどの状態で、まもなく亡くなった留学生本人から聞くしかないのだ。日本の報道で誰かが無責任に推測したことが、ひとり歩きしたのではないかと思う。
 なお、アメリカのアクション映画でよく出くわす「フリーズ(動くな)」は、じつは映画にしか出てこないような表現だそうだ。ほんものの警察は、使わないという。

■発砲者が無罪になった刑事裁判

 事件が起きた年、バトンルージュ市内と近郊では、七十四件の殺人事件があった。
 その地域の人口は計三十数万人。東京の中野区ほどだ。
 殺人事件の大半は加害者も被害者も若い黒人で、そのほとんどが、やはり銃によるものだったが、日本人留学生が射殺された件以外の捜査や裁判は、まったくといっていいほど注目されていなかった。
 ならば、日本人留学生射殺事件だけが、なぜ大きな問題になったのか。
 それは、空港でレンタカーを借りないと市内へ行けないようなところに──州都だが──日本から報道関係者が殺到したのがきっかけだ。一般家庭に銃があるようなアメリカという国のありかたを、この事件をつうじて日本が非難する気らしい、と受け止められたのである。捜査や裁判はもちろん、住民のようすまでも、日本のみならず全米からも注目されることになるので、このときバトンルージュは、はからずもアメリカを代表する形で、銃をめぐる価値観論争の舞台になりつつあったのだ。

 日本人留学生を射殺した男の刑事裁判は、かねてから地元では敵同士で知られた、検事長と被告人弁護士の対決となる。後者は功名心の強い男としても有名で、関心はいやおうなく高まった。
 ところが前出の本によると、陪審判決は、発砲した被告をあっさり「無罪」とした。
 弁護士は予想どおり過剰な法廷パフォーマンスで被告を弁護したが、その必要がないほど検事の追及はにぶく、陪審員らの評決も「それがなにか?」という感じに思える。取材に応じた陪審員のひとりからは──ジュディス・クーリーという当時四十四歳の白人女性で、事件発生地区在住の事務員。本人も散弾銃を所持──こんな発言さえ、出てきたのだ。

他の国から来て、私の国をどうしろ、こうしろと言うのを聞くと腹が立つの。日本国内で何が起きようと、私には関係ないわ。戦争に勝ったのはアメリカでしょう。今度は、日本がアメリカに意見しようっていうの? 私は銃規制に反対だし、一人の少年が死んだからって、銃を廃止しろなんて信じられない」

 刑事裁判で陪審評決の場合は一審確定で、日本人高校生を射殺した男は完全に無罪になった。


■民事裁判の法廷戦略と判決

 刑事裁判の被告無罪で、日本人留学生の両親は民事訴訟提訴を決めた。そして地元の弁護士事務所に起訴を依頼する。
 その選択は興味深いが、民事裁判で亡くなった留学生側を担当した弁護士は、なにびとも法の下に平等であるという哲学をもち──皮肉でなく当然だと思うが──ほかの弁護士が忌避した訴訟を、数多く手がけてきた人だった。

 刑事訴訟の無罪評決は、もちろん当時この地域の大多数の人が──多くのアメリカ人もそうだったろうが──共有していた価値観の反映といえるだろう。それは、銃のことで罪が問われるのは「非合法・不正当な場合だけ」という考えかたであり、法の下で正しさ≠ノ裏づけられていさえすれば、銃を持つのも、発砲して誰かを殺すのも、市民の権利だという認識のことでもある。銃の所持と使用の自由を、基本的人権と同じようなものと見なしている、といっても、あながち間違いではないだろう。銃が手の届くところに存在している状態も、法治社会を確立する正義や安全のために、むしろ必要なことなのだ。
 実際のところ、バトンルージュの弁護士たちの間でも、留学生を射殺した男の発砲は安全を守るための正当なものだ、という意見が多数派だったそうだ。

 そうした価値観が支配的な場で、民事裁判で留学生側に立った弁護士は、周到に備えた。
 まず、銃所持や発砲の是非が法廷の議論にならないよう注意したと、回顧している。
 また、やはりバトンルージュの堅固な価値観≠セった人種問題、この事件との関連でいうと、黒人と間違えて撃ったかもしれない、ということも、法廷でとり上げられないよう、気をつけたという。
 かんじんの問題をあいまいにして議論を避けた、という批判は成り立つが、少年を射殺して無罪になった男に非があることを、法によって宣告するための戦術だった。

 留学生側の弁護士はさらに、情緒に訴える方法をとる。
 射殺された留学生には暴力や犯罪の資質などなく、ただ訪ねる家を間違えただけと強調、来米して日が浅いのに、学校の人気者で明朗な少年だったことも、地元の人を証人にたて熱意をこめて証言させた。
 見るからに「よい少年」を殺してまで、身の安全を守る必要があったかどうかを問うたのだ。
 弁護士は、刑事裁判のときのような陪審裁判でなく、判事裁判に「なってしまう」ように、裁判手続きを戦略的に展開もして、判事判決になったことも、殺された日本人留学生側に有利にはたらいたという。

 結果、民事裁判では銃撃は正当でなかったという判決。
 ルイジアナ州では上限に近い損害賠償額、当時で約七三〇〇万円の支払いが、発砲して日本人高校生を射殺した男に命じられた。
 控訴棄却、判決確定。
 発砲した男は、一部を払ったのみで自己破産、家族とともに街を出て、以後ゆくえは不明だそうだ。

 日本人留学生の両親は、事件後早いうちから、アメリカの家庭に銃が存在しないように、という運動をはじめた。
 アメリカ国内にも声が届き、現在も運動は受け継がれているそうだ。
 それ以後も日本ではアメリカ人留学生の受入家庭になり、娘さんもペンシルヴァニア州へ留学させたという。敬服すべき行動だ。

 ただ、ここまで調べても、はっきりわからないことが、どうしても残った。
 なぜ撃ったのかだ。
 武器は抑止力ではなく使用しなければ意味がないというような、よく聞かされる理屈ではわからない。
 ひょっとして撃った男にも、明瞭には説明できないことだったのだろうか。

■聞き間違いより重要な「正当性」

 刑事と民事では、裁判の進みかたも判決も違うから、争点がちがったように思えるが、それは共通している。銃の是非に関係なく、発砲し殺したことが「reasonable」つまり正当あるいは妥当、だったかどうかだ。そのあたりは、よく理解することができた。
 しかし、なぜ日本人留学生は、射ち殺されなければならなかったのか。

 最初に日本人留学生の姿を見た男の妻は、ドアを強く閉めてカギをかけた。
 なのに、夫にむかってこういった。発砲した男が、警察の尋問に答えている。

 she hollered at me to go get the gun.

 ハロウィンの扮装で、ふざけ半分の、見知らぬ高校生が訪ねてきたとき、なぜ「鉄砲もってきて!」とまで怯えたのだろう。
 また、自分よりずっと柄の小さい高校生に、命中すれば死んでしまう銃をなぜ向けて脅す必要があり、発砲さえしなければならなかったのか。
 どうして、そのような行動が、基本的には「reasonable」なのだろうか。

 アメリカの実態を知らないとか、安全ボケした日本人感覚だと、いわれるかもしれない。
 そうかもしれないが、この事件の原因を、撃たれた日本人留学生の英語力不足や、留学先の地域事情に疎かったことに帰したくはない。それに、亡くなった留学生をそう批判するなら、留学させた両親はもちろん、まず地元のホストファミリーを、愚か者と非難しなければならない。
「フリーズ」と「プリーズ」の聞き間違いが死を招いた、ということで、この事件を記録してしまったら、アメリカの地域と家庭を善意で訪れた、日本人高校生の命を奪うことになった、もっと大きな問題が見過ごされてしまう。

■なぜ銃が必要なのか

 当時のバトンルージュ市街から郊外一帯には、地図には載らない、見えない境界線があちこち走っていたはずだ。おそらく現在もそうだろう。
 アメリカの市街地図はしばしば、見えない境界線と色で区切られ、塗り分けられている。
 知らずに境界線を越えると、ストリートひとつ違うだけで様相が一変することがよくある。わずか1ブロックきりの環境にそぐわない、なにかを持ち合わせているだけで身の危険を感じる場合もある。
 ハロウィンパーティに向かった、ふたりの男子高校生の車は、道を間違ったとき、入るべきでない地域に、入るべきでないなにかを身につけて、迷い込んだのだと考えている。

 アメリカの番組録画で見た、事件が起きた家と周囲の宅地は、日本の生活実感からは、すこしうらやましくさえ感じる、ほどよい感じだった。
 けれども、アメリカで一度でも、アジア系だというだけの理由で、それに応じた扱いを受けたことがあれば、ストリートギャングだらけの地区に用もなく行かないのと同じように、田舎町のさらにサバービアな地域にある一面識もない家を、けっして間違えて訪れたりはしないだろう、とりわけ夜には。

 バトンルージュに行ったことはなく、アメリカでひとつの街に二週間以上いたこともないので、説得力はない。欧米諸都市を徘徊した嗅覚だとしかいえないが、都市近郊のあの、工業製品のように均質に作られた住宅街に出くわすと、それと対照的な薄汚く荒れた危険なブロックと、似た抑圧感が漂ってくる。
 そうした地域の塗り分けや境界線の存在は、アメリカの場合は、たんに所得の格差からだけでなく、人種や民族をはじめ、さまざまな要因で生じた階層を反映している。
 もちろん経済的社会的に低い立場の人たちが多く住む地域には抑圧感があり、通り抜けるだけでそれを感じることもある。だが、だからといって高所得の白人層が集まる地域はどうかといえば、そこにもしばしば、不安と緊張が漂っている。

 上層の人たちは、競争の緊張と転落の不安のなか、弱い人たちを過剰に排除する。
 いっぽう下層の人びとは、しばしば弱者どうしで争って、隣人づきあいを偽善で粉飾している。
 どちらを向いても、見えない境界線に囲まれている社会では、自分──と、せいぜい自分の家族──だけを守る武器がなければ、安心できない。
 しかし、ひとたび武器を持つと、隣の敵がもっと強力な道具を揃えたのではないかと、怯えなければならなくなる。
 アメリカでは、その怯えだけなら容易に解消できる。近所のガンショップへ行けば、より殺傷力が強いうえ扱いも楽な武器が、すぐ買えるからだ。

■アメリカから銃が消える日

 アメリカの、ふつうの市民の身の回りから銃を完全になくすことは、不可能なのだろうか。
 かぎりなくむずかしいことだとわかっているが、できると思っている。
 もちろん、いきなり銃砲禁止法を作ろうとしたり、大統領令でなんとかしようとしたら、上院議員だろうが大統領だろうが、まちがいなく暗殺されるだろうが、もっと違う方法で、鉄砲は必要なくなるはずだ。

 十字架、車、そして銃──これらはアメリカにおける三種の神器のようなものだが、はじめのふたつを、もしやめることができ、そこから社会が変化していったとき、三つめの銃は、ほとんど「いらない」ものになっていると思う。

 まず、車をやめることだ。
「車がないとやってられない!」──これは日本でもよく聞くが、すくなくとも市域中心街から、ある程度の範囲の郊外までは、安全で快適な公共交通網を作ること。
 これまで境界線で区切られ、塗り分けられていた地域が、さまざまな階層の人々が乗り合わせる公共交通でリンクされ、歩く人たちが顔を合わせる商店街がつながっていくことで、市域とコミュニティが形成されるように。
 車がないとやってられない環境をそんなふうに変えるのは、まるで不可能なようだが、かつて全米のおもな都市には、公共鉄道路線があるのがふつうだった。道路渋滞が名物になってしまっているロサンジェルスだって、かつてはよく知られた公共鉄道網があったのだ。もとに戻すだけの話である。

 ほんとうは同時にやりたいところだが、キリスト教をやめる。
 もちろん、アメリカ人がみな教会通いやお祈りを欠かさないわけではなく、そういう人は全米的にみれば多数派ではないだろうが、キリスト教とはるかに長い歴史的関係をもっているヨーロッパ各国より、よほど強くキリスト教的価値観に支配されているのが、アメリカなのだ。
 大統領は聖書に手を置き、聖書にふれた手で戦争をする。核ミサイルを発射するのも聖書の手だ。それとも宣誓とはべつの手でボタンを押すことになっているのだろうか。
 キリスト教、それもアメリカでは勢力が大きい、プロテスタントとそこから派生した新興宗派に、ほとんど例外なく存在しているといっていい抑圧と偽善。それが、アメリカの風土へ深々としみわたっていて、儀式的な宗教行為には縁がないアメリカ人たちをも、ほとんど意味がないほどの、どうしようもない排他性と、それと矛盾するとしか思えない他者へのひどいおせっかい、そして、よけいな暴力に駆り立てる。それを、始まりから「なし」にしようというのだ。
 個人の信心は自由なので、個人の信念としてキリスト新派的な価値観を持っていることはかまわないが──いや、あまりムチャな排斥論になると、こちらが暗殺されるというか、火炙りにされかねないから、このくらいにしておこう。
 
 どちらも、まったく不可能なことだといわれたら、反論できなかったりもするが、これをせずに、かりに法規制で一般市民の銃所持が制限されたくらいでは、she hollered at me to go get……=i……を持ってきてと叫んだ)はつづくだろう。所持できる小型拳銃なり、あるいは別の武器が「……」の部分に鎮座するだけだと思う。
 
私の国をどうしろ、こうしろと言うのを聞くと腹が立つの。日本国内で何が起きようと、私には関係ないわ。戦争に勝ったのはアメリカでしょう。今度は、日本がアメリカに意見しようっていうの?

 ああ、そうですか。
 たしかに、あんたがたの得意な、よその国へのよけいなお世話かもしれないな。
 しかし、いまさらだけれど、こっちにも、ひとこといわせてもらいたいね。

 日本でこんなに盛り上がってる、「ハロウィン」を、いちど見に来てほしいな。
 そしたら「日本国内で何が起きようと、私には関係ないわ」なんて、開き直れなくなるぜ。
 というのはね、日本では、戦争に勝ったのはこっちだなんていって、いまだに同胞にむかって銃をぶっ放してるアメリカより、もっと深い意味で、みんながハロウィンをやっているんだよ。
 その意味はね、え〜と、なんだっけ……。(ケ) 

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【参考】
『フリーズ ピアーズはなぜ服部君を撃ったのか』/平義克己、ティム・タリー/集英社/一九九三年
「服部君裁判」勝利の瞬間/チャールズ・ムーア/『文藝春秋』一九九四年十一月号
 www.moorehebert.com/who-we-are/charles-r-moore
 www11.plala.or.jp/yoshic/


※ 二〇一四年一〇月二十三日投稿の初稿を、二〇二一年一〇月一〇日、再構成し再掲しました。話の流れや考えは変えておらず、これまでにいただいたコメントが無意味になるような手直しはしていません。管理用


posted by 冬の夢 at 22:19 | Comment(4) | TrackBack(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
子供のための銃「マイファーストライフル」のCMでは「強く優しく頼もしい」父親とその家族の幸せそうな様子が見られます。銃による被害者にはとても正視できない内容と思いますが、銃による犯罪が起きるたびに銃規制に反対する人々が逆に増えていく現実をどう受け止めるべきかわからなくなります。例えば遠隔操作でミサイルを発射するよりは目の前でことが起きるという点でより生の暴力と言えるのか、どちらがより「人間的」なのかと。なぜ人が人を殺すのかということに正面から答えを出せない以上、この問題も永遠に続くように思います。
Posted by nul at 2016年11月07日 21:23
久しぶりにアクセスしました。(14年のは拝見していません)
この事件、もう二十年以上前になるんですね。当時の記事で、Freeze! が聞き取れず…というのは覚えていますが、「プリーズと聞き違え」は記憶にない。たぶん、後追い解説など読まなかったのでしょう。
その頃、私はアメリカ製アクション・ドラマを見まくっていて、このセリフに馴染んでいたせいか、それじゃ可哀そうだがあり得ること、と片付けていました。「フリーズとプリーズ」はカタカナで書き並べるとそっくりだが、原音セリフで聞くと語感がだいぶ違う。発する語気も相当別なはずですが。
コトバ談義はともかく、「抑圧地図」から問題をみるという視点はいいですね。
また、「なくせる確実な方法」と掲げて、問題の永続性を説く論法も気に入っています。
発音の話に戻るけれど、今の人はハロウィンをハに強勢を置いてしゃべりますね。これを新鮮(あるいは妙)に感じるのは自分の頭に昔の表記ハロウィーンが残るうえ、私が「テレビを見ない」人間なのだもので。
Posted by 山本 謙吉 at 2016年11月09日 12:59
あまり大きな声で言うことではありませんが、アメリカというところにはほとんど何の興味もないので、本来は何も言う資格はないと思っていますが、アメリカらから銃をなくす、少なくとも何らかの実効的な銃規制をするためには、アメリカ合衆国を少なくとも今のEUのような、複数国家の連合体に変えることが一番簡単な方法のように思います。つまり、州の独立を認めるということ。連邦政府の権力を制限すること。現在のアメリカ合衆国の歪みの多くは、あの国があまりに巨大であることに原因があるのでは? アメリカ、中国、ロシア。バカみたいに図体がでかい国家はどこか根本的に奇妙なところがある、というのは「小国日本」に特有の島国根性の反映でしょうかね? とはいえ、これこそありえない夢物語ですけどね。
Posted by H.H. at 2019年09月20日 22:32
フリーズとプリーズ。この発音の違いは、私は昔英語が得意だったから、静かな場所で声をかけられれば十分区別して聞き取れるけれど、例の事件の場所等知らないので被害者を非難する気にもならないし、加害者を責める気にもならない。それよりも、何故関係者がハロウィーンのやり方を教えなかったかが不思議でならない。簡単な理屈で、しかもアメリカが銃社会である事を日本人の関係者が前もって教えておけば悲劇は防げたろうに・・・・・。
Posted by 土肥定芳 at 2020年11月13日 20:16
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