2014年10月05日

ベートーヴェン、ピアノ協奏曲第2番

実を言えば、もう一つだけ(?)オーディオ関連の取って置きの話題があり、正直なところ、その話がしたくてウズウズしているともいえる。が、「オーディオは音楽を聴くための道具」なわけで、そろそろ音楽の話題にも触れてみたい。前回、狂ったように音楽を聴いている顛末を記してから随分と経つのだから。

あの頃の「ブルックナー熱」は、幸か不幸か、ずっと下がり、今ではすっかり平熱。つまり、最近はあまり聴かない。今は「平熱」なので、モーツァルトやベートーヴェン、そしてバッハ。それから、近所迷惑(?)なルネッサンス以前の、聴きようによっては正に読経のようなキリスト教音楽が中心だ。クラシック音楽に疲れてきたら、ちょっとだけジャズやロックに寄り道することもある。そんなときは、好きなベーシストのチャーリー・ヘイデンが亡くなったこともあって、その彼の音楽を聴くことが多い。

しかし、今日の話題はこれ:

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ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番、変ロ長調、op.19。

ベートーヴェンの残した5つのピアノ協奏曲で最も有名かつ人気のあるのは、おそらく最後の第5番ではなかろうか。『皇帝』というニックネームを持ち、とりわけ第1楽章の主題は一度聴けば忘れがたい、とてもキャッチーかつ華麗なフレーズで、そのためにこの協奏曲を耳にすると、絢爛華麗、活発艶麗、威風堂々、等々といった四字熟語がすぐさま連想される、ともかく愚生がここで何かを言えば言うほど墓穴を掘ることになる、そのような名曲であることに間違いはないだろう。けれども、正直なことを言えば、あまり好きではない。好きになったこともない。理由はよくわからない。おそらく最初に聴いたとき(高校生の頃)の第一印象が「何となく大袈裟な音楽だな」と思ったことがいまだに尾を引いているのかもしれないし、もしかしたら、アイルランドのダブリンのコンサートホールで偶然聴いたその演奏が超絶的に下手くそで、ベートーヴェンには何の罪もないのに、その体験が決定的だったか。もっとも、この人気曲を敬遠するへそ曲がりが一人や二人いたところで、大勢には何の影響もないことだろう。

第4番は、いきなりピアノの独奏から始まるという、文字通りに画期的(協奏曲で独奏楽器から始まる曲というのはそれ以前にはなかったらしい)な作品であり、好きなピアニストでもあるクラウディオ・アラウが偏愛していた曲だと耳にしたので、自分でも可能な限り深く理解したいと願う作品ではあるのだが、残念ながら、いまだに心の底から「わかった!」と感じたことはない。つまり、今後の課題曲といったポジションか。ちなみにアラウによれば、この曲にはオルフェウス神話が明確に描かれているらしいのだが、何度聴いても、どれがオルフェウスの動機で、どれがエウリディーケの動機なのか、いったいどこで地獄に降りていくのか、一向に確かめられないでいる。しかし、魅力は感じているので、いつか「わかった!」と言ってみたい。

高校生〜大学生の頃は「第3番、命!」だった。この曲さえあれば他のピアノ協奏曲は全部捨ててもいいとさえ思ったこともあった。なんて純情だったのだろう、と当時の自分を思い出して、思わず赤面してしまう。誰でも大なり小なり共感してくれると思うが、若者は短調の曲に惹かれてしまう傾向があるのではないだろうか。当時は、まずモーツァルトのト短調(有名なのは、もちろん交響曲の第40番)に惹かれ、それからニ短調。つまり、ピアノ協奏曲第20番に冒され、そのまま第24番のハ短調の渋さを経験し終わった頃、「それなら、ベートーヴェンの、同じハ短調のピアノ協奏曲はどうだ?」と聴いた途端、いきなりノックアウトされた。今でもそう思うが、ベートーヴェンの第3協奏曲は、モーツァルトの二つの短調の協奏曲を足したような感じがする。劇的なところは第20番に似ているし、しんみりして深刻なところは第24番に似ている。嵐のような第1楽章が終わり、続く中間楽章の美しさといったら! (この文章の続きを書くために、今急いでCDをセットしたところ。第2楽章が終わるまで、ちょっと中断。失礼!)

* * * * * * *

やはり、超絶的に美しい。しかし、今のぼくには続く第3楽章のロンド主題が、どうしてもしっくり寄り添ってくれない。何だか姦しい音楽に聞こえてしょうがない。もちろんこれは音楽とは何の関係もない、端的にこちらの心の持ちようなのだから、演奏の出来不出来の問題ではないし、まして作品の良し悪しとは何の関係もない話であることは百も承知。

そして、第2番の出番だ! 第3番にもモーツァルトの影響は明らかだけれど、第2番はちょっと聴くだけでは「モーツァルトですか?」と確かめたくなること間違いないほどに、それほどにモーツァルトの音楽に似ている。けれども、良くも悪くもモーツァルトの音楽にはない「人間くささ」に溢れている。あえて言えば、モーツァルトのトリルは小鳥たちの囀りだ。その歌心は人間を超越していて、だからこそ彼の音楽はときに「天使の音楽」と称賛されるのだろう。一方、初期のベートーヴェンの音楽に響くトリルは、小鳥の囀りを耳にした人間の喜びの声だ。モーツァルトの幸せな音楽では天使が微笑むのかもしれない。しかし、ベートーヴェンの幸せな音楽では人が微笑む。そうだ、なんと人間的=地上的な幸福感に溢れた音楽だろう!(別に多幸症に陥っているわけではないので、ご安心を。)

第1楽章(アレグロ・コン・ブリオ)は、これこそcon brio(生き生きと、輝かしく)というのに相応しい音楽。何の躊躇いもなく、決して安直に楽観的ではないのだが、それでも現在と未来を信頼して前に進む生気に満ちている。第2楽章(アダージョ)は、これまた第3協奏曲の、さっき絶賛したばかりの第2楽章(あちらはラルゴ)に匹敵する美しさ。そして、贔屓の引き倒しを承知で言えば、さすがにアダージョというだけあってか、こちらの方がずっと自然な音楽になっている。第3協奏曲には若干のわざとらしさ、勿体ぶった身振りのようなものが感じられるのだが、このアダージョにはその種の嫌みが本当に全くない。憧れに満ちた、それでいて決して病的ではない、自意識過剰でもない、「音楽にはこんなことができるんだ!」と、文学畑の末席を汚す人間としてはジェラシーを感じずにはいられないような、下手な喩えが許されるなら、初夏の晴れた日の、夜が明ける直前の涼しげな浜辺で、すっかり明るくはなっているけれどもあの図々しい乱暴者の太陽はまだ引っ込んでいて、もちろん人影なんかは一つもなく、そこで、男でも女でも、大人でも子どもでもいいから、ともかく「美しい人間」が波に足をつけて一人で歩いている、いや、水と戯れている、そんな音楽……

しかし、何といっても圧巻は最後のロンド楽章(モルト・アレグロ)だ。若きベートーヴェン以外の誰一人としてこんな音楽を作ることは出来なかっただろうと思う。ベートーヴェンでさえも、こんな音楽をいくつも作れたわけでは決してあるまい。ともかく、この楽章に限れば、これは全くモーツァルトではない。全然違う。明らかにベートーヴェンだ。しかし、控え目なベートーヴェン。自ら我知らず含羞を示してしまうことに対して心理的な予防線を張ることのない、自意識過剰の虚勢や不機嫌とは無縁のベートーヴェン。だから当然、ぼくが敬遠する第3協奏曲のロンドとは性格を異にする。ここでもときおり短調の影がうっすらと差し込むのだが、その影がロンド主題を脅かすことはない。ただ、その影のおかげで、この幸福な音楽(世界)にだって、実は最初から(つまり、第1楽章の冒頭から)若干の不安は存在していたのだと、今さらながらに気づかされることにもなる。こうした不安の種を文字通りに巻き込みながら、音楽は軽快に前進し続け、聴く者を先へ先へと促し続ける。これを、「明日は何があるか分からないが、それでも今日よりは良いに決まっている」といったようなバカみたいな楽観論と繋げる気は毛頭ないのだが、それでもこの音楽が示す平和で健康な、しかし控え目で慎ましやかな推進力、こうした性質がとても好ましいものに感じられてならない。

だが、全ては両刃の剣なわけで、こんな「平和で健康な、しかし控え目で慎ましい音楽」を平凡に演奏されたのでは、それでは途端に「つまらない音楽」になってしまう。モーツァルトの、ある意味では機械的なピアノソナタも演奏次第で味わいが大きく変わってしまうが、その点でも初期のベートーヴェンはモーツァルトと似ているのかもしれない。ともかく、これまで聴いた中には、案外と退屈な演奏も少なくなかった。(もちろん、好きな曲なので、退屈な演奏を聴いていてもそれなりに「へー、こんな解釈もあるわけだ」と感心したりもするのだが。)今のところお奨めの演奏はアルゲリッチの新旧の2枚。旧い方(1986年)はジュゼッペ・シノーポリが指揮をしていて、第1協奏曲とカップリング。新しい方(2004年)はクラウディオ・アバドの指揮で、第3協奏曲と一緒になっている。両者の大きな違いは、前者がフル・オーケストラとの共演で、後者が室内オーケストラとの共演という点にあり、時代の風潮も反映してか、アバドの解釈にはいわゆるピリオド楽器を使った演奏の影響もあるようだ。したがって、良く言えばキビキビとしてフレッシュ、悪く言えば、ちょっと痩せ気味で慌ただしく感じられるか。しかしいずれの演奏でも、これまで述べてきた第2協奏曲の性格とアルゲリッチの自由闊達で軽快なピアノは、これまた非常に自然に馴染んでいるように感じられる。

最後に蛇足じみたことを書けば、アルゲリッチはベートーヴェンの第4協奏曲を演奏することはないと断言している。その理由が正に感動的で、この話を聞いて以来、ぼくはこの名ピアニストをますます好きになった。肝心なその理由だが、「まだアルゼンチンにいた子どもの頃、アラウが弾く第4協奏曲を聴く機会があり、その演奏があまりに完璧に美しかったので、その記憶をそのまま残しておきたい、云々」といったことだった。愚生は記憶力が悪いので正確な引用はできないが、ともかく、アラウの演奏に敬意を示すために、彼女は生涯第4協奏曲の演奏を自制しているらしい。ちなみに、そのアラウが演奏した第4協奏曲の録音は世にいくつもあるのだろうが、アラウ自身はコリン・デイヴィスと共演した演奏に満足していたと、どこかのインタビュー記事で目にした記憶がある。 (H.H.)

posted by 冬の夢 at 05:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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