2014年09月21日

秀山祭九月歌舞伎座公演『連獅子』〜踊りは踊りで面白い

今月の歌舞伎座は秀山祭。初世中村吉右衛門の俳号秀山を冠して、当代の吉右衛門がゆかりの出し物で振り返る興行だ。
新しい歌舞伎座が落成する直前に勘三郎と團十郎の二大巨星を失った後、歌舞伎は続けざまに災厄に見舞われ、仁左衛門、三津五郎、福助と看板役者が相次いで病気休演。脇を固める段四郎は以前からずっと出ていないし、最近は左団次もめっきり出番を減らしている。
そんな中で、決して体調万全ではないはずの吉右衛門が単身歌舞伎の屋台骨を支えているといった様相だ。もう一方の雄である菊五郎も元気だが、時代物となると吉右衛門に代わる人は見当たらない。
夜の部の最初にかかる『絵本太功記』は初代も当たり役としていた時代物。以前、国立劇場で橋之助の光秀を見たときは、芯の細さや覚束なさばかりが目立ってあまり芝居に入っていけなかった。それと比べると(橋之助からすれば比べられちゃかなわないといったところだろうが)吉右衛門の存在感があってこその重さに満ちている。間違って実母を刺し、息子は戦に負けて瀕死の体で戻ってくる。目の前で家族を死なす悲劇を重厚に演じられる役者は、今では吉右衛門しかいなくなってしまった。

『絵本太功記』はいわゆる義太夫狂言で、もとは人形浄瑠璃。一口に歌舞伎と言っても出し物は幅広く、新装歌舞伎座に行ってみたものの、つまらなくてずっと船漕ぎという観客も少なくないはず。時代物は寝てしまう確率が高く、なにしろ一日がかりで上演する長い物語の一部分だけ抜き出すのだから、前後関係がわかりにくい。『仮名手本忠臣蔵』のような有名な狂言でも、登場人物の人間関係はすんなりとは入ってこない。おまけに長年受け継いできた「型」があり、細かい所作まで決められているので、時代物は役者にとっても工夫のしどころがない出し物だ。
かたや庶民の生活を描く世話物は、江戸時代の現代劇なので、台詞も平易だし、今の感覚で見ても身近に感じられる演目が多い。『白浪五人男』のような泥棒ものやお岩さんで知られる『四谷怪談』などは、当時の娯楽路線の王道だから、話の流れは飽きさせないし、役者の演じ方によって面白味の味わいが変わる。
さらに歌舞伎には、祭りや道行を題材とした舞踊劇、明治維新以降に書き下ろされた新歌舞伎、能に対抗して発展した松羽目ものなど、バラエティ溢れたラインナップが揃っている。
もちろん時代物でもワクワクした昂揚感が魅力の『暫』のような超人ヒーローものがあり、ジャンルごとに甲乙が決まっているわけではないし、世話物でも締まりのない芝居にしばしば出くわす。そのごった煮ぶりが歌舞伎ならでは魅力だし、雑多な品揃えが毎月興行を成り立たせる秘訣であるとも言える。
筆者は決まって舞踊系でこっくりしてしまうことが多かった。よほど上手い踊り手ならば、手足の動きだけで惹きつけられることはあるものの、ただの舞いで振り付けが単調なら確実にオチていた。
しかし、『絵本太功記』に続けて『連獅子』を見て、舞踊ものに対する認識をあらたにした。すなわち歌舞伎の舞踊は、言ってみれば和製ミュージカルなのであった。

『連獅子』は松羽目仕様の舞踊劇。獅子は子を谷底に落とし、這い上がった子だけが生きることを許される、というあの話だ。昭和世代はここで『巨人の星』の星一徹を思い出してしまうのだが、もとは能で、獅子の踊りを見せる『石橋(しやつきよう)』に河竹黙阿弥が詞をつけて歌舞伎化したということらしい。
幕が上がると舞台奥に長唄連中がずらり。唄い手と三味線が九人ずつ、手前には笛太鼓の囃子方が並び、総勢二十数人が生演奏を奏で始める。これって、なんだかオケピのようだなと思っていると、花道から獅子が親子で登場。白毛が親で、子は赤毛。舞台に出た二人は谷底に突き落とし、落とされる親子獅子を踊りで見せていく。花道の七三を谷底に見立てる舞台の使い方もうまい。修行僧の間狂言が入り、後半はご存知の毛振り。左右に並んだ親子の獅子が長い毛先を楕円状に振り回すダイナミックな見せ場だ。この二人のコンビネーションが独自のリズムを叩き出す。位置取りを前後左右に変えながら、親は勇壮に、子は躍動して踊り跳ねる。これって、タップダンスコンビのようでもあり、バレエのデュオみたいでもある。生演奏、リズム、踊り、コンビネーション。『連獅子』が持つ要素はすべてミュージカルやバレエと共通している。
間狂言の二人が並んで交差した両手をつなぐ踊りは、ダンス•ド•キャラクテールと言っても差し支えない。そもそも民族舞踊は世界各地で同時多発的に発生したものであるから、踊りの型が似ていても何の不思議はない。人が集まり、賑わうプロセスにおいて一緒になって踊ることは、至極自然な流れなのだったろう。

あえて和製ミュージカルと言ったのは欧米音楽劇を後追いしているということではなく、歌舞伎舞踊はおなじみのミュージカルと並列して楽しめるエンターテイメントであると再認識したからである。『連獅子』は確かに歌舞伎らしさを代表する演目のひとつだ。しかし、だからと言って、いかにも古典的なガチガチの芝居ではない。たぶん、外国人から見てもとてもファンタスティックな舞台に見えるのだと思う。そういう幅の広さを歌舞伎は持っていて、その懐は外に向かってオープンに広げられている。常に斬新であり続ける伝統芸能として、歌舞伎の羽化は果てしないのだった。

今まで見た『連獅子』の中では、富十郎一周忌にあたって一粒種の鷹之資(たかのすけ)が吉右衛門と踊った舞台が印象深い。幼くして父を亡くした子役が吉右衛門の指導を受け一生懸命に清廉と踊るさまは、涙腺を刺激して余りある出来栄えだった。
今月は、病気から復帰した仁左衛門が孫の千之助と踊る直系の『連獅子』。再び舞台で孫と踊ることが出来る喜びが、仁左衛門の泰然とした親獅子ぶりから伝わってくる。
そして、見事なのは千之助。体調不良に続き肩を痛めて休んでいた仁左衛門は、さすがにクライマックスの毛振りでも無理はしない。ゆっくりと毛先までうまく円を描くよう丁寧に踊る。対照的に千之助はキビキビと頭を律儀に回し続ける。回転数は仁左衛門の倍以上。しかし、そこには明らかに二人で踊ることを信頼し合ったコンビネーションが存在している。十四歳の千之助は表情も凛々しく、女形の道を行く父•孝太郎にはないニンが感じられる。ひょっとすると、仁左衛門の跡を継ぐ大きな役者になるかもしれない。
踊りは踊りで、これまた歌舞伎の魅力そのもの。そこに血筋をベースとした芸の継承が加わる。見る角度によって芝居はいろんな見え方がするし、見る人によって角度の取り方は自由自在。形式ばらずに自分なりの見方が楽しめる歌舞伎であってほしいと思う。(き)


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posted by 冬の夢 at 00:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 伝統芸能 歌舞伎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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