2014年09月05日

『GODZILLA ゴジラ』〜「対決もの」に潜む鈍感さ

シネコンへアメリカ映画『GODZILLA ゴジラ』を見に行った。映画館ホームページで夕方スタートの時間を確かめて行ったのだが、吹き替え版3D上映の回というのは見逃していた。3Dは目が疲れるし、渡辺謙が自分の吹き替えを担当するのも不自然だと思いつつ、仕方なく席につく。
昭和二十九年に『ゴジラ』の製作に関わった東宝の関係者の中で、誰が六十年後にハリウッドでリメイクされると想像しただろう。六十年とは、二世代または三世代の代替わりが出来る歳月である。その間に多くの続編が作られ、映像コンテンツ化されて共有化が進むうちに、ゴジラは熱烈なファンを増やし続け、世界共通のアイコンになっていた。イギリス人のギャレス•エドワーズ監督も新しい世代のゴジラマニアのひとりで、東宝全作品のDVDセットを当たり前のように持っていたそうである。
当時の東宝撮影所では亜流であった特殊撮影班が手作りし、嫌がる俳優に着せた着ぐるみが、アメリカ映画資本のもとグローバルスタッフによって映画化される。六十年経って、まだなお世界中の映画人たちが関わってみたいと思えるキャラクターはそう多くは存在しない。ゴジラは今や、ミッキーマウスやスーパーマン以上に普遍的存在なのだ。それを思うと『GODZILLA ゴジラ』本編のどこにも、本多猪四郎と円谷英二の名前がクレジットされていないのは、残念としか言いようがない。

さて、映画そのものはエンターテイメント作品として上々の出来栄えである。十五年前のフィリピンにおける巨大生物の遺跡発見に始まり、日本での原子力発電所の崩落、現在に戻って封鎖された発電所跡地、そして怪獣の出現、ハワイ•ラスベガス•サンフランシスコと場所を変えての街の破壊。映画は全速力で環太平洋を駆け巡る。それは一度も時計を見させないくらいの力強さで、ただひたすらトップを走り続け、駆け引きなど一切無用に逃げ切ろうとするマラソンランナーのようである。
そして何よりエンターテイメント感を濃くしているのが「ムートー」と呼ばれる雌雄の怪獣を登場させたことだ。そう。全く予備知識なく見たので余計に驚いたことに、『GODZILLA ゴジラ』は「ゴジラ対寄生怪獣ムートー」とでも言うべき「対決もの」なのであった。
映画が中盤に差し掛かるところで渡辺謙演ずる芹沢博士が説明する通り、ムートーは原子力を餌にゴジラに寄生する怪獣という設定だ。ゴジラ自身が体内に原子炉に似た器官を持ち、だからこそ口から放射能熱線の噴射が出来ると新しく定義された。その副産物としてムートーが発案されたのだろうか。
東宝時代の「対決もの」がそうであったように、ゴジラはキングギドラのような絶対悪が出現したとき、悪役と戦い、倒すことで人類の味方に立ち位置を変える。当然、本作も「対決もの」であり、ムートーが人類にとって太刀打ちしようがない強さを持った悪役であるため、結果としてゴジラは「救世主」として扱われる。
ムートー自体は、とてもグロテスクな生物にデザインされており、感情移入の隙もない。しかも、翼を持ち飛行できるオスムートーと巨大な下腹から夥しい量の産卵を行うメスムートーの二匹ともにメチャクチャに強い。
実際にゴジラはオスムートーの息の根を止める代わりに崩壊した高層ビルの下敷きになる。さらにメスムートーには絞り出すように放射能熱線を浴びせかけ、仕留めた後、よろよろと海岸べりに倒れ伏してしまう。「生物体系の最上位」にいるゴジラをもってしても、ムートー二匹との対決は、自らの闘争能力すべてを出し切ったうえでの勝利だった。
潰えたかに見えたが、もはや本作ではアメリカンヒーローである主役が死んで終わるはずはない。むっくりと起き上がると「対決もの」のお約束通り、海に潜って去っていくゴジラなのであった。

かように『GODZILLA ゴジラ』は、飽きることなく観客を引き付けるエンターテイメント作品である。相変わらず危機には必ず顔を出し、一人で超人的な働きをする海軍大尉がいたり、主戦場が夜のため、ゴジラとムートーの姿がはっきり映らなかったり、カメラがフィックスされることなく、のべつまくなく動いていたりする欠点はある。そもそもゴジラがムートーと戦うのは寄生されるのを排除するためという理由付けになっているが、それだけで自らを危うくしてまで戦い抜くのも、かなり無理な設定である。とは言いつつ、リメイクでここまで楽しませてくれれば、及第点だろう。

でも、同時に、最近のアメリカ映画を見るときに必ず抱く違和感がここにはある。すなわち救いようのない「鈍感さ」に満ちていて、それが受け入れ難いレベルの鈍さなのだ。
ゴジラが初めて全身を現すのはハワイ襲来の場面である。ゴジラは海から上陸するので、その巨体から海面が高潮となって盛り上がる。ムートーの攻撃に怯えている人びとが海を振り返ると、潮が引いている。高潮の前兆を読み取って、全員が一斉に海を背にして高台に向けて走り出す。しかし、高潮は巨大な津波となって猛々しく迫りくる。そして、ついには街そのものをあっという間に呑み込んでしまう。
それをビルの屋上から眺める一群がいて、その視点で切り取った画面は、まさに東日本大震災で東北の町が津波に襲われる様子と寸分も違わないほどに似通っている。
十五年前の原子力発電所崩落事故という設定からして、福島第一からの着想以外にはあり得ない。事故以来立ち入り禁止地域に指定され荒廃した町の描写も同様だ。
津波に襲われた道路に車や瓦礫が大量の水で押し流されるショットは、あまりに現実をなぞり過ぎていて、思わず目を閉じてしまった。
このような描き方を「対決もの」の一場面として簡単に提示できる鈍感の深さはいかようであろう。
この鈍感さは、本作の至るところに潜んでいる。
戦後まもない時期の水爆実験は、実は当時出現したゴジラを倒すためであったという詭弁。
核ミサイル攻撃に反対する芹沢博士が広島原爆被災者の遺児だとする安易な人物設定。
ムートーから奪い返した核ミサイルが、以前とは比べものにならないメガトンクラスの破壊力であると言いながら「制御装置の蓋が開かない」という理由だけで洋上に流し、爆発するに任せておく好い加減さ。
救出された主人公の背後に爆発光が映る演出自体、核爆弾のおぞましい破壊力に思いが及んでいないことを示している。
これらの自然災害や原子力がもたらす恐怖を想像出来ない貧しさは何なのだろう。怪獣同士の対決には軽快なキレを見せるのに、人間の根源を脅かす真の災厄の前で畏怖の念さえ忘れてしまうのは、何故なのだろう。
『GODZILLA ゴジラ』が世界最高のキャラクターを現在的に再構築した娯楽映画であることは間違いない。しかし、そこだけに踏みとどまっていることを肯んじていてはいけない。
渡辺謙は、日本語的に「ゴジラ」と発音することにこだわったそうである。
本作はシリーズ化され、次回はキングギドラが登場するという噂だ。「対決もの」を続けるならば、鈍感さをさらけ出すような現在的解釈は止めにして、もっとシンプルな怪獣映画にこだわってもらいたい。(き)


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『ゴジラ』〜戦災から対決へ(東宝・1954)
「世田谷美術館『東宝スタジオ展 映画=創造の現場』とオキシジェンデストロイヤー」(2015)
『シン・ゴジラ』〜 東京のど真ん中に現れた罪業(東宝・2016)


posted by 冬の夢 at 22:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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