2013年12月29日

ときどき音楽中毒になる

(やっと好きな音楽について書ける! 一年の〆の文章が靖国問題ではやり切れないもの。というわけで、多少長くても許して下さい。)

今度の発端はブルックナーの第8交響曲だった……
カルロ・マリア・ジュリーニがベルリン・フィルを指揮したライブ盤が手元にあり、何気なしに聴いてみたところ、それこそ魔に魅入られたごとく、以来3週間ほど音楽中毒状態になっている。

ジュリーニ:ブルックナー#8

いわゆるクラシック音楽を自覚的に、つまり自ら好んで聴き始めたのは高校2年生の頃だっただろうか。その頃はCDやDVDではなく、まだLPレコードとFM放送だった。最初に好きになった曲はモーツァルトの交響曲40番、いわゆる「疾走する哀しみ」(小林秀雄:「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」)だ。でも、すぐにバッハの無伴奏チェロ組曲に夢中になり、それからショパン。しかしこれはショパンの音楽を好きになったというよりも、むしろピアニストのアルゲリッチを好きになったせいだろう。今でもアルゲリッチの演奏したもので一番のお気に入りは、ショパンでもラヴェルでもなく、バッハだ。アルゲリッチがもっとバッハを弾けばいいのにと常々思っている。そういえば、一浪した大学入試の前夜、一足先に大学生になっていた友人の下宿に泊めてもらったとき、アルゲリッチの弾くパルティータを無限ループ状態で聴き、その友人を文字通りに辟易とさせたこともあった。

そして大学に進学すると、何を思ったのか、スコアもろくに読めないくせに「西洋音楽史」なんて授業にのめり込み、そのおかげでルネサンス音楽や中世の音楽にまで触手が伸びていく。例えばジョスカン・デ・プレやウィリアム・バードという名前もバッハやベートーヴェンと並んで、ぼくにはとても近しい名前に感じられる。

こんな聴き方だから、家には野放図にクラシックのCDが積まれている。そして、どんどんと増殖していく一途だ。数えたことはないが500枚どころではないと思う。ひょっとしたら1000枚以上あるかもしれない。当然?ジュリーニのブルックナーといえば必ず話題にされるウィーン・フィルとの三部作(7番〜9番)も鎮座しているし、シカゴ交響楽団を指揮した9番も、さらにはマエストロがウィーン・フィル、ベルリン・フィル盤に先立ってイギリスのフィルハーモニア管弦楽団を指揮した7番のライブも所有している。同じ指揮者でも、共演しているオーケストラが違ったり、演奏した年代が違ったりするだけで、その演奏がどうしても聴きたくなってしまう。その結果、概してクラシック音楽ファンにはありがちなことだろうが、同じ曲のCDが10枚ずつくらい常備されることになる。ベートーヴェンの交響曲なんぞは、全集だけでも6セットか7セットはある。その他に個別に集めたCDを加えたら、やはりそれぞれの交響曲につき10枚ずつくらいはありそうだ。モーツァルトの後期の交響曲やピアノ協奏曲も同様に「困った事態」になっている。

一方で、正直に言えば、ブルックナーの音楽はずっと「苦手」だった。端的に、長いし、やたらと喧しい。随分と昔のことになるが、オイゲン・ヨッフムの結果として最後となった来日公演に出向き、その後CDやDVDとして記録されたブルックナー(第7交響曲)の伝説的名演を聴く幸運に恵まれたときでさえ、畏れ多いことに「凄いけど、金管の音が大きすぎる。プログラムの1曲目のモーツァルトだけだったらもっと良かったのに」と思ったほどだ。「ロマン派の音楽はブラームスまでで十分。その後は新古典派までスキップ」と嘯き、ブルックナーもマーラーも、ついでにワーグナーも「守備範囲外」としてきた。その意味では、ブルックナーの後期の曲(つまり、7番以降)だけが例外的に気になる存在で(マーラーの最後の交響曲と、加えて『大地の歌』もこの「例外」に加えるべきかもしれない)、特に先に挙げた第7番はときおり聴いていた。(慧眼の士はもしかしたらすでにお気付きかもしれないが、こうした趣味の偏りが形成されるに当たっては、カルロ・マリア・ジュリーニ先生の影響が極めて大きいようにも思われる。ぼくはどうやら彼の演奏を追っかけるようにして−−もちろんディスクに録音されたものを通してに過ぎないのだが−−音楽の楽しみを広げてきたのかもしれない。)

ヨッフム:ブルックナー#7

ブルックナーの第8交響曲はブルックナーの交響曲の中でも最大最長を誇る。第9交響曲が完成していたら、第9番の方がもっと長くなっていたはずだが、幸か不幸か、ブルックナーの最後の交響曲は、シューベルトの『未完成』と同じように未完に終わっている。(それでも、演奏のテンポや繰り返しの有無にもよるが、1時間は超える大作だ。)『未完成』が2楽章しかないのに対して、ブルックナーの第九交響曲の方は第3楽章まで完成しているという違いはあるが、未完とはいえ、実質的には完成していると思われる点でもシューベルトの作品と似ている。

話を問題の第8交響曲に戻そう。3週間前のぼくの手元にはジュリーニがベルリン・フィルを振ったもの、ウィーン・フィルを振ったもの、この二つのCDがあった。実はジュリーニの演奏したものなら大抵のものはある。大して聴きもしないイタリア・オペラもある。だから、このブルックナーのCDたちもCDラックの肥やしになりかけていた。あのとき、何を思って第8交響曲のCD(2枚組!)を取り出したのだろう?

しかし、聴き始めて、決して大袈裟でなく、数分で驚愕した。「こんなにも美しい音楽だったのか!」と。

それとも、いつのまにかぼくの耳が喧しさに対して相当程度の耐性を獲得したのだろうか。あるいは、別の場所で漏らした通り、年を重ねて耄碌した耳が十分に鈍感になって、年を取ると苦い味も平気になるように、若い頃には耳障りに感じられた音楽が心地よく感じられるようになってしまったのだろうか。しかし、それならそれで別にかまわない。以前にはよく理解できなかった、受け付けることができなかった種類の美しさを受け止められるようになったのなら、たとえそれが一種の退行であったとしても、この新しい「発見」を素直に喜ぶことにしよう。それはまるで、夏の海岸線を特に当てもなく歩いていて、いきなり途方もなく美しい浜に、しかも人が誰もいない美しい浜に出くわしたような感じだ。実際、ブルックナーのアダージオには人間の気配を感じさせない不思議な美しさがある。彼の音楽がしばしば「天上的」とか「彼岸」とか評される由縁だろう。

ひと気のない浜辺の美しさ。その浜を独り占めして、水と砂の美しさに呆然あるいは忽然と耽溺するのはいいのだが、問題は時間だ。第8交響曲を聴き通すにはおよそ90分を必要とする。(ジュリーニ=ベルリンフィルの盤では85分になる。)そして、ここが中毒患者の悲しい性で、ベルリン・フィルを聴いた後で、「続いてウィーン・フィルのも聴きますか」となることは必定で、これだけで3時間が経ってしまう。夕食を食べて、風呂に入る時間を除いたほとんど全ての時間を消費する計算だ。ところが、音楽の虜になってしまった耳は、まるで地獄の餓鬼のごとく、満ち足りるということをついぞ知らない。「ブルックナーの音楽がこんなに美しく聞こえるのは、はたしてこれはジュリーニ先生の為せる御業なのか。それとも、やはりブルックナーが天才だったのか?」ということが気になってきて仕方ない。そうなると、いつの間にか目の前には古くはジョージ・セルが残した8番(1969年録音)と、新しいものではヤノフスキとスイス・ロマンド管弦楽団のものが仲良く並ぶ図が展開されている。その上、「8番がこんなに良いのなら、9番も当然期待できるはずだ」となり、ジュリーニ=ウィーン・フィル盤とジュリーニ=シカゴ・フィル盤(前述の通り、この2枚はずっと昔から我家のCDラックに収まっていた)に新たにヤノフスキ盤が加わり、etc. etc. と中毒症状は止まることを知らない。

R0011345.jpg

R0011344.jpg


続いて「ブルックナーの音楽はどうやらシューベルトの音楽の直系のようだな」と勝手に決め込み、それを確かめるために、今度はシューベルトの9番『グレート』(これまた1時間近くの大曲)を、これまたジュリーニ先生の、これまた複数種類の演奏を聴き比べ、それが一段落もしないうちに、「しかし、他の指揮者ではどんな音楽になっているのだろう?」と、コリン・デイヴィスやらブロムシュテットやらの演奏も聴きたくなる。元々『グレート』は好きな曲なので、我家のCDラックには嫌になるほど並んでいる。それから、「やっぱりジュリーニ先生は格別だな」と一人納得して、「でも、ジュリーニの一番いいのは何と言ってもブラームスだ」と、興味関心がいつの間にかブラームスに移り、これまた4つもある交響曲を手を変え品を変えて聞き続ける。

これだけの音楽を聴こうとすれば、実際には眠る時間を削るしか方策はない。というか、音楽をヘッドフォンで聴いていて、気がつくと明け方になっているという惨状。ある日など、朝になって起きてきた家人に「まだ起きているの?」と呆れられる始末。つまり、音楽を聴いて徹夜してしまったわけだ。それで懲りるどころか、そのまま通勤電車の中でも飽きることなくロマン派、後期ロマン派の音楽をひたすら聴き続ける。

すでに中毒に冒されているわけだから、症状はまだまだ延々と続く。「ブラームスの第一交響曲は『第十交響曲』と揶揄されているらしいが、ならば、本家の第九交響曲を聴いてみるか」と、とうとうベートーヴェンに行き着いてしまう。(季節モノということもある。)ベートーヴェンの『第九』となれば、それこそ両手両足の全部を使っても数え切れないほどのCDが身近に転がっているが、ともかく、これもジュリーニ詣に始まり、世に名盤の誉れ高い演奏を一回り。ここまで来ると、さすがに食傷気味にもなるので、「ちょっと休憩」と、何気なく室内楽なんかに手を伸ばしたりすると、それがいけない。「フランクのヴァイオリン・ソナタは、前々から名曲と思ってはいたが、やっぱりこんなにも良かったか!」と感激し、試しに聴いてみたのが五島みどりの盤で、それに感心したものだから、彼女の演奏するチャイコフスキーの協奏曲もついでに聴いてみる。いかにも東洋人的な、そして女性的な、繊細で、しかし謎めいたエモーションの感じられる不思議な演奏だ。その不思議な魅力の正体が知りたいと思い、「同じ東洋人で女性のチョン・キョンファと比べてみるか」と、またまたジュリーニが伴奏をしているライブ盤を取り出してくる。そして、ついでにそのライブのメイン・プログラムだったドヴォルザークの第7交響曲を聴いてしまったのが、やはりいけなかった……

R0011337.jpg

R0011348.jpg

R0011338.jpg

というわけで、この年末は音楽三昧の、ある意味では地獄の苦行のような、しかし本当は至福の日々を過ごしている。新年早々に聴く、2014年の年頭を飾る音楽は何になるのだろうか? (H.H.)


posted by 冬の夢 at 05:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く:ペンネーム可・アドレスは表示されません
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック