2013年11月16日

島倉千代子・B反・原発ゼロ

 島倉千代子といえば「B反」である。
 B反とはなにか。
 簡単にいえば「わけあり品」だが、本当はどのような仕組みで出回るのか、わたしは知らない。銀座のママさんには「公然と売られてはいけないものよ」と断言する人もいた。
 製造過程でわずかなミスがあり、小さな汚れや傷が生じたので、高級品としては売れない品が安価で出て来る。といっても着物に仕立てる段階で欠陥が見えなくなれば問題なく着られるので、 由来が明示されれば偽装でもなんでもない。わずかな問題があるだけで新品の、本来よい品が安く着られるのだから、和装の機会が増えるなら提供されていい、という考えもありうる。
 しかし一方で、一流品を心意気で着るのが商売だという銀座方面が認めるはずがないとしたら、それもわかる。出入りの呉服商がコッソリ耳うちし、コッソリ仕立ててコッソリ着るもので、ウチの店をなんだと思っているのよ陽の当る道をB反で歩き回らないで頂戴ね! みたいな──いやまあ昼じゃなくて夜のお仕事ですけど──そういう品だということだろう。
 これは、歌謡界でも同じではなかろうか。和装でステージに立つ歌手はことさらにだ。
 だから島倉千代子ほどの大歌手がB反の広告に出ていたことは、和装や歌謡の業界にくわしくないわたしにも奇妙に感じられた。保証人がらみで背負ったり、その処理をめぐってますます積み上げてしまったともいわれる、とてつもない負債にこの人が晩年まで苦しんだことは知られていた。だから明らかに何かの事情で受けていたのだろうが、それにしてもB反とは、と。島倉千代子も進んで着て頑張ってます、という開き直りではないのだ。そしてこの人の和装は、いくつになっても可愛い人というイメージ仕立てのせいか、なぜかどうしようもない、もの寂しさを感じさせたのだ。
 ひとつ歳上で仲がよかったという美空ひばりが太陽なら、島倉千代子は月だからか。いや、それでたとえるなら美空ひばりだって、いわば日蝕の太陽だろう。われわれ大衆の「わけあり」好きな心は、大輪のヒマワリと可憐なリンドウの姿にまとわりつく、色が反転したネガのような陰翳が好みだったのだ。その影が長く重いほど、歌がせつなく美しく聞こえる、ような気がするのだろう。
 それが昭和歌謡じゃないか、アナログなノイにつきまとわれるのが宿命で、その濁りの中を突き抜けて来る「うた」こそが日本の歌謡なんだ──といってしまえば格好はつくけれど、なにか釈然としないものがある。
 故人を追悼する記事や解説のどれもこれもが、「昭和歌謡界を代表」と「私生活は波瀾万丈」をセットにした、似たような文脈で書かれていることにうんざりしたせいかもしれない。
 あるいは直接には関係ないと思える、このことのせいかもしれない。
 わたしは、大歌手の持ち歌を島倉千代子のカバーで聴くのが好きで──美空ひばりの「悲しい酒」とか、北島三郎の「兄弟仁義」とか──それは、島倉がカバーすると本家の「濃さ」やスタイルは失われて、たしかに隠花っぽい線の細さになりはするけれど、その分、歌がほんとうに丁寧に伝わって来るからだ。
 その、一途にメロディと詞を伝えようとする、純粋といってもいいような「可愛いげ」をまったく無視して──むろん知る由もないだろうが──「わけあり」の部分だけ切り貼りし、かつていかにも器用に国会答弁してみせた小泉純一郎という男(『人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろです』)がいた。そして、いまおおいに「原発ゼロ節」を謳いまくっている。それを聞くのが、どうにもしんどいのだ。
 かつて支持者をノセたおした得意のワンフレーズで、言い出した経緯を新聞などで見る限り、そう深い裏があるとは思えない。だから素直に聞いておけばいいのだが、なぜか言葉がどうしてもこちらまで響いてこない。「いろいろ」あるけれど、まずは「ゼロ」しかない。オレはその「いろいろ」を突き抜けて国会議員をみな説得できる!──確かにそうかもしれない、と思うけれど。(ケ)

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 しまくら・ちよこ 一九三八年三月三〇日〜二〇一三年年十一月八日 *写真はクリックですこし拡大
posted by 冬の夢 at 12:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 日本のロック・歌謡曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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