2013年10月27日

息子に、銃を受け継がせること…映画「偽りなき者」

 幼い子どもが、理解できない経験を大人に伝えるとき、自分に都合のいい作り話ができるはずがない。
 だから幼稚園児の女の子が、男の先生が自分におちんちんを見せた、といったら、その先生は性犯罪者だということになった。園児は親友の娘で、気がつかないうちに少しその子の機嫌を損ねただけで、何もしていないのにだ。
 二〇一二年のデンマーク映画「偽りなき者」は、その結果、人格を否定され、コミュニティや友人の輪から締め出された男の苦しみと忍耐を描く。離婚経験者で、教職を失業し幼稚園の補助教員をしているところだった。園児たちに大人気の先生だ。元妻が引き取った息子と会いたいがなかなかかなわない。そこへ事件が起き、息子をも苦しめることになって二重に悩まなければならなくなる。
 しかし、息子は母親の目をぬすんで自ら父を訪ね、父を信じてそのもとにとどまる。これまで親しかった人々に罵倒され拒絶され、スーパーマーケットでは殴られて叩き出され、食品さえ買えなくなる父。逮捕もされるものの釈放されるが−−園児たちの間で「地下室に連れこまれた」というところまで「作り話」が広がっていた。彼の自宅に地下室はないのだ−−疑いは晴れない。窓を投石で割られたり、大切な犬を殺されたり、息子も住民からの圧迫を受け続ける。
 かりにこれが、わが身に起きたらどうするか。疑いを完全に晴らす手段を探して戦うのか。自分や息子の安全を重んじて街を出るか。主人公の行動はどちらでもない。屈しない、そのシンプルな態度を貫くのだ。自分の手には「真実」しかなく「正義」はない。だからその態度は理屈では正しい。が、精神的には非常にきつい。そのつらさを支えてくれるのは息子の絶対的信頼、つまり父子の連帯の強さだ。その力に支えられて、時間はかかるが問題は解決に向かっていく。
 主人公が情緒的に破綻しそうになるとき、そして自信をかきたてるとき、この落差を騒々しく表現せず、いつも無言の悲しみを含ませて演じるのはマッツ・ミケルセン。デンマークを代表する俳優だというが、とてもいい! 映画と同年のテレビシリーズで、あのトマス・ハリスが造った最恐最賢の−−しかもアンソニー・ホプキンスの後継を許さぬ名演がすでにある−−ハンニバル・レクターを演じているそうだから、実力は問うまでもないだろう。ただ、あまりに有名な俳優ということで、かりに役所広司が演じる日本映画のように見るとしたら、映画の印象は違うかもしれない。
 そこでさきほどの父子の信頼と連帯だが、じつはこれは、事件の発端とラストシーンのどんでん返しにつながる重要な伏線だ。監督のトマス・ヴィンタベアは−−前作「光のほうへ」(SUBMARINO)もとてもいい−−「係り結び」をウヤムヤにしないタイプなので、この話は集団の暴力に立ち向かう信頼と勇気のストーリーではないんだということがわかる。
 映画の終盤、疑いはようやく晴れ、いちどは離れた友人家族がみな晴れやかな会合に集まる。それは狩猟用ライフルを息子に譲るというファミリーイベントだ。男の子が狩猟免許を取れる年齢になると代々、銃を継がせる。狩りで肉を得て家族を支える男子の証だという。
 そう、このコミュニティは狩猟仲間としての結びつきでもある。ハンターであり家父長である男たちを軸とした社会だ。仲間入りをした息子も加わって、さっそく集まったみなで鹿狩りに出かける。そこで驚くべきラストシーンが待っている。
 
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 人間に過剰な抑圧をもたらしたのは、農耕社会なのだという。食料備蓄が可能になったことは大きな進歩だが、取得と配分の格差や身分による不平等が生じ、社会は鬱屈と偽善と紛争に満たされてしまう。日々の飢えの不安はあれど、等価の労働と平等な分配を原則とする狩猟採集社会のほうが人心は荒廃しなかったはずだ、というのだ。
 隣人の姿がよく見え、飾らない付き合いと信仰に支えられた身の丈の暮らしがある、という映画の舞台は、福祉的で幸福度が高いらしいという、北欧と聞いて想像するままの姿だ。ただ、この映画に出てくる男たちはみなどことなく、不快な粗暴さを持っている。とくに対人関係において。事件の発端となる幼稚園児の女の子の行動も、両親がいつも激しい口論をしていて居場所がなく、主人公の先生にもっと近づきたかったという思いから生じたのだ。男集団の中で、主人公だけやや線が細くデリケートで、部外者的な印象であることも象徴的だ。
 危険や不安を平等に負担し猟果も平等に分け合って、 妬みなく生きる狩猟社会を受け継いだらいいんだってか、とんでもないぜ、だ。
 個体の弱さを防御するため集団化したのはいいが、狩猟だろうが農耕だろうが、集団そのものを守るため集団内の「ずれ」を許さず切り捨てる。それが人間の「知恵」だ。その行為は儀式となり娯楽となって、ついにはそもそも食糧を得るための道具で人間を狩るという、恐ろしい知恵さえ身についてしまった、そういう話なのだ。
 監督のヴィンタベアは、何パターンかラストシーンを撮り、比較して完成版を作ったという。選ばれたのは、いわば提案型の終わり方だ。で、このエンドシーンでのミケルセンのまなざしが、やはりとてもいい。ヴィンタベアは視線の意味について、前の場面で見せているので、この終わり方は心にしみる。
 おしまいに、ろくに外国語の教養もないくせに邦題や字幕にケチばかりつけると思われたくないが、この邦題ではダメだ。
 銃と暴力と抑圧を男たちが受け継ぐ「狩り」の社会が、正義と民主主義という偽善で仲間の人間を「狩り」、銃まで持ち出してしまう。その仕組みを実は誰もが持て余してしまっている、つまり仕組みじたいが誤っている、という話なのだ。だから原題は「JAGTEN」(英題はそのまま置き換えた『THE HUNT』)となっている。
 もちろん、邦題への置き換えが簡単でないこともわかる。「人間狩り」じゃB級恐怖映画みたいだしね。(ケ)
posted by 冬の夢 at 00:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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