2013年09月06日

デジタルカメラで身近な昆虫を撮影する話

 コンパクトデジタルカメラを持ち歩くようになって、これまで撮ったこともないものを撮るようになった。
 それは、「むし」!
 わたしは都会暮らしが長く、昆虫の類はややニガテ。
 が、都心のマンションでも、玄関を訪ねてくる小さな生きものたちが意外にいる。
 ある日ためしに、そんなお客さまを撮ってパソコンで画像を拡大してみた。
 ギョエ〜ッ!
 そう、デジタルカメラは「スーパー虫めがね」なのだ。
 撮影画像をパソコンで思い切り拡大するのは、写真を鑑賞するのでなく細部の画質がどうのといって喜ぶカメラオタクのすること、と思っていた。しかし、それだけいまのデジタルカメラの解像度がすごいわけだ。とくに被写体の細部までとらえて解像する力は、子どものころのルーペをはるかに超える、観察の極致を体験させてくれる。
 たとえば、マンションの通路の蛍光灯に飛んで来たコガネムシを思い切り拡大すると、まるでメタルロボ! カッコいい!
 アブラゼミの羽根に、ミントチョコレートのように美しいラインが入っているとは知らなかった。
 夜の帰宅時にはち合わせる、といっても年に一、二度で、せいぜい五センチくらいのヤツだが思わずヒョエ〜と恐怖の声を上げていたヤモリくんも、こんなにカワいく、しかも虫を食べてくれる頼もしさにあふれているとは。チビでもさすっがワニ科! と感心だ(同じ爬虫類だが『ヤモリ科』だそうだ)。

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 尾崎一雄に「虫のいろいろ」という短編がある。
 長らく自宅の病床にある筆者が、家の中に顔を出す蜘蛛やハエなどの生きものに目をとめ、ユーモアの中に深い観照をつづる佳編だ。
 ラジオから聞こえてきた「チゴイネル・ワイゼン」にさそい出されたかのように「おかしな挙動」を始めた一匹の蜘蛛。「踊るというほどはっきりした動作ではない」けれど、「ギクシャクした足つきで、無闇とその辺を歩き回るのだ」。曲が終わると、「それは何か、しまった、というような、少してれたような、こそこそ逃げ出すといったふうな様子」で「もとの壁の隅に姿を消した」。植木等の「コリャまたァ、失礼しましたァ〜!」ですね。そのほか、額にとまったハエを、額のシワの間にその足をはさみつけて捕まえ自慢するが、家族に笑われているうちに不機嫌になる話、などなど、微笑ましいエピソードが短く続く。
 しかし四年にわたる床の徒然にいる筆者は、こうもいう。
「たのんだわけでもないのに四十八年間、黙って私と一緒に歩いて来た死というもの、そいつの相貌が、この頃何かしきりと気にかかる。どうも何だか、いやに横風なつらをしているのだ。」
 と。
「時間と空間の、われわれはいったいどこにひっかかっているのだ。そいつをわれわれは自分自身で知ることが出来るのか出来ないのか、知ったらわれわれはわれわれでなくなるのか。」
「自由は、あるのだろうか。あらゆることは予定されているのか。私の自由は、何ものかの筋書によるものなのか。すべてはまた、偶然なのか。鉄壁はあるのかないのか。私には判らない。判るのは、いずれそのうち、死との二人三脚も終る、ということだ。」
 死生観を虫たちの小さな命に託して語っている、というのは分かりやすい解釈だが、あっという間に読めるこの一編が、わたしに生涯忘れられない読後の気持ちを持たせたのは、それとは違う理由による。
 小さなものを観察するときは、実際に拡大鏡で、あるいは意識のうちに、それを拡大する。拡大するとは、わたしがどんどん小さくなることだ。しかし、「ガリバー旅行記」ではないが、ものが巨大になって見える面白さにはすぐ飽きてしまう。それより、小さいものとわたしとがついに等価になるということ。そのことのどこかから、そして、よくある教訓よりずっと遠いところから、知恵の声が、聞こえてくるのだ。
 虫も人も同じ命だから仲よく地球を大事にしましょう、という倫理の問題ではない。ちょうど「虫のいろいろ」の筆者が、床のそばで宿題などをする娘と宇宙の大きさについて計算し、ふとつぶやいた言葉、「われわれの宇宙席次ともいうべきもの」の問題だ。
 わたしたちは、わたしたちに割り当てられた時間と空間を、いかに「有効」に使うか、ということに砕身してきた。だが、そろそろ露呈してきているのではなかろうか、有効という思想の限界が。いや、わたしはなにもインターネットは無意味だったとか自動車はやめて人力車にしましょう、などというのではない。わたしたちが当たり前にイメージしているところの時間と空間の量的価値、つまり個人の生活や国の政治経済、隣人関係から外交問題まで、あらゆる人間の目的の前提となる時間と空間を量的イメージで共有し、その陣地取りをいかに有効に実現するかという考えかた、それが実は、わたしたちにとってもっとも残酷な抑圧の要因だったのではないか、といいたいのだ。

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 さて、マンションの廊下にはいつくばって「むし」を撮っているうちに、ふと思い出して佐々木崑の写真集、「小さい生命」をひもといてみた。 写真集を開くのは久しぶりだ。
 佐々木崑(一九一八〜二〇〇九)は、日本の科学写真の先達のひとりで、ことに月刊カメラ誌に合計二十三年にわたって連載した「小さい生命」シリーズは、小さな生きものたちの誕生や羽化を接写撮影でとらえ続けた金字塔的な写真作品である。
「自然科学者でも、生物学の専門家でもない写真家の私が、なぜこのような仕事に熱中することになったのか」
 と、この本に佐々木は書いている。
 身近にみられる生きものにこそ、それまで気づかなかった自然のすごさが感じられ、専門家でないからいっそう「なんということもないことにも、驚きの目を見張り、うなってしまう」のだという。
 その気持ちで、観察して撮影するので、「ガンバレ! ガンバレ!」と声をかけながら撮ったこともあるようだ。
 それを知って写真集を見ていくと、なるほどと思う。
 ゴキブリの誕生や、ノミのさなぎなど、ここまで書いてきてガマンしろよと思いつつ、いまそのページを開いても「ウェ〜!」となるが、カワイイといわれる生物にも嫌われ者たちにも、ひとしく写真家の「ガンバレ! ガンバレ!」の視線がある。それは構図のとりかたと照明の具合を見れば一目瞭然だ。
 雑誌のページに連載する都合だろう、写真はほとんどタテ長の構図だが、これは英語では「ポートレート」ポジションといわれるカメラの向き。小さい生きものたちの誕生ポートレートだ。彼らの体はどれも、注意深く角度を設定した照明に美しく輝いている。
 いまでは技術の進歩で、どうやって撮ったんだろうと驚くような生態を写真でも動画でもさまざまに見ることが出来るが、佐々木崑の撮った写真は、まったく古びていないと感じる。撮影は四十年以上前で、撮ってすぐ写り具合を明瞭に確認することは困難だから、孵化や羽化条件の「待ち」も含めて、撮影には万苦の研究工夫があったと想像される。しかし驚くべきことに、巻末にそれぞれの写真の撮影法が、模式図つきでていねいに解説してあるのだ。それは疑いもなく、「この本は写真集ではあるが、写真を見るだけに終わらず、この本を手がかりにして、身近な生物の観察をおすすめする」「生命というものがいかにすばらしく、尊いものであるかについても感銘するだろう」「身分職業老若男女を問わず、私たちの人世を明るく豊かにする」という文にあらわれた、この感動を事実として共有してほしい、後進にどんどん続いてほしい、という写真家の「思想」ゆえだろう。
 一方で、この本にある写真は基本的に室内に機材を配置しての撮影、つまり実環境で撮った生態写真ではない。ゆえに、ベストショットが写ったと確信されるまで、少なくない小さい生命が犠牲になってもいるはずだ。それを偽善だとはいわない。佐々木は、科学写真が本業になる前は、神戸新開地を拠点に麻薬窟や売春地帯のルポ撮影に体を張った人でもあった。わたしは、アマチュアが花を撮ったりする写真教室にニコニコ顔で現れる楽しいおジイちゃんとしての佐々木を知るきりだが、事実を完璧に撮りたければアウトローになる必要があることも知っている、冷徹なフォトグラファーの眼を持つ人でもあったのだ。
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 そんな佐々木崑の「小さい生命」を眺めながら、なぜなのだろう、とあらためて考えてみる。
 玄関ドアにとまっているウスバカゲロウが素晴らしく美しそうで、持っているコンパクトカメラの機能では何度撮ってもよく写らないから何かカメラを買おうかなと思ってまでいるのに、同じ場所にカがとまっていると、迷わずやっつけている自分。なぜ、そのカをうまく撮ろうとは思わないのか……むずかしい……考えていきたい。
 アポロ計画で月面に立った宇宙飛行士に、宗教家や超自然研究家になった者が多いときくが、「むし」を「観察」すると、ひとは思索者になるのだろうか。(ケ)

※佐々木崑「小さい生命」(朝日新聞社/一九七一年)
posted by 冬の夢 at 02:24 | Comment(2) | 写真 カメラ・写真家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「ゴキブリ」という小説を書きました。よろしかったら、ご覧ください。
Posted by 浅野浩二 at 2013年09月06日 10:23
 子供の頃の家は木造で、今ほど密閉性がよくないこともあり、そもそも寒い季節以外、窓を開けておくことも多かったから、バッタやカマキリなどの虫を、よく家の中で見つけた。家の中ではつぶしてしまう恐れもあり、そっと捕まえて外に出した記憶がある。その頃は、単純にバッタやカマキリの緑色が好きで、おもちゃのような感覚で見ていたように思う。
 元々「生きもの」が好きだけれど、とりわけ小さな虫たちを健気でかわいいと思うのは何故なのか。しかも、害虫と呼ばれる虫たちにはそのような気持ちが湧かないというのは、すまない気がするけれど、いやなものはいやだ。
 という前提の話だが、虫も人も同じように生まれ、死んでいくにせよ、虫の一生は圧倒的に短く(セミのように何年も地中で生活していても、羽化してこその一生と思えば短い)、そこに生きることの凝縮された姿を見いだすのは、自分があとどのくらい生きるのかと考える年齢になったからかもしれない。佐々木崑さんの「小さい生命」をカメラ雑誌で見ていた頃は、まだ若かったから「接写による驚きの世界」に目を奪われていただけかもしれない。ブログを読んで、確かに佐々木さんの仕事に、戦後神戸の麻薬窟のルポルタージュがあったことを思い出した。身の危険を顧みず魔窟に潜入し、麻薬に溺れ破滅していく人たちを見つめ、世間に知らしめようとした同じ目で小さな命を見続けた、佐々木さんの気持ちが少し理解できる歳になったかと思う。
Posted by ムル at 2013年09月06日 23:37
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