2013年05月28日

空気をくれ!とフランシス・ベーコンの絵がいっていた

 フランシス・ベーコンは喘息だった。
 第二次大戦ではそのために徴兵免除になるが、民間の防衛部隊に志願、空襲対策係の一員としてロンドン空襲を経験する。
 このとき、せまい暗所に閉じ込められて発作に苦しんだ。人間の身体が爆撃で破壊されることも強く意識する。
 この人はゲイでもあった。
 よく知られているが、イギリスのおもな地域で一九六〇年代末まで男性同性愛は違法だった。見つかるとおまわりさんに叱られる程度ではすまない。コンピューターの生みの親のひとり、アラン・チューリングの有名な例をだそう。一九五二年、十九歳の若者との同性愛関係で逮捕されたチューリングの選択肢は収監か化学治療。後者を選んだチューリングに施されたのは女性ホルモン投与だ。「チューリング・マシン」という言葉で現在も記憶されるイギリスの天才数学者は、逮捕二年後に自殺している。チューリングよりひと世代上で、戦前から同性と付き合っていたベーコンのアイデンティティがいかに抑圧されていたか、想像できるだろう。
 わたしは長い間、フランシス・ベーコンの描いた絵がよくわからなかった。
 ねじれた身体が叫んでいる、それがキーワードのようだ。
 確かに叫んでいるように見えるが、叫びだとしたらムンクとはぜんぜん違う。ムンクのそれは見ているわたしに向けられていることは間違いなくて、わたしはいつも、その「叫び」を聞きとろうとする。いくら想像しても意味が聞きとれない苦痛を抱いて帰途につき、以後しばらく仕事先からの苦情をつい丁寧に聞いてしまったりする(バカだね)奇妙に道徳的な絵、それがムンクだったりもするのだが。いっぽうベーコンの絵は、どれを見ても、何度見ても、「叫び」ではないように見えて仕方がなかった。
 それから、ベーコンの絵はあっさり写真に例えられている場合が多いが、その文脈にも以前から違和感があった。
 実際、この画家は写真を見て描く。肖像を描く場合、実際のモデルを見ないで写真で見て描くために、わざわざ撮影を発注することもあった。ということは写真(プリントや雑誌の切り抜き)に対してフェティッシュな意識があったに違いなく、写真との関連で考えることは間違ってはいない。
 ただ、その例えだが、写真の機能的側面から語られることがほとんどなのだ。画面が流れている感じがするので、動体を撮ったときのぶれのイメージであるとか、やはり実際にエドワード・マイブリッジの分割撮影写真に影響されていることから、動体表現だ、とか。ベーコンの絵の主題が「身体」であるなら、身体すなわち動き、ということから来ているのだろうか。
 プロカメラマンで、フランシス・ベーコンの絵をよく見るよという人にいちど聞きたいと思っているのだが、「流し撮り」だとか「被写体ぶれ」などで「動きを表現」した写真とベーコンの絵とは、同じ機能を感じさせるイメージなのだろうか。
 あえて写真に例えるなら、わたしにはどうしてもこう見える。写真プリントになにか薬剤が作用したり暗室作業の手違いで、画面が溶けて流れてしまった――ロバート・キャパのノルマンディ上陸作戦の写真が、暗室作業員のミスで出来た写真だ、というのと同じ――とか、あるいはポラロイドを上手に剥がせなくて、やはり画面が流れてしまったとか。つまりそういう、写真としては「失敗」のものに見える。意図的にする場合は、技術によってリジッドに存在するリアリティ、つまり一発必写で得られたリアリティの貴重さに対する冒涜ということだ。考えようによっては写真の偶然性を、より本質的に、描くことで取り戻してくれているようにも思える。
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「フランシス・ベーコン展」(東京国立近代美術館/二〇一三年三月八日〜五月二六日、この文を書き上げる前に会期が終わってしまった)を見ていたら、とてつもなく息苦しくなった。
 ここまで書いたことをもっとも端的に確認できるはずの絵で、かつ、きわめてよく知られた一作、「ベラスケスの<法王イノケンティウス十世>による習作」はラインアップされていなかった。いや、べつに「端的に確認」しに展覧会に行ったのではなかったが、会場で大きなスクリーンに流されているインタビューで当のベーコンも明瞭に言及しているにもかかわらず、この絵がない。
 ないことはかまわないが、せめてベラスケスとベーコンの参考図版でも展示して、なんらかの解説をしておくことは出来なかったのか。ない作品をそう扱うことは美術館ではタブーかもしれず、そもそも展示条件にオブリゲーションがあったのかもしれないが、不親切過ぎるような気がした。
 いや、そこにこだわるつもりはない。
 わたしが息苦しくなったのは、平日の日中にもかかわらず、会場がとても混んでいたことだ。文字通りスシ詰めになって絵を見る展覧会が珍しくない東京で、あの程度は「すいている」と表現すべきだろうが、こんな絵(!)を、こんなにたくさんの人が、熱心に見ている――理由は分からないが、キャプションを書き写している人もかなりいる――ことは心底、不気味だ。
 ベーコンは絵の額装にガラスをはめることを好んだという。
 このため展示された絵の多くが見づらいことについて、ベーコンが鑑賞者と絵の間に距離を作りたかったから、というようなエクスキューズがときどき絵に付してあった。
 画家は絵の表面に直接作業する。距離とは、その表面に鑑賞者を近づけないということだが、なぜ拒絶するのだろう。
 あれもわからない、これもわからない。勉強したことがなく知識がないから、あるいは勉強なしでもいける感性に欠けているから、絵を見ることの手がかりがつかめない。作品に付してある解説など、とうていそうは思えないことが書いてある――だから俺は、現代の美術が苦手なのかも知れないな――そんな「いつもの思い」とともに、わたしは会場を行きつ戻りつした。関連展示してあるビデオ作品でウィリアム・フォーサイスがガサゴソ立てる音、その苦しそうな呼吸音の耳障りさが増してくる。
 その有名な踊り手の呼吸音を聞きながら会場の隅に坐っていて、ふと思った。
 ベーコンの「叫び」は「呼吸」なのではないかと。
 酸素が足りなくて水面でパクパクする金魚の口。
 空気! 
 なぜ額にガラスがあることで絵が見づらくなるか。絵を見る自分が映り込むからだ。絵の上に投影されたわたしと、わたしの目。<おかまでマゾのあぶない画家が描いた危険な絵>をなんとか見ようと気がせくわたしの目にあるものを、わたし自身が見る。わたしの目にあるのは、もの見だかい群衆のまなざし。それは自己と他者を拒絶モードで区別する視線で、自分の欲求以外に無関心な、スポンジで相手を押さえつけるような目。
 この目にぎゅうぎゅうに抑圧されて、絵が喘いでいる。
 空気くれ!
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 とうに気づいていなければならなかった。「空気」が必要なのは、あの場所にいるわたしたちだったことに。「こんな絵を、こんなにたくさんの人が、熱心に見ている」――早く空気を吸わなければ。
 あれキライ、これダメと、感情で反発を繰り返しているうちに、隣人を傷つけ(もう傷つけているな、かなりの度合いで)、そのうちに自分が窒息することになる。いや、待てよ。近ごろゲームセンターで見かける進化人類たちではないけれど、わたしたちはすでに無呼吸人間、感性停止人類に、進化しているのかもしれないけれど。(ケ)


もちろん美術展の撮影は禁止に決まっているが、なぜ本文を書いたかを伝えたかった。鑑賞者や作品を明示しないよう画像処理した。許せ、近美!――許さないなら削除する。
posted by 冬の夢 at 15:09 | Comment(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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