2013年03月10日

死者のまなざしを追いかけること

 二年半ほど前に亡くなったカメラマンの、遺作展を手伝うことになった。
 いまから二十五年は昔のこと、撮影の仕事で知り合った人だ。
 海外で、地下深く降りたり、装備のある軽飛行機を頼んで空撮するなど、若輩のわたしが役に立つわけもなく、十年先輩の彼の経験あっての仕事だった。仕事の縁はそれきりだが、以後も何年かおきに会っていた。チームになったのは偶然だし、粛々と日程をこなす型の旅だったのに、彼にも思い出が残ったのだろう。
 もともと辺境や紛争地の人びとを撮影する報道カメラマンで、初めて会ったときはフリーランスで活動していた。シャッターチャンスに賭けるニュース写真より、長期的視点のシリーズ写真をめざし、その分野で名をあげるのが夢らしかった。以後会うと、そのとき試みている撮影を見せて意見を求めてきた。
 ただ、写真はいつも、試行錯誤中ゆえか分かりにくく、カメラマンとしては真面目で器用すぎたか、目をひく迫力も少なかった。露骨な贔屓はせずとも出来るだけの手助けしたはしたが、出版社や美術館では形にならず、年月が過ぎた。
 アルコール依存症が悪化している、といわれたのは何年前だったか。かなり昔からの問題だったようで、グループ治療などでは好転せず入退院を繰り返すに至ったらしい。広告代理店の嘱託撮影で稼いだ時期もあったようだが、撮影収入を得るのは難しくなり、作品製作予算も尽きていたに違いない。あちこちで借財も重ねていたらしい(わたしから借りた分はすべて返してくれたが)。
 その前後か、二〇〇四年暮れのスマトラ沖地震で津波に襲われ大きな被害を受けた、タイ南部のカオラックに腰を落ち着け、災害の痕跡と住民のその後を撮影すると知らせがあった。海外在住経験も多い人だし、気分が変わり生活が楽になってよいかもしれない、と想像した。
 一時帰国のたび見せられたタイでの写真は、技術力こそあるがやはり地味な印象。もっとも、見る人を驚かせようとはしない写風は本人も承知で、中判フィルムを使う大型のカメラを三脚に据え、ゆっくり記録写真を撮ると決めたふうだった。‐‐ならば、リゾート地として有名なカオラックがまた賑わうまで、地域のため人のため、住人の一人として写真館主のように撮ったらどうか、地元から発表を始め最後に日本へ持ち帰ればいい‐‐これは、わたしの案だが、それにも納得した様子。日本の通信制大学院に入り、卒論の形で報告発表するともいってきた。
 その後、こちらが仕事や生活に行き詰まってしまい、気にする余裕がなくなった。まれにタイと日本でメールのやりとりをすると、部屋もバイクもあるから仕事をやめて当分休みに来い、と、よく誘われた。結局は一度も訪ねなかったが。
 酒も抜き、タイで短期間、僧侶修行したとも聞き、よかったと思ってしばらくたったある日、亡くなっていたことを知らされる。自宅近くの路上で倒れての急死。酒は完全にやめられておらず、出家も精神の不安定ゆえだったようだ。現実を引き寄せるつもりか大言壮語癖があり、後輩のわたしにするのは発奮のためもあったと思うが、現実がついて来なくなったのだろうか。彼より上の世代で、かつて彼が撮影を請負ったさまざまな会社で出世した仕事相手たちの中には、カメラマンをやめて別の仕事でも、などといった人もいたようだ。本人のためを思ったのか無責任な感想だったのか、それはわからない。

 かなりたって、友だちだという人が訪ねてきた。遺作展の手助けを頼まれる。写真の知識がなく、わたしの名が故人からのメールによく書かれていたので、という。
 とうてい人の頼みを引き受けられる状態ではなかったが、断れなかった。展示の実作業はしてもらう代わり、展示のためやるべき準備は確実にすると約束。
 遺された写真は多くなかった。ひとり身の彼の家財は没後すぐ処分され、ネガもデータもない。写真の仕事に縁がない人たちが、形のないものは捨てるしかないと考えたことに罪はない。その代わり、記念の意味か友人たちに渡されたプリントが多少残った。ざっと見ると、モノクロネガをデータにして一般のA4用紙にテストプリントしたらしきもの。品質は揃わず、展示できそうなものを探しつつ「作品」になるかどうか考えることにした。
 作業してみると、集まった写真は幸か不幸か、本人から聞き断片的に見せられていた試みのうちの二つの領域に関するものだけ。あまり迷わずにすんだ。かりに膨大な写真が保管されていても、内容が分からない状態だと整理は難しかったろう。
 展示する作品は二つ。ひとつはスマトラ沖地震の津波の傷跡。もうひとつはユーゴ紛争の停戦協定後に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの古い橋を背景に周辺の街の住人たちを撮影したもの。古い橋とは、二度の大戦で破壊され、ユーゴ紛争時には三〇〇〇人以上に及ぶ虐殺の舞台となった場所だ。
 いずれも見た記憶があるが、あまり強い印象を受けなかった写真たち。あらためて見ても印象はさほど大きくは変わらない。しかし、カレンダー用にさまざまな写真から四季十二枚の組み合わせを選んで一丁あがりというようには、見ることはできなかった。
 撮影者が知人だからではない。友人が撮った写真を見ても、こうではないし、有名な写真家に知り合いがいてその遺作を見ているとしても、こうではないだろう。
 だとしたらどうなのかというと、写っているものはわたしにはもはや意味がなく、写真を整理しているわたしが、写真のこちら側で撮影しているカメラマン(つまり亡くなった彼)の隣で撮影の状況を見ているわたしになっていくような感覚が強くなるのだ。撮影者を知っているから、現場を見ているような臨場錯覚が起きるのかというと、そういうことでもない。
 ある場面の構図や瞬間を写真にするのはカメラマンで、わたしは隣にいても写真がどうなるかは感じとれない。その場面が写真という枠付きの物語になった形で人は見て、言葉を紡いだり、枠の具合のよしあしを批評したりするが、わたしは、その場面の空気や前後の時間の流れを身に受けていながら、後に現れる枠付きの物語を予想も実感もできないのだ。撮影者の隣で現場を共有する喜びとは正反対の、そういうときいつも感じていた「いらだち」‐‐わたしの視界が奪われでもするかのような不安‐‐が、遺品の写真の場面には一度も実際に立ったことはないのに、にじり寄るがごとく湧いてくるのだ。
 さらにこれらの写真は、ひどく預言的なものに見えた。
 タイの津波被害の写真を見ると、たしかに直接、東日本の震災を連想するが、日本で同様の災害が起こる「予言」の写真を見つけた、というのではない。この写真を撮影した人の「ありよう」を「預」かることを使命にこの写真は遺されて、いまここにいるわたしにそれが示されている、という意味での「預言」だ。
 被災後のタイに住み、材料費のかかる撮影で写真を撮っては、地元の人に渡したりしていたこと。日本では写真家としての名は売れておらず評価の保証もなく、ましてさんざん窮していたのに、タイでは出来る範囲の援助もしていたということ……そんな撮影者の「ありよう」を預り、いまここにいるわたしに考えさせるべく、この写真は遺されていた‐‐東日本の震災でも多数のカメラマンが「作品」を発表しているし、写真で何かをなそうと活動している人も多々いるが、そのこととは違った意味で‐‐そういうことだ。
 同じことが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで撮影された写真にもいえる。内戦停戦後に撮られたふつうの人たちの日常的な記念写真。虐殺の現場となった歴史的建造物の橋は、近年に世界遺産になったそうだが、後年そうなることも含め、想像を絶する残虐性へエスカレートした内戦を経験した人たちが、写真の中へ、わたしのため「預」けたもの……もちろん、ここでカメラを持って人びとの前に立ってみた男の「ありよう」を「預」かる形でも……それが、この写真がいまに伝えているものなのだ。
 眠っていた傑作を発掘したと喜んでいるのではない。
 写真から「預言」を受け取り始めたら、わたしの「いらだち」はさらにつのった‐‐わたし自身が写真とかかわったこと、すなわち撮影の現場に行ったり写真を扱うことを仕事として行い、それをすべてやめ、写真と縁がなくなった‐‐その長い年月は、驚くべきことにこの、けっして注目されることのなかった写真を最後の最後に見て「預言」を受け取るための準備に過ぎなかった、という気がしはじめたのだ。
 もしそれが当っているなら、遺作展の手伝いにのめり込み、「けり」をつける気で没頭すればよかったかもしれない。しかし、わたしはそうしなかった。
 まもなく開かれる展示の後、実物のみしか残っていない写真たちがどこへ行くのか、わたしにはわからない。しかし、何年のちになるか、写真やカメラがわたしにとってすっかり遠い存在になったある日、この写真がわたしにどう見えるか興味がある。そのとき、わたしはまたなんらかの預言をこの写真からなまなましく受け取るのだろうか、それともまったくただの、知らない人の写っている記念写真のようなものになってしまっているのだろうか。(ケ)

*「歩く人 ‐写真家・石川良男 遺作展‐」 二〇一三年三月二〇日〜二五日 東京・目黒 Gallery やさしい予感
*三月八日分の本文を十日、若干手直ししました。
posted by 冬の夢 at 13:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 写真 カメラ・写真家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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