2013年01月24日

そして阿呆船は行く ボシュ「愚者の船」

 よく見ると、思っていたのとすこし違っていた、イェロニムス・ボシュの「愚者の船」。
 異端の画家というイメージ以外に予備知識がなかったので、絵にすんなり向かい合えたのはいいが、期待していた、現代社会批判も読み取れる世紀末的享楽絵図とは、どうも違って見える。「阿呆船」という題でもあると知ってしまうと、船の中で「かえり船」をオ〜ッス! とやっているバタやんこと田端義夫の姿がちらつき出し(なぜだろうと悩んでいたら、リュートの弾き方がバタやんのちょっと変わったギターの構え方とまったく同じだと気づいた)、お笑い劇の一場面にも見えてくる。

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 いったい何をしているところだろう。岸辺に近い澱んだところ(に見える)へ舟を浮かべ、聖俗まじえて宴の最中だろうか。大きな木をマストに見たて、かなたの海原へ出航−−の気配はない。舟の中央にテーブル代わりの板を渡し、それを囲んでパン食い競走のように、われさきに食べようとする人びと。主役は僧侶と、楽器を鳴らす尼僧で、後ろからオヤジたちが負けじと迫る。僧の後ろでは舟を漕ぐでも舵をとるでもなく、よく見れば舟を揺さぶって妨害している気配。左側では女が酔いつぶれた男に、水をかけてしっかりしなさいと言っているのか、船べりの壷からもっと酒をよこしてと言っているのか。右では酒酔いの上に舟が揺れてゲロゲロ状態。水の中では、ゲームに負けて投げ込まれたか舟を揺らして盛り上げているのか。器を差し出しているのは、お流れ頂戴だろうか。騒ぎをよそに右の樹上では道化がちゃっかり一杯いただいている。木の中ほどでローストチキンを切り取ろうとする様子が見えるが、男の目線とナイフはその上の葉の中にいる何かに向けられているようでもる。その「何か」が難しく、フクロウと見るようだが、悪魔だとか、違うものにも見える。 
 近代絵画以前の絵を見るときは、図像学という視線で見ることが必要だそうだ。絵の中のさまざまなものに固有の意味があり、その組み合わせや配置なども合わせて、絵の含意が分かる仕組みになっている。絵の中に絵解きが描き込まれているわけだ。暗号解読のように解き明かすしかない現代のわたしたちと違い、絵と同じ時代の人たちにはメッセージはすぐ通じたらしい。
 また、この時代の絵画は注文主の依頼で製作し納品するものだったことも、意識したほうがいいだろう。画家の思想や批評が一片も含まれないわけではないが、画家が自己表現のために絵筆をとり、誰もがそれを表現者の作品として鑑賞する近現代絵画とは成り立ちが違うということだ。
 そもそもイェロニムス・ボシュその人について調べてみると、意外なほど何もわかっていない。オランダのスヘルトーヘンボシュ(絵描きとしての名はこの地名からとっている)で一四五〇年ごろ生まれ、一五一六年に亡くなるまでほとんどそこを出たことがないらしい。オランダといえば低地の海洋国として知られるが、スヘルトーヘンボシュは内陸だから、海や航海のことはほとんど知らなかったのでは、と想像できそうだ。
 さらに、わずかな資料からうかがえるこの人の姿は、裕福な名士でキリスト教兄弟会(信仰集団ではなく友愛組織みたいなものだとか)の一員として、おりおりに楽しい食事会などを開いたという<きわめて平凡>なものでしかない。もちろん外面が平凡な男こそ内面に暗さを潜ませている、とはありうる想像だが、それは文学的すぎるだろう。すくなくとも中世からルネサンスに家業が画家つまり製造業者だった男が、内面の「暗さ」を受注仕事に「表現」したというのはおかしい。宗教裁判つまり異端審問が行われ、魔女が狩られている時代のことで、自ら異端と任じて生涯をまっとう出来たはずがないからだ。
 しかし、そうだといってもボシュの絵はとにかく変だ。何かがおかしい。かりに含意が容易に読み取れるように描いてあるとしても、それ以上の寓意が存在すると疑わずにはいられず、幻覚剤のように耽溺しかねない視覚的吸引力がある。そこが、より単純な意味でカネ持ちの好事家の心を躍らせたことは間違いなく、スペイン国王からの注文が多かったというのは納得できる話だ。
 その「変さ」が、図像学的にわたしに読み解けるかどうかは疑問だが、抜きに眺めていてもしかたないから、すこし調べてみた。
 舟は教会の意味、マストは十字架のたとえだそうだ。
 いっしょに唄っているようにも見える僧侶と尼僧は、性的関係を暗示する。尼僧の弾いているリュート、皿のサクランボも同じ含意。また、僧衣の男女には別離の意味もあるそうだ。
 ローストチキンは飽食、ナイフはむろん男性の性的象徴であり、怒りをも意味する。左側に見える逆さの壷は狂気の意味だ。
 葉の間に見えるものをフクロウととるなら、まずはご存じ英知だが、逆の意味にも使われる。また異端を意味することもあり、だとするとペナントに見えている三日月をトルコ国旗にある月と同じ印ととれば、異教の侵略という含みがあることにもなる−−。
 この程度ではいかにも予習不足だけれど、作った暗号対照表を見ながら、そしてこの「愚者の船」は本来「守銭奴の死」と対になっていたという説も頼りにしつつ<1>、もう一度「愚者の船」を見ると、この絵のメッセージはあっさり了解できるようにも感じる。
 絵が描かれた十五世紀末は宗教改革直前だから、社会規範を支配する教会の腐敗はきわまり、キリスト教社会そのものが不安定な時代だ。いっぽう当時のオランダ諸都市はヨーロッパでも群を抜いて裕福で、飽食と快楽ブームだったようだ。なにせ呑み過ぎ食べ過ぎで死んでしまう人が非常に多かったというのだからひどい。市民の時代になるのはまだまだ先だから、浪費できたのはごく一部の富裕層で、貧富の差の大きさからすれば放埒はひどい悪徳に見えただろう。いっぽう、ボシュの時代のスヘルトーヘンボシュの繁栄は武器製造のおかげだそうで、戦争続きで明日のない、ヤケっぱちな気分もあったのかもしれない。
 いずれにしても、信仰生活を大切にせず、教会の権威を揺さぶる一方で、刹那的な快楽や飽食あるいは搾取や独占などに人生を費やしていると、対の絵の「守銭奴の死」みたいにみじめになりまっせ、という教訓絵物語であり、脇目もふらず悪徳にふける人々が見れば改悛の思いに至る図だ、というのがこの絵のメインテーマと考えてほぼ間違いないだろう。
 しかし、わたしにはこの絵がどうしてもそのようには見えず、そのことがわたしをこの絵に惹きつけている最大の理由なのだと気づく。
 いうなれば「生きかた」を示すのでなく「生きざま」を肯定している、というのだろうか。わたしの勝手な語感だが、倫理的・道徳的な響きのある生き「かた」でなく、原理的・肉感的な感じがする生き「ざま」が、この場面にあふれているようなのだ。しかもこの場面を見ている視線−−つまり絵のこちら側から絵に向かってある意識が注がれているように感じるのだが−−には、どこかユーモラスで微苦笑を含んだ肯定のまなざしがあり、それを自分もこの絵を見ることで共有できるのが嬉しいから、この絵に惹かれるのだと思う。
 そういえば先日、親しい台湾人に聞かれた。
 日本に住んで長く、日本大好きな人。美味いラーメン屋や寿司屋を教えてもらっているほどで、この人の日本絶賛が始まるとケツがムズムズし中腰になってしまうという間柄。
 で、こう聞かれた。
「アナタは日本人が嫌いデスか」
 即座に「嫌いです!」と言ったら「ドコが嫌いデスか」と。そこでわたしはウッと詰まったのだ。
 飽きっぽい、利己主義、幼稚で無知を恥じない、人に向き合うのが苦手な癖に人に文句ばかりつける、場当たり的、拝金思想……いくつかあげたが、端的に言葉にするのは意外に難しかった。そう、社会全体を単純にくくれる国民性というもので世の中は回っていないし、十二支めぐりではないが人の否定的側面と肯定的側面は同じ資質を表と裏から見たものに過ぎない。だとすれば、わたしがこうまで日本が厭だということの理由が、そもそもなくなる……。
 ボシュの「愚者の船」から反射してくるようにも感じる、微苦笑まじりの肯定の視線は、行方の見えない時代を精一杯に生きる愛すべきバカたちを受け止めるまなざしだ。
 そういえば、舟の人びとがさきを争って齧ろうとしているものは何だろう。木に結びつけられたチキンと同じ焼肉だろうか。いや、これがまさに「パン食い競争」、つまりパンなのだとしたら、人たちの表情に笑いがないことと合わせて、もっと切実な、キリストの身体であるパンを奪い合っている沈みかけた方舟の様相を呈してくる(ワインはこの場面より前に奪い合いのすえ、道化−−愚者を演じる賢者でもある−−に持っていかれた一杯以外呑み尽くされたようだし)。
 となれば、微苦笑を含んだ肯定とここまで書いてきた視線には、諸行無常の諦観ゆえの苦しい笑いが混じっているのだということにも気づかされる。と顔をしかめていたら、スヘルトーヘンボシュはオランダ最古の謝肉祭で現在も知られていて、ボシュの時代にもおおいに盛り上がっていたらしいから、やはり笑って見ていていいのかもしれない。このように、意味が逆転につぐ逆転を重ねていくのも寓意(アレゴリー)の機能というわけで、だからこそこの絵は傑作だ、ということにもなろうか。
 そう、わたしもクドクド文句ばかり言っていないで、まずは肯定の視線を持とう。さすれば結局この日本は、鼓腹撃壌ということでいいのだろう、日銀は無限のお札製造機になってくれるみたいだしね、と。その結果が、いっしょに上がっていくから大丈夫とされている賃金がないわたしを直撃しないことを祈りつつ。(ケ)



<1>下のように「愚者の船」と「快楽と大食の寓意」とが、もともとつながった一枚で、右の「守銭奴の死」と対になっていた、とするもの。もし本当なら「愚者の船+快楽と大食の寓意」として読み解く必要もあるが、それはいつかまた。なお「愚者の船」はルーブル美術館では見ておらず(見た記憶もなく)画集で見た。オリジナルを見たら、ぜんぜん違う考えになることもありそうだ。

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posted by 冬の夢 at 01:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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