2012年12月03日

鎮魂と忘却──レクイエムを終える日 ギャビン・ブライアーズ 【改】

 一九八八年十二月二一日、ロンドン発ニューヨーク行のパンアメリカン航空ジャンボ機で、預け入れ荷物に仕掛けられた時限爆弾が爆発した。
 機は空中分解し、主要部はスコットランドのロッカビーに落下。乗員乗客全員と、巻き添えになった地元の人たちを合わせ、二七〇人が亡くなる大惨事となった。

 乗客の多くはアメリカ人で、英米合同捜査の結果、リビアのテロと断定。二人のリビア人が実行犯として逮捕された。一人が有罪となり、終身刑で服役したが、末期のがんを宣告され数年前に釈放、帰国。
 その男が、今年の春に亡くなったため、この旅客機爆破テロ事件は、欧米で再び注目を集めていた。
 これまで、さまざまな疑惑が論じられたが、収監されていた男は巨大な陰謀を黙したまま亡くなったのでは、という疑いが再燃している。その釈放と帰国は、英国政府と、収監地のスコットランド自治政府が共謀し、石油利権でリビアと取引した結果ではないか、という説もある。

 この実在の事件を題材に、米上院議員と無敵の元傭兵、各国の傭兵仲間たちが「ロッカビー」という合言葉で運命共同体となり、旅客機爆破テロで命を奪われた妻子たちの復讐に立ち上がる、アクション小説がある。タフな男たちの正義と友情を熱く描くA・J・クィネルの、『パーフェクト・キル』だが、小説での創作よりおぞましい裏舞台が、実際の事件にはあったのだろうか。

       ♪

 爆破された旅客機の乗客に、音響エンジニアのビル・カドマンという、イギリスの若者がいた。
 同じくイギリスの現代音楽作曲家で、ジャズ・べース奏者としても知られるギャビン・ブライアーズは、事件直後に、友人のカドマンをしのんで「カドマン・レクイエム」という曲を作った。弦楽伴奏で、伝統的レクイエム形式を部分的に使った合唱と、イギリスの古詩を歌うソロとが、交互に進む曲だ。

 持っているのは、ヒリヤード・アンサンブルとフレットワークの共演盤。
 前者はイギリスの古楽男声合唱団で、十年ほど前に日本でグレゴリオ聖歌がブームになったころ、ジャズ・サックス奏者のヤン・ガルバレクとの共演で、日本でも広く知られるようになった。後者は、やはりイギリスで八〇年代に結成された、古楽弦楽器の演奏集団。どちらのグループも古楽だけでなく現代音楽も積極的に演奏する。

 ブライアーズが作品をおもにリリースしているレーベルは、コンテンポラリー・ジャズで有名で、古楽と現代音楽も扱うECMだ。ヤン・ガルバレクもそう。

 ECM盤に共通したイメージは、静謐・透明・清澄、かつ高音質、と語れると思うが、「カドマン・レクイエム」もまた、そんなイメージ通りの美しさである(ただしこの盤はECMではない)。いかにも現代音楽らしい不協和な音や長〜い音、ミニマルな弦楽の「リフ」も現れ、不安と緊張がよぎるが、いっぽうでハーモニーとアンサンブルが深い調和へといざないもする。

 ブライアーズは、ソロで唄われる部分に、文字になったものではイギリス最古とされる詩を使った。
 七世紀後半、修道院の下僕で、詩など思いもよらなかった男が、夢のお告げで万物の創造について詩を作れといわれ、翌朝その夢を吟じたというものだ。
 その「創造讃歌(Creation Hymn)」という詩が、古英語と、八世紀ごろの歴史家、聖ベーデが記録したとされるラテン語の両方で、曲中二度、歌われる。
 夢のお告げを吟じてイギリス最古の詩人となったのは、キャドモン(Caedmon)。ブライアーズの亡友、カドマン(Bill Cadman)の名と響き合わされている。

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CADMAN REQUIEM POINT MUSIC 1998(左)
AFTER THE REQUIEM ECM 1991(右)

 初版は八年後に改作され、この盤のバージョンになった。
 新版は、さらに翌年、ロンドンのウエストミンスター教会の「ロッカビー・メモリアル・コンサート」で演奏され、二〇〇三年にCDになっている。
 初版が出来た翌年、つまり「ロッカビー」から二年後の一九九〇年に、ブライアーズは、この曲の主題を使って「アフター・ザ・レクイエム」を作曲、ECMから一九九一年に発売している。
「アフター・ザ・レクイエム」には歌はなく、弦楽三重奏にエレキギターを加えたカルテットの演奏だ。歪んだエレキギターのサスティンが「カドマン・レクイエム」の主題に見事にとけ込み、たちまち、広い空の下に連なる丘で、草を切って吹く風のなかに立つ、小さな碑を眺めている気持ちになる。
 ロック調にひずんだエレキギターで曲を録音しているとき、ブライアーズたちは、その日がジミ・ヘンドリックスの二十回目の命日だと知った。弾いているのはビル・フリゼール。適材適所とはこのことで、ブライアーズは「アフター・ザ・レクイエム」を「二人のビル」(カドマンとフリゼール)に捧げてもいる。

 ブライアーズが自分でこの盤の解説に書いたことが、とても印象的だ。
「アフター・ザ・レクイエム」の「アフター」は、どういう意味かと。

 ブライアーズによると、まず、音楽的に「カドマン・レクイエム」を継承するから、「レクイエム」の後の、という意味だそうだ。
 それはそうとして、追悼は、行為としてはいったん終わる。問題はその「後」に残り続ける何かであり、その精神の状態を意味して「アフター」なのだと。

       ♪

 東日本震災の直後からしばらく、空気の読み合いのような感じがあったのを、ご記憶だろうか。不気味に風が凪いだような感じを。
 そして、がんばろう、たちあがれ、という言葉が広まり出すと、たちまち誰もが元気元気といい出した。ほどなく、どのチャンネルを見ても、お笑いだらけという、「いつものテレビ」が戻ってきた。
 喪失感を埋めてあげようという思いやりなのか、過剰な明朗さが騒々しい音とともにあふれた。笑いや歌は元気の素だといわれたら、「うるさい」とはいえない。

 長渕剛は、昨年の紅白歌合戦で、石巻市の門脇小学校(津波と火災被害を同時に受け全損)を舞台に、鎮魂の歌を歌った。
 その翌日、つまり年明けに石巻へ行き、黒焦げになったその小学校を見た。多数の生徒が亡くなった同じ石巻の市立大川小学校をはじめ、女川や南三陸などにも行った。
 きわめて印象的だったのは、どこも、かぎりなく静かだったことだ。都市部ではなく、正月だったせいもあるが、それにしても、あの荒れ野──もう雑草がはびこりつつあった──は、人が暮らすざわめき、日々の呟きも、流失した跡だったのだろうか。

 長渕は、地元の人たちに感動をもたらしたと知った。元旦に石巻の人たちの中にいて、前日に長渕とNHKが行ったことに批判的な声が聞こえなかったとはいわないが、激賞する人たちの声が大きかったことは間違いない。
 さらに地元の人たちが感謝であげた名は、在京メディアでゴタクを並べている知識人や文化人のものではなく、専門家たちでもなく、寸時の娯楽を地元まで持って来てくれた「お笑い芸人」のものが多かったことも加えておこう。
 どれもこの耳で聞いたことで、それを無視して「騒々しい」と書く気はない。

「いつまでもメソメソはやめよう」という元気づけムードが濃くなるほどに、わたしの心中の「あの後にある何か」は加速度的に薄れていった。「何か」を抱いた「精神の状態」も、忘れることが多くなった。
 それが、癒された、ということなのかもしれない。 歴史と付き合うには、忘却もまた、たいせつな手段だと、スーザン・ソンタグもいっていた。災害ではなくユーゴ紛争についてだが。

 歴史を生きるには忘却も必要だ。そういわれて、疑いもせず「そのとおりだ」とはいいにくい。
 かといって、東日本震災の発生時は東京にいて直接被害は受けていない身で、被災地に立って「忘れまい」「風化させない」と主張するのも、どこか愚かで粗暴な感じがする。

 津波被害のひどさでも知られた、知人の実家がある場所へ行ったのは、その人にはすまないが、その実家を見舞おうというだけでなく、自分の心中の「後にある何か」を、どう扱うべきか、理屈でなく実感で確かめたかったのだと、いまになって思う。
 自分には被害はなかったし、福島に住んでいた弟家族にも死傷者はない。
 しかし、日本の土地の、とても大きな部分が、揺れや津波、そして原発事故で、地図から欠けたようになってしまった。
 また、弟の家族にも事故はなかったが、その長女は以後、クスリを飲み続けている。それは、もともと弟とは疎遠だった──いまだに長女に会ったことはない──わたしにとっても、あの後に残り続ける何か、なのだ。
 それらはみな、さほど重大な「何か」ではないかもしれない。しかし、その場の歌舞音曲でいくら「元気を出そう」といわれても、忘却へと追いやることは、できずにいる。(ケ)

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※二〇一九年七月八日、手直ししました。管理用

posted by 冬の夢 at 23:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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