2012年12月02日

ドガの彫刻「アラベスク」−−好きな絵#2

もしも仮に「芸術を『所有する』」ということがあり得るとするなら、「好き」な絵や音楽、あるいは文学作品があるということこそが「所有」の本当の意味になるのではないか。誤解のないように急いで言い添えるのだが、言うまでもなく、芸術作品を「所有する」ことは実際に何としても不可能だ。CDを何百枚と買い揃えたところで、あるいは指揮者や演奏家になったとしても、モーツァルトの音楽を所有したことにはならないし、運良く億万長者になってゴッホの「ひまわり」を購入できたとしても、ゴッホの芸術を所有したことにはなるまい。また、「百人一首」や「奥の細道」を諳んじてみても、やはりそれらの作品を自分のものにしたとは言えない。それはちょうど、「この人が私の友人です」と言ってはみても、また事実、どれほど親しい友人であっても、「友人を所有する」ことはどうしたってできやしないことと同じだ。つまり、(今ではすっかり忘れられた感のある)エーリッヒ・フロムが主張した"to be"と"to have"という二つの対照的な存在様式の枠組みを借りて言えば、芸術は人生と同様に、「それを所有すること」はむしろ間違っていて、あり得るのは「それとともに存在すること」「それとの関係を結ぶこと」なのだろう。つまり、愛が所有できない、所有すべきものではあり得ないように、芸術も所有できない、所有すべきではない。こうしたことを認めた上で、なおも「この人はぼくの友人です」という表現があり得るように、「この絵は『ぼくの絵』です」と言うことがあり得るとするなら、それは結局、「ぼくはこの絵が好きだ」ということを意味しているに過ぎない。

我ながら回りくどい言い方をしていると思う。要するに、「好きな作品」があるということは、どんな億万長者よりもはるかに幸せなのだということを、ぼく自身はおめでたくも信じているということ。そういう意味で、上野の国立西洋美術館にあるドラクロワの『聖母の教育』(「好きな絵#1参照)は「ぼくの絵」であり、その前に立つときは、旧友に、あるいは初恋の彼女に再会するような気分になる。

同じように大切な作品として、ブリヂストン美術館にあるドガの彫刻「アラベスク」(正式には「エドガー・ドガ《右足で立ち、右手を地面に伸ばしたアラベスク》(1882―95年)」と言うらしい)がある。この彫刻には「聖母の教育」に溢れんばかりにある、光り輝く美しさや幸福感はない。むしろ、やや誇張して言えば、ジャン・デュビュッフェに代表されるアール・ブリュットのような、生々しくて乱暴な感じさえもする。あるいは、ジャコメッティの彫刻の方がもっと近いかもしれないが、いずれにしても、彫刻の表面もデコボコしていて、この踊り子が美人であろうという連想もすぐには浮かばない。けれども、そんなことはうどんにステーキの味を求めたり、日本酒にウィスキーの刺激を求めたりする愚に等しい。

ドガ:「アラベスク」.png
(こんな小さな写真しかない……)

この彫刻作品がぼくにとって特別なものになった理由は、この作品が「彫刻とはどういう芸術なのか」「どうやって彫刻を楽しんだらいいのか」を直接に教えてくれた最初の先生だったからだ。一つの彫刻作品は、それ自体で完結したものではなく、周囲の空間をも含んで一つの作品となっている。と言うより、彫刻作品に内在するエネルギーが周囲の空間を彫刻化すると言う方がより正確かもしれない。彫刻は空間を支配する。その作品を核として、周囲の空間が特別な、他には代え難い唯一無二の空間に変化し、つまりは作品化される。ドガの「アラベスク」は、それ自体が絶妙なバランスを示しているのだが、四方に伸ばされた手足は、まるで周囲の空間を捕捉するために放られた投網のようであり、したがって、当然のように見ているぼくを絡め取る。これはある意味ではぼくの視線がこの作品に釘付けにされているということでもあるが、問題の核心は、彫刻作品によって絡め取られたものが単に視線だけではないという点にこそある。これが絵画と彫刻の大きな違いだ。彫刻を見るとき、魅惑されるのは目ではなく肉体であり、その魅惑は絵画の与える知的な作用と比べ、はるかに肉体的だ。これは、彫刻の方が絵画に比べよりプリミティブに感じられる事実と無縁ではあるまい。

いずれにしても、優れた彫刻作品(あるいは、やはり単に自分の好きな作品と言うべきか)に接するとき、戦慄は脳で感じられるのではなく(絵画の場合はそうだ)、皮膚と筋肉によって感じられる。だからこそ、彫刻作品に対しては、ついつい触りたくなるのだろう。

こうしたことを当時大学生だったぼくに最初に教えてくれたのが、ブリヂストン美術館にあるドガの「アラベスク」だった。だから、この踊り子は実はぼくにとっては大学時代の「先生」でもあるはずだが、その華奢な体つきはあまりに少女然としているので、どうしても先生らしくない。だから、ぼくとしては、ちょっとクールな同級生ということにしておこうと思う。そう考えると、美術館は同窓会の場にも変わりうる。(H. H)

posted by 冬の夢 at 22:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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