2012年10月28日

ドラクロワ:『聖母の教育』−−好きな絵#1

上野の西洋美術館にドラクロワの描いた『聖母の教育』という絵がある。サイズは50cm x 60cmくらいだろうか。緑茂る中庭で聖アンナが小学生か中学生くらいのマリアに本(当然聖書ということになるのだろう)の読み方を教えている絵だ。この絵が、なぜだか、とても好きだ。

ピクチャ 1.png
(国立西洋美術館収蔵)

この30年間の日本に限って言えば、良くなったと言えることはかなり少ない。というより、すぐにはほとんど何も思いつかない。政治やマスコミの劣化は言うまでもなく(例を出せば、あの「悪名高い」田中角栄でさえ、「日中国交正常化」に貢献しているし、マスコミはその同じ政治家の「ロッキード疑獄」を暴くことができた)、文化的・享楽的側面においても30年前の日本がいわゆるバブルの最中にあり、その狂騒が煩わしかったとはいえ、そのおかげで海外の文化財(海外のアーティストや展覧会、etc.)は今と変わらず入ってきていたし、何よりも、未来に対して今ほどには悲観的ではなかった。

しかし、今ここでは愚痴はよそう。今日書きたかったことは、上野の国立西洋美術館がこの30年の間に美術館として格段に良くなった「例外的」存在であるということ。数年前から気がついていたのだが、先日ふと訪れて、あらためて、この美術館が、とりわけ美術教育的な見地から、とても充実した美術館に成長したことを嬉しく感じた。

以前からいくつかの佳品(中でもロダンのコレクションは充実している)はあったけれど、ルネサンス以前の作品が致命的に欠落していて、「近代美術館」と区別がつかないほどだった。が、少しずつ買い集めたのだろう、今はシエナ派の板絵なども所蔵し、西洋美術史の立派な教科書になっている。もちろん西欧の国立美術館と比較すればまだまだ貧弱であろうが、極東の地にあることを勘案すれば、奇跡的なコレクションと言っても過言はないと思う。

このコレクションの中でぼくが特に好きなのは、中庭にある(したがって、見ようと思えば無料で見ることのできる!)ロダンの『カレーの市民』と、そして、ドラクロワの『聖母の教育』。『カレーの市民』については別の機会に譲り、今日は『聖母の教育』について簡単に述べたい。

とは言うものの、美術史的な面白い話ができるわけではない。むしろ、もっぱら自分自身に向かって、「なぜこの絵にそれほど惹かれるのか?」と問うてみたいほどだ。絵画におけるこの主題は17世紀頃に流行ったようで、グイド・レーニやルーベンスも、そしてラ・トゥールも同主題の作品を残している。しかし、ドラクロワの絵は、これらのどの作品にも増して、個人的な好みとは承知しつつ、格別な魅力がある。

何よりも先ず、色彩の美しさが目を惹く。ステンドグラスのように美しい発色だ。ドラクロワのいわゆる「モロッコ体験」は、後のゴッホの南仏体験、クレーのチュニジア体験に匹敵する、あるいはもしかしたらそれらを凌駕するほどの衝撃的影響を彼の絵画に刻み込んだらしいが、『聖母の教育』の発色もそれと無関係ではあるまい。正に官能的といってもいいほど、一言、美しい。

この色彩による官能的美しさに、主題の作り出す親密さが加わる。単に「加わる」と言ってしまうのは正しくないだろう。色彩の官能性と主題の示す素朴かつ家庭的な親密さが不思議な、絶妙な和声的交響を創り出しているのだから。画面からは「純粋」な宗教的畏敬は消え失せているので(この絵画を鑑賞するために「マリア崇拝」が必要とされることはない、たとえマリアが赤色のベストと青色のスカートを身につけているにしても)、主題は「母が娘に読み書きを教えている様子」ということに尽きる。家族間/世代間での技術知識の伝承は、たとえそれが読み書きではなく、機織りや編み物の技術であっても、おそらくは文化の伝承という主題に繋がり、その意味で極めて好ましい、「平和的」と言っても過言ではない価値を生み出す。背景の青空、今が盛りの緑、マリアの右隣の花かご、そして母娘の足下に傅くむく毛の犬が、こぞってこの豊かな平穏を演出する。ここに描き出されているのは人生の、否、人類の幸福の瞬間である。それがおそらくはこの絵の前に佇むとき、言葉にしがたい幸福感を覚える理由の一つだろう。

そもそも母と娘の関係というものは、母系社会にあっては言うまでもなく、父系社会であってさえも、文化の礎であるに違いない。安定した社会にあっては、安定した家庭がそうであるように、然るべき知識技術(漬け物の仕方から、機織りの技術、そして一族の歴史に至るまで)が母から娘へと確実に伝承されるのだろう。ドラクロワの時代、すなわちフランス革命後の近代の成熟期、ヨーロッパにおいては女性の自立がそれ以前に比べ数段階進歩したことは間違いない。この絵の中で娘が「編み物」ではなく「読み書き」を習っていることも、こうした時代の空気の反映かもしれない。しかし、こうした歴史文化的なエピソードもこの絵が体現する幸福感にいかなる曇りももたらさない。

それにしても、マリアの横顔の、何という明るさ! 深読みすれば、彼女は今、文字を学ぶことによって啓蒙(enlighten)され、知識の光によって照らし出されていると解釈することも可能だろう。だが、この絵の前にいるとき、あるいは後ろ髪を引かれながらもこの絵を離れ、しかしなおもこの絵の印象を抱え込んでいるとき、こんなつまらないことに思いを馳せる暇はない。マリアの明るい横顔に注意が行き、目は釘付けになる。ところが、ドラクロワの何という天才! どんなに目を凝らしてみても、また、周囲に係員はもとより、鑑賞者が自分の他には誰一人いない幸運をいいことに、画面のすぐ前に鼻もこすれんばかりに近寄ってみても、マリアの美しいに違いない横顔がはっきりと見えることは「絶対にない」。

つまり、この画面の美しさが凝縮しているはずの一点、美の極致であるはずの一点は、永遠に隠されている。それは画面全体から暗示され(「ほとんど明示されている」にもかかわらず)ているに過ぎない。残りの全てが鑑賞者の想像力に委ねられている……

いや、少し待て。
マリアの横顔が明るく照らされていること。それが画面のほぼ中心に位置し、つまりはこの絵の中心になっていることは事実としても、なぜ「この画面の美しさが凝縮しているはずの一点」とまで言い切れるのだろうか? それはもちろん、言うまでもなく、私の欲望の投影に他ならない。私はとっくの昔にこの母娘に好意を感じ、とりわけこの娘にすでに恋している。この欲望が娘の横顔をこの上なく美しく彩ったに違いない。恋した娘の姿を見つめていたい。できうることならば、その娘に見つめ返してもらいたい。こうした心理的メカニズムがこの絵を魅力的なものにしていると思われる。

最後に、いささか蛇足めいているが、この母娘の構図、いや、端的にマリアの姿の「異様さ」に注目したい。アンナは庭のベンチに腰を下ろしている。それは明らかだ。では、マリアは? マリアの頭部がアンナの頭部よりも高い位置にあることから、また、マリアのS字状のポーズゆえに彼女の腰が高い位置にあることからも示されるように、マリアはどう見ても中腰のように思われる。彼女はいったいどこに、どのようにして座っているのだろう? 絵画を見るとき、合理的に考えると不自然この上ないポーズが、画面上ではいかにも当然のように描かれていることが少なくない。それもまた絵画を見る愉しみに関連している。今さら言うまでもないことだが、「写実的」と言われる近代西洋絵画は決して自然を単純に模倣しているわけではない。自然さと不自然さの間で絶妙なバランスを追及することが画家たちに与えられた課題の一つであろう。マリアの、この奇妙な姿勢もこの絵画の不思議な魅力の一部を構成している。どっしりと腰を下ろすアンナとまるで中空に浮いているかのようなマリアの対照は、おそらくはそのまま成熟と若さの対比となっており、マリアの姿勢は若さの持つ軽やかさをその全身から発散する。ここには将来愛するひとり子を無残に失うことになる母親が持つ暗い影の一片もない。画面はただ幸せに輝いている。

そして、この絵がいつも上野にあると知っているだけで、少なくとも私は幸せになれる。 (H.H.)
 
posted by 冬の夢 at 21:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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