2012年10月12日

五百年前のオルガン レオン・ベルベンのウィリアム・バード

 さきごろ亡くなった元ディープ・パープルのジョン・ロードがいかにカッコいいオルガンを弾いたか、このブログでも追悼した(七月二二日)。
 ロックオルガン奏者にはすごい人がずらりといて、キース・エマーソンからグレッグ・オールマンまで、オルガン(ハモンド・オルガン)はさまざまなロックのジャンルで大活躍だ。ビートルズとローリング・ストーンズ両方に大貢献したビリー・プレストンもオルガンの名手だった。ただ最近のロックにはあまり使われていないような気もする。

 ハモンド・オルガンはもともとパイプオルガンの電子版として軽量適価をめざし、一九三〇年代にアメリカで開発された楽器だそうで、当初はなかなか「パイプオルガンの仲間」だとは認められなかった。そのかわり高価なオルガンが置けないような教会でよく使われるようになり、ゴスペルの伴奏楽器として広がったという。これは知らなかった! だからハモンド・オルガンはバッハを弾くよりも「ブルース」や「グルーブ」を聴かせる楽器であり続けてきたわけだ。クラシック音楽との融合といわれるプログレッシブ・ロックの代表奏者、キース・エマーソンやリック・ウェイクマンの演奏のカッコ良さも、実はそこだからね。まあキースの場合はオルガンに飛び乗ったりナイフを刺したりとか、リックは「イエス」でのあの「ひらひら衣装」がステキ、という面も大きかったかも知れないが。
 なお日本で名を知られているエレクトーンはヤマハの電子オルガンの商標。音を出す仕組みがハモンドオルガンとは違う別の楽器だ。さらにハモンド・オルガンの開発者、ローレンス・ハモンドだが、この人はなんと最初期の3D映画の発明者でもあったという。彼の方式による劇場版3D映画の公開は一九二二年、大正時代のことだ。
 ロックからジャズに耳をうつせば、ジミー・スミスという、ほとんどジャズオルガン不可侵条約みたいなベストオブザベストの巨人がいて、この人の「ザ・キャット」という曲でオルガンジャズは決まり、らしい。わたしはこの曲、ジャズのジャの字も知らない子どものとき初めてラジオで聞いたが、いかにも、いけないお姉さんがホットパンツ(!)で踊ってしまっていますみたいな感じの曲です。
 ちなみに現役奏者ではジョーイ・デフランセスコがすごい。バップもコンテンポラリーも自在、ラッパも吹いてしまう才人だが、足で弾くベースラインの攻撃度といい、同じく足で調整するボリュームの揺れ(エクスプレッション・ペダルとはつけもつけたりハモンド・オルガン)でかもしだす「いけないお姉さんが」感といい、バッチリの男である。本人には悪いが、不健康そうな体格もいい!
 これで前説を終えると、オルガンファンから「忘れてる」とかならず突っ込まれるので、ニール・ラーセンも忘れず(じつは一押しで)リストアップしておこう。フュージョン寄りのバンドサウンドがお好きなら彼のソロアルバム「ジャングル・フィーヴァー」(七八年)と「ハイ・ギア」(七九年)。唄いりのAOR路線がお好きなら、相棒のギタリスト、バジー・フェイトンと組んだラーセン・フェイトン・バンドの同名盤(八〇年)と二枚目の「フル・ムーン」(八二年)、これでOK! ニールは泥くささの薄いあっさりした弾き方だが、ピアノと違って音符が伸びるオルガンの特性を生かした、フレーズ一句一句に漂う哀愁は彼ならではのもの、たまらない。
 ついでにアルバム「ラーセン・フェイトン・バンド」のジャケットはあのノーマン・シーフの撮影だ。
 https://www.normanseeff.com/
 といわれて知らない人でもノーマンのサイトを見ると、出てくる出てくる、あのジャケこのジャケそんなジャケに使われた有名写真の数々。このサイトで「あの写真を撮ったときの没コマ」が見られるとは知らなかった。ロック少年時代にジャケット写真だけでイメージをふくらませていたミュージシャンたちの「直前直後」の素顔バレも素晴らしく、さらに楽しい。なんの仕立ても作り込みもない、意外にせまい場所に平凡なバックをセットしただけ(どれも同じくらいの空間の感じなのでノーマンの自宅かスタジオで撮ったのでは)で演奏場面でもないのに、さして大きくもないレコジャケの「写真から音が鳴っている」ように撮れた人なんだ、と再認識。

 以上が前説。
 本題は、最近は本家のパイプオルガンを聴いている、という話。
 手持ちの盤にクラシックの割合がもともと薄く、オルガンとなるとバッハのなにか一枚、くらいしか持っていなかった。日本の音楽ホールにはしばしば威容というべきパイプオルガンが備わっているが、それが実際に鳴るのを見たこともたぶん一度もない。
 おそらく「大仰なのでは」あるいは「宗教専用なのでは」と思い込んで敬遠してきたのだろう。いやキース・エマーソンやリック・ウェイクマンだってじゅうぶん大仰なのだが……ま、さきに不良娘とデキてしまい、いまさら堅気の親御さんに会うのは面映い、という感じだろうか。
 それがここ十年、いや何年くらいだろう、ヨーロッパ諸都市でカトリック教会堂に行き当たると(パリやフィレンツエ、ローマなどでは行き当たらないほうが難しい)、ふと「オルガン、練習してないかな……」と、そうっとのぞきこんでみる、という癖がつき、それが小さな楽しみのひとつにもなっていた。
 街角の小さな堂の扉が開いていて、近隣の信者だろうか、日本の神社で近くの氏子さんが通りがかりに一礼していく姿にも似て、誰もいない薄暗い教会堂でときおり人が聖水盤を前に十字を切っていく。そんな場所でオルガン(「電子オルガン」に替えている場合もありうるが)が弾かれている。おそらく練習だろう。入口近くの端に坐ってしばらく聴いている。
 信者で埋まった席で賛美歌を歌いたい、というのではない。癒しや非日常の時間を求めるのとも違う。
 都会の一隅に、あれだけ広く高く暗い「部屋」があり、風の音楽が満たしている。あの感じが好きなのだと思う。
 低音から高音まで一人で素晴らしく域の広い音を出しているのに、肩肘はった表現に聴こえない。誰が弾いているかも関係ない。それがいいのかもしれない。
 そんなふうに、ロックやジャズのオルガンが好きなわたしが「本家」を聴くのはヨーロッパ諸都市へ行ったとき、それも鑑賞ではなくて、ということだった。

 かくして幾歳月、さきごろほとんど初めて、それと意識してオルガン曲の盤を買ってみた。
「WILLIAM BYRD / CLARIFICA ME / LEON BERBEN」(RAM0704)
「ウィリアム・バードの鍵盤音楽を、古いオルガンで」という企画で二〇〇七年の盤。演奏は一九七〇年オランダ生まれのレオン・ベルベン。古楽鍵盤奏者として、楽団演奏のみならずヨーロッパ各地の教会堂で歴史的オルガンを弾くことにも熱心な人らしい。

or_01.jpg


 弾かれているのは16世紀半ばくらいの製作とされる、オランダの教会堂にあるヨーロッパでも最古級のオルガン。小さな鍵盤一列きりのオルガンで、ジャケット写真ではストップらしきものは分かるがどこがどう「オルガン」なのか分からない。もっともインナースリーブの写真で見る楽器全体の眺めは「建築は凍った音楽である」という(そうゲーテがいったのはずっと後だが)、まさにそんな姿をしている。
 盤を回すなりびっくり。「あの空間感」が聴こえる! おお!
 バードという昔の作曲家(ちょうど弾かれたオルガンと同時代くらいで四百年前の人)の、飾りっけのない音楽もいいのかもしれないが(わたしはグレン・グルードがピアノでこの作曲家の曲を弾いている盤が好きだ)、なにより、どえらい昔のオルガンの、だからといって「素朴」とはまたちがう複雑な曇りや翳りが教会堂に広がっていく感じがいい。自宅のあたりまえなオーディオでこうなんだからきっと、と友だちの所へ持っていきバング・アンド・オルフセンで回してみたら、さらに「クエッ」となった。ただしフツウのスピーカーでも充分。神はあまねく在り。
 嬉しくなり、おこづかいをチェックしてバッハのオルガン曲の某全集、十枚組を購入(すぐ全部イッキに聴こうとするのがいつもながらバカ)。しかし、こちらはあくまで「曲」と「演奏」を聴くための盤で(だから悪い盤ではないのだが)、その音はあの空間感をまったくかもし出さなかった。
 聞くところでは、教会堂でパイプオルガンを録音する場合、もっとも問題になるのはバックグラウンドノイズだという。立派なパイプオルガンを備えた堂は都市部に多いに違いないから、もともと録音スタジオのように遮音されていない以上、あらゆるノイズが入り込む。で、現代ではパイプオルガンの録音はなるべく静かな所のオルガンで夜間に行われているそうなのだが、本当だろうか。
 教会堂が人で満席の場合と、誰もいない場合ではとうぜんアンビエントが違う。満席状態で鳴らすのが本来の教会オルガンの用途だから、夜にオルガンが響いている空の堂−−つまり、わたしのもっとも好きな状態だけれど−−で録音する場合、あくまで主人公である演奏家とオルガンための環境作りであって、「夜にオルガンが響く人けのない教会堂」を一個の楽器を見出したかのように録音することは、されないのだろう(録音エンジニアに確認したことはなく正確にはわからない)。
 さて、これからどうするか。
 もともと、オルガン曲や演奏家のCDを集めようということではないし、大巨匠バッハの全集が手に入る機会ともなった。いつかまたひとりでヨーロッパの街を訪ね、教会をのぞいてみるがいいのかもしれない。

 ところで「オルガン」といわれて、わたしたちがまず想像するのは小学校の教室にあった足踏みオルガンではなかろうか。パフパフと足でペダルを踏んで弾き、音楽の時間には「起立〜礼〜着席」の和音が鳴らされた。壺井栄の「二十四の瞳」で「男先生」が必死で練習し、さすがに「ドレミ」まではおぼえきれず、明治時代の「ヒヒヒフミミミ」で生徒の失笑をかうあれだ。
 学校教育全編で音楽の時間は楽しくなかったし、オルガンの音に郷愁を感じることもないけれど、響きはまったく違うが小学校のオルガンにどこか似ていなくもない、くぐもった感じの五百年前の教会堂オルガンとそのアンビエントに感動したということは、記憶のどこかで何かと何かが結びついたのかもしれない。音楽を聴くということは、そういうことだとも思う。(ケ)
posted by 冬の夢 at 13:47 | Comment(1) | TrackBack(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ずいぶん前パリに住み始めた頃、ふらっと入った教会で聞いたパイプオルガンの音が忘れられません。それまで聞いたどんな音楽とも似ていなかった。今でも時々CDで聞きますが、あの薄暗くて石の匂いのする少し湿ったような広い空間で聞くのとはやっぱり違うように思います。高橋たか子に「教会の中のバッハ」というエッセイがあり、そこには教会で毎晩のようにバッハを聴いていた話が書かれています。子供の頃に聞いたオルガンとどこか響き合うということもあるのかもしれない。音楽を聴くということは、そういう時間を経験し共有することでもあるんですよね。
Posted by cou at 2012年10月16日 00:47
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