2012年07月29日

映画『流れる』──さようなら山田五十鈴【改】

 山田五十鈴が亡くなる数日前、その主演映画で、成瀬巳喜男監督の一九五六年公開作、『流れる』を偶然見ていた。三度目か四度目だ。

 公開前年に出版された、幸田文の同名小説が原作で、寂れゆく東京・柳橋の芸者置屋を舞台に、女たちの人間模様を描いた映画である。
 幸田は、エッセイの書き手としての自分に「断筆」宣言し、芸者置屋の女中として住み込み働きをした。その体験をもとに書き、小説家として再評価を得たのが「流れる」だ。

 成瀬巳喜男は、絢爛たる当時のスター女優たちをずらりと配し、そのほとんどが芸者とはなんの縁もないのに、まったく自然に演じさせて、昨日今日と続く花街の日常を、まさに流れるがごとき一編とした。
 映画の最初と最後に同じ隅田川の眺めが映し出されるが、江戸情緒などすっかり消えた無骨で退屈な川の流れに、乱れ、もつれ、またつながらざるをえない、女たちの心の綾が浮かぶ。
 人情という美しい言葉の、わびしさ、はかなさ。そう知っていてなお人情にすがろうとする気持ちが、昭和戦後の隅田川の、どこか息苦しい眺めに漂う。

 隅田川がそんな見えかたをしていた昭和三〇年代初め。ストーリーは撮影と同じころの話で、舞台は東京六花街のうちの柳橋だ。
 だとすれば、戦後復興から高度成長へ向かう時代だから、花街の繁栄もいよいよ盛んになるころではないかと思うのだが、もともと芸を重んじて江戸っ子びいき、政治家をおもな客筋とした柳橋は、芸より売り上げ第一の若い芸者たちを赤坂などへ失い、同時に、新興企業家などの太い客も奪われていったのだという。待合政治への批判から、運ぶ足を控えた政治筋の客も減り、寂れの道を歩んでいた、そんな柳橋が舞台なのである。

 世代も背負うものもそれぞれ違う女たちが、ときに傷つけ合い、ときに寄りそって、零落の日々を過ごす。
 山田五十鈴が演じる置屋の主も、借金苦から、貸主の仕切りで人品卑しい新興事業主の援助話を持ち込まれたり、おそらくは政治家であろう、かつての旦那に頼ろうとし縁を切られるなどする。
 人気芸者だったころの華がいまもある置屋の主の、経済的苦境につけ込むかように男を世話する貸主が母違いの姉だという、設定のえぐさもいいが、それを演じる賀原夏子のゴウツクババアぶりは絶品だ。
 朝日新聞(七月十六日付)の山田五十鈴の追悼記事は、この映画をあげて「普段の生活では化粧しない芸者がお座敷に出る時は別人のように美しくなる」と賞賛しているが、じつは山田五十鈴が売れっ子時代のように粧う場面は、ふだん着からお座敷姿への華麗な変身ではなく、借財整理の相談や、愛人契約の話、もとの旦那を待つ──結局は現れなかった──などのための、捨て身の勝負の装いだ。日本髪にしていないのは、その経済的余裕もないわけで、負けが予想される敗者復活戦に臨む、散り際の美しさなのだ。
 それでも気合をいれて装った姿に漂う、芸者を表現するには似つかわしくないかもしれない「気品」は、いわば晩春の耀きなのである。山田五十鈴は、このとき三十九歳。その姿は、この映画の重要な伏線だ。

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 それにしても、その山田五十鈴をはじめ、お茶をひいてばかりの古株芸者に杉村春子、おきゃんな現代っ娘芸者に岡田茉莉子、いちどは芸者に出たがやめて屈折している、山田の娘役に高峰秀子、ひと癖ある料亭の大女将にはサイレント時代からの大御所、栗島すみ子、そして原作者の立場を演じる住み込みのお手伝いに田中絹代と、目眩がしそうな豪華配役である。
 ちなみに高峰は、山田と七つ違いでしかない。高峰も上手いが、山田が上手いから、花街の母と、花街を嫌悪する娘の関係が、みごとに浮き上がる。
 こんな顔ぶれで、オールスターものの大味にならない繊細な映画を作った成瀬巳喜男は、まさに名匠の面目躍如である。こんなに四番バッターばかり並べたら勝てない巨人になるぞと、いつも意地悪な目で見始めるが、どの女優にもめったにバットを大振りさせず、息を合わせた単打と走塁で点を重ねる。畳み掛けるような試合ぶりで、目が離せない。
 モノクロのほうがディテールが微細に映るのかと、感心しながら見ているところへ、こまやかに演じ上げた芝居からもうひと押し、リアリティの輝きが現われる。そもそも、ほぼ全編にわたり、小体な二階屋で女たちだけで話が進む。座敷での宴席の場面はなく、客としての男の姿はないのだ。
 成瀬がさらに上手いのは、住み込みのお手伝い、原作では置屋という仕組みに、かなり辛辣な視線を向け続ける内部通報者のようなところもある役を、過去を背負って、せんかたなくこの世界に流れついた女が、いつしか芸者に共感をもってとけ込んでいくという設定にしたところだ。演じる田中絹代も、いうまでもないが上手い……。

 圧巻は、同棲相手の歳下男に逃げられて荒れる杉村春子と、置屋の娘だが芸者嫌いで、いちいちイヤミを言ったりかみついたりする高峰秀子との、口げんかの場面。
 このシーンで、高峰を見るのでなくスクリーンのこちら側に視線を転じ、観客相手に感情をぶつけるかのように火を噴く、杉村春子がすごい。山田五十鈴の回想では、ここは成瀬の演出ではなく、杉村自身が作ったらしい。
 その山田だが、杉村とは対象的に全編で受けに回り、看板かけて芸を売るプライドと、男に惚れては裏切られる女の悲しみを、言葉や表情にくどく出さずに交錯させる。
 見て解釈し、説明するのは簡単だが、演じる側は、どうやってそう見せるのだろうか。山田五十鈴、名演中の名演だ。

 言い合いのはてに、花代をピンハネされたしないという口論になり、置屋を飛び出してしまう杉村。が、結局は行くあてもなく、テレくさげに戻ってくる。
 帰った杉村、迎える山田、この両者の芝居も、もちろんすばらしいが、杉村と山田が長火鉢をはさんで差し向かいになり、二人で三味線を弾くやや長いラストシーン──清元「隅田川」だ──には、ついに台詞はなく、音しかない。すばらしい場面だ。
 山田は実際に清元の名取だが、十一歳で名取になり芸者に三味線を教えていたという。その余裕のバチさばきもさることながら、まるで昨日もそうしていたかのように淡々とつけていく杉村!
 そして、置屋から外の世界へは出ていけないが、置屋という空間で自立はしたいとミシンの内職を始めた高峰が、ことさらに立てる音、それがかぶってくる。夫も子も亡くし派遣婦としてこの置屋に住み込むことになった田中絹代が、画面の外から静かに見守る気配……。

 景気に乗り遅れまいとする男たちの、善人面した抜け駆けの算盤勘定にいたぶられ、裏切られ、しかも自分たちが敗れて消える宿命の女たち。しかし、それゆえにかえって色濃くあらわれる豊かな情緒。
 人情とは、嘘の芸で享楽を売り──杉村の古参芸者のセリフ『ちょっとばかり三味線間違えたって、誰も気づきゃしない!』──アカの他人を「おかあさん」と呼ぶ、虚構の世界にたまった澱でしかなく、隅田川に流され、はかなく消える。
 下町情緒が失われ、いまの東京には風情がないというが、東京生まれでも育ちでもないから、そういう実感はない。
 映画『流れる』を見るときも、懐古にひたって見ることはない。どこか遠い視線で、スクリーンのあちこちをうかがうように見ている。
 だからなのか、切っても切れない縁というものに、ことさらに強くひかれていく気がする。それが不快だから、むしろ「風情のなさ」が魅力で、どの土地よりも長く東京に、地縁も血縁もなく住んでいるというのに。(ケ)

 やまだ・いすず 一九一七年二月五日─二〇一二年七月九日


※二〇一九年五月六日、全面的に手直ししました。管理用
posted by 冬の夢 at 13:30 | Comment(3) | TrackBack(0) | 映画 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
昨日、神保町シネマの杉村春子特集で本編を見ました。シネマベーラ渋谷で千葉泰樹監督の(東京の恋人)を観たばかりであったせいか川を巡る二本の傑作映画に廻り合えた!
Posted by Pine at 2016年04月23日 10:22
「東京の恋人」は未見です。面白そうですね。清水宏の「母のおもかげ」(一九五九年)はいかがでしょうか。互いに子連れの男女の再婚と、新しいお母さんも好きなんだけれど、本当の母親のことを忘れたくない男の子の気持ちを描いています。男の子の父親は根上淳で、隅田川水上バスの操舵手という設定です。
Posted by (ケ) at 2016年04月26日 22:52
川喜田記念映画館でやっと見ました。物凄い顔ぶれの女優たちの演技については、ここで紹介されている通りだなと圧倒されました。それにしても栗島すみ子。味方なのか敵なのか、善人なのか悪玉なのか。どっちに転ぶかわからないようなキワをどっちにも転ばずにすすすすすーっと演じてしまう大物ぶり。まるで政治家の黒幕を見るようでした(もちろん会ったことないですが)。
Posted by (き) at 2021年10月01日 17:44
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