2012年07月17日

「コクリコ坂から」(挿入歌について)−−そりゃ、ないだろ?

「コクリコ坂から」というアニメは「旧いものを残そうとすることと、死者の記憶を留めようとすることは、本質的に同じ願いだ」という主張が印象的に示されている点において、そして、いかにも「高校生らしい」淡い恋情と男女の同志的絆が淡彩に描かれている点において、上手に作られていると先の記事に書いたばかりだが、歌のことをすっかり書き忘れていた。

ジブリ作品では多くの場合テーマソングや挿入歌が絶妙に使われている。私の好きな歌を数えるだけでも片手では足りない。例えば、「魔女の宅急便」でユーミンの「ルージュの伝言」が流れるシーン。最高にカッコいい。「千と千尋」のエンディングも、あの歌だけでも思わず泣きそうになる。泣きそうと言うなら、「おもひでぽろぽろ」の、都はるみが歌う日本語版 The Rose も仰け反らずにはいられなかった。そして、「コクリコ坂」の挿入歌も非常にレベルが高いと思う。手嶌葵の特徴的歌唱に対する好き嫌いは別にしても、彼女の歌唱力には文句のつけようがない。テーマソングは、ちょっと聞くと「ラピュタ」のテーマソング「君をのせて」にも似ている「さよならの夏」(元々は森山良子が30年も前に歌ったもの)。「なんで、こんな、いかにも昭和歌謡なの?」とも思うが、

   光る海にかすむ船は
   さよならの汽笛のこします
   ゆるい坂を下りてゆけば
   夏色の風にあえるかしら

これほどぴったりの歌詞であれば、この選曲にも文句はつけられないかもしれない。(もっとも、私としては先にも主張したとおり、The Village Green Preservation Societyが最もふさわしいテーマソングだと堅く信じているけれど。)しかし、この歌の圧巻はむしろ以下の言葉だ。

   昨日の愛 それは涙
   やがて乾き消えるの
   明日の愛 それはルフラン
   終わりのない言葉

悲しげな、いかにも昭和歌謡的なメロディーが邪魔をするが、この歌がテーマソングとなった理由はおそらくここにあるのだろうと思う。「コクリコ坂」では、愛も夢も希望も、そして何よりも人生が、全て「明日」に、昨日でもなく現在でさえもなく、未来に託されているのだから。主人公の二人はまだ将来のことは何もわからないし、決めてもいない。だが、明確な姿も形もプランもない未来が彼らをたじろがせることは決してない。

作中であたかも校歌のように歌われる「紺色のうねりが」は、このような主張をいっそうあからさまに示している。宮沢賢治オタクの私は、聴いた瞬間に「賢治の詩だ」と思ったが、DVDのケースにも「原案:宮沢賢治」とあり、手元の詩集でも確かめてみた。宮沢賢治が自分の教え子たちに向けて残した言葉の数々がこの挿入歌の元になっているのだが、私が心底驚愕したのは、歌の中で何度も繰り返される

   紺色のうねりがのみつくす日が来ても
   水平線に君は没するなかれ

という言葉だ。この歌自体は、もしもこの歌が本当にどこかの高校の校歌であれば、みんな喜んでこの歌を歌うだろうと信じられる、かなり上出来な歌だと思う。(ジブリがもっと大金を儲け、学校でも設立し、自分の学校の校歌にすればいい。そしたら、私もボランティアで語学なり何なりを教えたいと思うが、きっとジブリの方が断るだろうな……)しかし、「紺色のうねりがのみつくす」と聞けば、2011年3月11日を経験した人間なら誰もが瞬時にあの津波を思い出さずにはいられないのではないか。勘違いされると困るが、不吉で不幸なことを思い出させるから良くないというつもりは毛頭ない。そうではなく、あらためて言いたかったことは、やはりこのアニメには「死」が色濃く刻印されていたのだと再認識したということ。

メルの家は、思い返せば、父の遺影だらけだった。そしてメルは毎朝その遺影に花と水を捧げている。母の両親に結婚を反対され、駆け落ちし、朝鮮戦争で亡くなった父。母の実家に引き取られるようにして育つ中、亡父に向かって毎日揚げる旗。それは、結婚に反対した祖母でなくても、見るのが辛いような儀式であったに違いない(少なくともそうした側面は読み取れるだろう)。また、取り壊されるカルチェラタン=青雲寮=学生会館も、メルたちが掃除をして修繕するるまでは、半ば死んだような状態であったと理解できる。

そして、亡き父の幻の代わりに恋人が現れ、取り壊されるはずだったオンボロ学生会館は息を吹きかえす。紺色のうねりがのみつくす日がきても、水平線に没することはない。

このように理解すれば、このアニメは3.11に対するジブリの鎮魂歌に思えてくる。少なくとも私は、「紺色のうねり」を冷静に聞くことは決してできない。繰り返すが、決して非難しているのではない。ただ、賢治の言葉では単に

   新しい風のやうに爽やかな星雲のやうに
   透明に愉快な明日は来る
   諸君よ紺いろした北上山地のある稜は
   速かにその形を変じやう
   野原の草は俄かに丈を倍加しやう
   あらたな樹木や花の群落が


   諸君よ 紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
   諸君はその中に没することを欲するか
   じつに諸君は此の地平線に於ける
   あらゆる形の山嶽でなければならぬ

等々とあり、これらの言葉を読む限りは、あの津波を想起させるものは何もない。賢治の言葉「紺色の地平線が膨らみ高まるときに」は、むしろ時代の思潮や風潮であり、そうした時代の流行に没するなと言っているのに対し、「紺色のうねりがのみつくす日」は、歌い手の爽やかな歌唱と校歌にふさわしい歌詞にもかかわらず、どうしても津波を連想させる。

「コクリコ坂」と津波。私としてはこの連想に対して、「そりゃ、ないだろ?」と呟くしかない…… (H. H.)
posted by 冬の夢 at 02:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 映画音楽・ソウルなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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