2012年06月13日

まもなくマイ・フーリッシュ・ハート −(1)

 河出書房新社「ビル・エヴァンス」(二〇一二年五月刊)が目にとまった。
 買ってみたら、すでに持っている二〇〇一年に出た同タイトルの増補版で、内容はほとんど同じだった。
 歳をとると月日が早いというが、確かに二冊の「ビル・エヴァンス」を目の前にして十年という時間が実感できない自分がいた。
 いや、本当は同じものを二回買わされて腹が立ったといいたいのだが、版元に文句をいって、十年も前の版の再刊ですと若い社員にいい返されたらぐうの音も出ないなとあきらめた−−そういう話だ。
 くやしいから、ビル・エヴァンズを聴いてみた。
 何度聴いたかわからないほど聴いた「マイ・フーリッシュ・ハート」に、やっぱりしびれた。
 初めて聴いてから何年たっても、いつ何どき聴いても、楽器の音の動きにウワっとなる曲といったら、ほかにはレッド・ツェッペリンの「ザ・ソング・リメインズ・ザ・セイム」と、イエスの「ラウンドアバウト」くらいしか思いつけないが、この二つはあらかじめ作り込まれた曲だから(もちろんライブ演奏の版もムチャくちゃカッコいいけれど)、リハーサルもせず即興のかけひきをぶっつけ本番で録音した「マイ・フーリッシュ・ハート」がいかに奇跡的に素晴らしいかは、ここで語るまでもないだろう。
 いまも営業を続けるニューヨークのジャズクラブ、ヴィレッジヴァンガードで五十一年前の六月末、ビル・エヴァンズの演奏歴で最高のトリオが歴史的ライブを繰り広げた。ありがたいことにそれは録音され、その年のうちに二枚のレコードになった。「マイ・フーリッシュ・ハート」はその一枚、「ワルツ・フォー・デビー」のA面一曲目だ。
 ジャズ喫茶で何度となくかけられくたびれたアナログLPのリードインがプチプチいった後、この美しいバラードで「奇跡の日曜日」の輝きがしみじみ始まるあの感覚−−CDプレーヤーさえ消えつつあって音楽が回る円盤のイメージでなくなったいま、もう追体験はできないが、わたしには昭和の記憶ではなく、さっきのこと、として思い出せる。  
 たしかドラムのポール・モティアンの回想だったと思うが、そこで偶然起きていることに当の三人がいちばんエキサイトしていたというのだから、ビル・エヴァンズ、スコット・ラファロ、そしてモティアンの三者がバンドを組んだことは、いかに奇跡的な出会いだったことか。その一方でエヴァンズとラファロ(シチリア系とはいままで知らなかった)が、音楽以外の些細なことでよく口論になったというのもおかしい。
 このトリオでエヴァンズがなにをして、ラファロがどう弾き、モティアンがどうだったから、その演奏が「奇跡」なのか、それは十分に分析されていると思うし、知りたければ冒頭のムックで、評論家でなく演奏者が寄稿している文章を読めばいい。あとは、かりに現代の楽器上手を三人集めて、後年の分析どおりに演奏させても「奇跡」は起きないことを諒解した上で、エヴァンズたちの演奏を聴くことに戻ればいいと思う。
 さて。
 奇跡は続かない。
 よく知られているように、トリオが結成されて二年に満たないヴィレッジ・ヴァンガードでのライブの十日後、ラファロは自分が運転するクルマをオーバーランさせ木に追突、亡くなってしまう。
 エヴァンスはかなりの間ピアノが弾けなくなるほど悲しんだ。
 そこから二十年、最後まで薬物依存から抜けられず、ついに演奏不可能となってステージを去り入院先で亡くなったエヴァンズの後半生を、別れたパートナーや兄が自殺してしまうという悲劇の後を追った緩慢な自殺だったという有名な論がある。しかし、わたしにはそれが当たっているとはまったく思えない。
 エヴァンズは、いちど恩寵に触れた者に奇跡は二度起きないと知りながら、それでもなお、その瞬間を待ち続ける信仰者の生涯を生きたに違いない。それほどまでに「奇跡」は素晴らしかったのだ。だから以後トリオで演奏する場合は、あまりレパートリーを大きく変えず、テーマ部の仕立ては過去に完成させたものとほぼ同じスタイルを踏襲、というパターンを繰り返し、ベース奏者とドラマーを欠けたパズルのピースがごとく、はめてははずしていったのではなかったか。
 そして最初のトリオに訪れた恩寵が再びわずかに見えたのは、奇しくも最後にマーク・ジョンソンをベース奏者としたとき(「ラスト・トリオ」といわれる)だったと思う。エヴァンズ自身はすでに鍵盤を違えず弾くことが困難なほど体調を損なっていたが(ジョンソンはエヴァンズに演奏活動を中止し治療してくれるようたびたび懇願したという)、それでも止めることなくピアノに向い、レパートリーを繰り返したからだ。
 一九八〇年八月末から九月中旬にかけ、ビル・エバンズは「ラスト・トリオ」の最後のライブを、サンフランシスコのジャズクラブ、キーストン・コーナーで行った(この店はいまはないはずだ)。この演奏も録音されていて、十年後に日本のレコード会社が発売した(現在はこれまたボックスセットになっている)。
 偶然にも初日の第一セット三曲目にあの「マイ・フーリッシュ・ハート」が演奏されているが、このCDをわたしはまだ、聴いていない。(ケ)
posted by 冬の夢 at 16:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 ジャズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く:ペンネーム可・アドレスは表示されません
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック