2021年07月24日

「ポレポレ」と「透視図」──外出自粛で、英語が不得意な高年者が意味のない趣味の受験勉強をし、大学入試・二大英文読解参考書を比較する

『英文読解の透視図』そして『ポレポレ英文読解プロセス50』、この2冊は、難関大学合格をめざして英文和訳問題にとりくむ受験生たちにとって、不朽の名著だそうです。山とある受験英語参考書で最難度の、二大金字塔だとか。

『透視図』は河合塾講師の共同執筆、『ポレポレ』は代々木ゼミナール講師の単著で、初版が出ています。現在はわかりませんが、当時知らぬ人はなかった有名予備校の授業が、背景にあるのでしょう。
 前者の初版は1993年、わたしが持っている2017年版が34刷です。後者は1994年の初版で同じく2018年版74刷と、いずれも信じられない重版数です。いかに不朽≠ゥがわかります。増刷時に多少の手直しはあったにしても、20年前の参考書が現在も通用していることには、やや驚きますが。

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 大学受験はなんと40年以上前だったわたしが、なぜいまさら、この2冊に挑戦したか。
 できるだけ簡単に理由をいいます。

 外出をひたすら控え、ひきこもり同然ですから、部屋でボケッとばかりしていないで、毎日こつこつやることを見つけたくなったのです。
 昔から英語が不得意で、大学入試はもちろん──英語の成績が悪いことが一因で受験浪人しました──学校の授業でも、仕事でも、休暇の海外旅行でさえも、ひどく苦労しました。
 だから、わずかでも英語力がついたらと考えたのです。引きこもりなので英会話はあきらめて、せめて読む力を。
 そうすれば、邦訳が出なくなった英米のアクション小説シリーズの「つづき」が読めるかも、と……。

 どうせやるなら最高レベルの参考書だ! と、ひとり決めして調べますと、この2冊がトップランクに並び立っていることがわかりました。手も足も出なければ、あっさり撤退することにして、ものは試しと、開いてみることに。

 英語で困ったできごとや、英会話教材などに挫折した話を書けば、もっと楽しく読んでもらえると思いますが、書くと自分がゆううつになってきます。
 とにかく最難度だという参考書をやってみて、わたしの受験英語力が、どれくらいか説明し、それを前提に2つの参考書を実感的に比較してみます。

       

 2020年春から夏にかけて『透視図』をやり、この6月から1か月ほどで『ポレポレ』をやりました。
 2冊全体をひとつの英文和訳問題と仮定すると、わたしの総合得点は30点から40点だと思います。
 各例題で、設問だけでなく全訳をやりましたが、完全に「マル」なのは、全例題の2〜3割くらい、ほぼOKだが枝葉の訳文が微妙な「おまけでマル」の答案を足しても、半分できたかどうかです。
 どの問題文も辞書なしでおおむね読め、7〜8割くらい意味は分かるのです。おおよそ合っている。しかし、かんじんの設問つまり下線部訳を間違えてしまうことが多く、それではちゃんと読めていることにならず点が取れませんよね。また、せっかく意味はとれているのに、うまく日本語訳が書けなかった例題や、設問には答えられていても、全体を正反対の意味にとってしまって大間違いした例題、あるいは、なんのことかさっぱりわからない例題もありました。

 やっている過程では、なにも成果を感じませんでした。
『ポレポレ』を半分やったあたりから、読める度合いや正解度が上がったかなぁ、くらいです。
 そんなレベルの学力で、やる意味があるかどうかわかりませんが、ふたつの参考書を、いちおう比べてみましょう。
 
難易度

 同じです。同じ文が載っていたりしました。
 どちらも実際の出題問題か、その引用部が使われています。
 例題の難易度が、いまの東大や京大、慶應、早稲田や上智といった大学の入試レベルと同等かどうかはわかりませんが、最難度の参考書だからといって、難関大学の過去問ばかりが載っているわけではありません。
 ただし、文の内容は比較的やさしくても読解は難しい、という英文が例題に選ばれていると思います。

分量

『透視図』 24+1題、本文部分233ページ。
『ポレポレ』50題、本文部分126ページ。

 問題数とページ数の関係がおかしく感じられますよね。
『透視図』では、『ポレポレ』の「例題」にあたるメイン問題が24題の「Challenge問題」であり、「Challenge問題」の後に短いテーマ問題が2題か1題ついているためです。テーマ問題をさきにやり、その項を理解してから「Challenge問題」にとりかかる構成だからです。
『ポレポレ』は、ほぼ見開き2ページにひとつの「例題」を解く構成です。その点では、あっさりした作りといえます。

内容

 上記の「分量」とも関係しますが、『透視図』の解説は詳細です。日本語の「地の文」が長いのです。
 各問に「STEP UP」というコラムもあり、重要文法や成句が説明してあります。問題文ごとに語句の日本語注もつき、ヒントになり、確認もできます。
 それらは『ポレポレ』にはありません。また『ポレポレ』は、問題がさほど長文でなく、解説も「語り」というより「図示」に近い文体になっています。
 そこが、両者の最大の違いです。
 もうすこし説明しますと、勉強の方法論──英文を構造に即して分解し理解する読解法──はじつは同じですが、『透視図』は、日本語の説明で理解し、主語・動詞・目的語や句の判別は自分で認識、必要に応じ本に書き込むことになります。『ポレポレ』は、解説文にS、V、Oなどの指摘や、カッコで構成をくくり出す指示が、場合に応じ赤字も使って表示してあります。それが解説の軸になってもいます。
 一文ずつ構造を確認し訳に落とし込む流れは、両者とも似ていますが、『透視図』は、英文の構造を日本語の論理で詳解し、日本語で英文の仕組みを分からせようとしています。『ポレポレ』は、日本語のロジックで理解する学習を無視してはいませんが、より英文そのものに即し、とにかく主語と動詞に印をつけよ、句はカッコでくくり出せと、視覚的につかむ読み取り手順の速さを、大切にしていると思います。

親しみやすさ

『ポレポレ』は、プレゼンテーションふうといえそうです。ボードに例文を掲示し、マーカーで書き込みつつ、説明をことばで足していく感じです。
『透視図』は、解説が長いといいましたが、書き言葉はさほど固くなく、およそ講義調です。直感的というより、かんで含めるような説明です。いっぽうで、話しことばをすべて文に起こしたような、ややくどい感じもあります。

 どちらが「自学」に親しいかというと、好みでしょう。
 わたしの説明を読むと『ポレポレ』と思うかもしれませんが、やっていて「こんなことはわかってて当然」と置いていかれるときが、何度かありました。そう感じているとき、著者が思い入れているらしいアフリカの動物の自描画が挿絵として目にとまるのは、正直「うっとうしい」だけで……。
 その点『透視図』の、取りこぼしのないていねいさは、徹底しています。しかしその解説は、けっこう読みづらいようにも感じました。趣味で受験英語をやっていていいわたしは、その文体につき合う余裕があるけれど、受験生にそこまで時間があるかどうかです。

どちらがおすすめか

 もし受験生のかたが期待して読んでおられたら、お役に立てず申しわけないですが、かんたんには決められません。
 いまの大学入試の英語問題は知りませんし、はじめに書いたとおり、わたしのいまの受験英語力では、この2冊に試験問題が引用されている、どの大学の入試にも落ちてしまうでしょう。責任をもって両者の効能を語ることはできません。

 また注意願いたいのは、仮定法、比較、強調構文など、受験英語の基本要素はわかっておかないと、どちらの参考書も歯が立たないと思います。わたしは受験知識としてはどれも忘れきっていましたんで、2冊とも波に乗れるまでに時間がかかりました。
 逆に、難関大学の入試にチャレンジすることは決めていて、2冊のどちらかを使うことが予定ずみの受験生なら、わたしにとっての過不足として書いた点は、すでにもっている知識や辞書の助けでじゅうぶん補え、学力強化につなげられるのでは、とも思います。

       ♪

『透視図』をやっても進歩した気がせず、『ポレポレ』の後半で、ちょっと効果があったように書きました。
 明らかに『透視図』は、わたしには重厚長大すぎ、歳でボケてきたせいで学習が蓄積しなかったのでしょう。
 しかし『ポレポレ』が有効だったかというと、じつはさきにやった『透視図』の潜在効果のおかげかもしれないのです。

 こじつけるなら、『透視図』で、英文構造の「腑分け」を地道に「日本語で考え」たあとで、『ポレポレ』で、英文に赤字の書き入れをつけるような読み進めを自習したのが、よかったのかもしれません。
 ただし、英語の新聞記事や輸入盤CDの解説が、以前より正確に速く読めるようになったかというと、あまり変わりません。

 それにしても、読むのがややこしい、わかりにくい省略や入れ子構造が目立つ文が、両書の例題に多いと感じました。
 大学入試の英文解釈問題の特徴なのでしょうか、そうでもないのでしょうか。
 いずれにせよ、設題のワナにかからずワナを無害化する技術が、英文読解の必勝法かと思いました。いまだって英語は不得手なのに、基礎学力を復習せず難しい参考書をやったわたしは、しばしばワナにつかまりましたので。
 いっぽう、内容がやや難しく長い文なのに、苦労せずうまく訳せた例題もあります。これはたいてい、歳をとったぶんよく知っていることが問題文の主題で、かつ論理の組み立てが明瞭な英文なので、英文のしくみは完全に理解できなくても「引っかからず意味がわかった」ということでした。あたりまえのことですし、それでは受験力にはなりませんが。

       

 二つの参考書に問題が載っている大学のひとつに、わたしは通いました。
 いまはもちろん、受験当時のわたしの英語力では、合格は難しい学校でした。
 大学受験英語でいうと、とくに英作文がだめで、長文和訳がつぎにダメ、文法問題も勘違い間違いをよくしました。現在のようにリスニングがあったりすると、もっとダメだったでしょう。それじゃ受験なんかできないじゃないか。
 よく合格できたね、という話ですが、受験浪人して通った予備校で『ポレポレ』型の英文解釈法を習い──『透視図』のほうの予備校でしたが──問題外だった英語の成績が門前払いをくわない程度になったことと、幸運のせいです。
 以後の長い年月で、英語リベンジを多少なりとすればよかったのですが、怠りつづけ、「英語ができない」というコンプレックスをぬぐえないまま、人生が終わりそうです。

 なぜいまさら英語などといいだしたのか。はじめにも書きましたが、英語の娯楽小説を読んだり、日本盤が出ていない洋画のDVDを、セリフは聞きとれなくとも英語字幕(キャプション)を見ながら鑑賞できれば、と思うようになったのです。
 理由は、はっきりしています。
 日本語で、いまの世の中とつきあうのが、心の底からいやになったのです。
 政治のことばにも、世間のできごとを伝えることばにも、芸術や思想をめぐることばにも、うんざりしました。身近に聞こえる日常会話にさえも。
 日本語はもう、聞きたくも読みたくも、なくなったのです。

 そんなことをいって、お前は英語なんかできやしないし、だらだら日本語を書いているじゃないかって?
 たしかにそうですが、わたしが近ごろ書いていることは、日本語の文章の店じまいのつもりです。
 間もなくそれがすんだら、英語でなくていいから──といっても、口にできる唯一の外国語は、けっきょく英語なのですよね──日本語でないことばの世界へ、ぴょ〜んと身軽に飛びうつりたい。
 それができないのが、くやしいような、悲しいような。(ケ)


■二〇二二年一月十日、わずかに直しました。
posted by 冬の夢 at 01:37 | Comment(1) | 日記 話題・意見・世相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2021年07月19日

大阪府知事、馬脚を丸出し

 今日7月18日は兵庫県知事選挙だった。そして、自民党と維新の会が推薦する候補が圧勝したらしい。対抗する候補者は不人気極まりない現知事の下で副知事を務めてきた当の人物だから、今回の結果は火を見るよりも明らかだった。分裂選挙になってしまった自民党はともかくとして、大阪に続いて兵庫も植民地化することにまんまと成功した維新の会としては喜色満面といったところだろう。
 
 それが理由かどうか、大阪府知事(吉村某という)が何ともエゲツナイ、まともな言語感覚と常識さえ身につけていれば決してそんな物言いはしない(できない)はずの発言を自らのtwitterに上げたらしい。ネットのニュースからその部分だけを切り取ると、

大阪府・吉村洋文知事(46)が18日、自身のツイッターを更新。全国高校野球選手権鳥取大会で優勝候補と目された米子松蔭が、学校関係者の新型コロナウイルス感染で出場辞退したことについて「鳥取の権力者の皆さん、なんとかしてあげてください」と訴えた(ネット上のスポニチの記事)。

ネットの記事はもう少し続くが、中段を省略して、その後はというと、

 吉村知事は、[米子松蔭の]西村主将の投稿に反応し「これで終わり、はあまりに酷すぎる。対策は見つけられるはずだ。この高校生の想いを大人が潰しちゃいけない。これで終わり、なら将来に夢なんて持てないよ。鳥取の権力者の皆さん、なんとかしてあげてください」とツイッターで呼び掛けた。

 おそらく、世の中の大半の人々は、維新の会を支持するしないにかかわらず、この大阪府知事を嫌悪するしないにかかわらず、球児たちを救いたいという大阪府知事の呼びかけに対しては、野球部に関係のないところでの感染者発生が理由で出場辞退に追い込まれたことを知れば、どちらかと言えば同情を寄せるのだろう。そして、この発言を「エゲツナイ」とか「非常識かつ不謹慎この上ない」とか「一読しただけで吐気さえもよおした」という愚生の方こそ「かなり変な奴」とか「維新憎さのあまりに頭が沸騰した奴」ということにされてしまうのかもしれない。

 しかし、明確に断言できるのだが、自分自身が「府知事」という立場にいる人間が「権力者の皆さん、なんとかしてあげてください」と公言してしまうのは正にガリヴァー的不条理だ。こんな時代錯誤な妄言を許してしまう現在の風潮も恐ろしいことこの上ないが、ともかく、こんな失言、暴言、妄言を堂々と口にできる権力者というのも、「恐ろしい」を通り越して、形容すべき言葉が本当に見つけられない。ただ、気持ち悪く、吐気がする。

 こうまで言っても、おそらく多くの人々はピンと来ないかもしれない。(そうでなかったら、こんな下品な知事はとっくに免職しているはずだから。)何がそんなに気持ち悪いのか、簡単に言えば、権力者が自分(たち)のことを自分で「権力者」と公言するところが先ず気持ち悪い。彼が具体的には誰のことを想定して「鳥取の権力者の皆さん」と呼びかけたのかは知らないが、その「権力者」の中には鳥取県知事も当然含まれていることだろう。ということは、大阪府知事も当然「権力者」だから、彼は自分のことを自分で「権力者」と自称したということだ。もちろん知事は権力者だ。しかし、もしも首相なり知事なりが(内心ではそう確信しているにしても)「私は権力者です」と自己紹介する姿を想像してみて欲しい。それがどれほど下品かつ傲慢に映ることか。

 しかし、もう一つ、今回の大阪府知事の発言をいっそう気色悪いものに感じさせる真の理由は、「知事なり県の野球連盟の会長のような『権力者』ならこの問題を解決できる、いや、この問題を解決できるのは我々のような『権力者』だけだ」と暗に宣言している点にある。物事の政治的決定に有効な働きかけができるのは、PTAによる嘆願でもなく、高校生のデモでもなく、まして世論の声でもなく、「権力者」の鶴の一声なんだそうだ。こうした考えには、「主権在民」とか「民主主義」とか「住民自治」なんてものはその影すら見えない。そして、きっと彼はそういう考えで大阪の日々の行政を司っているのだろう。

 権力者、はい、権力者様、恐れ入りました。これでは丸っきり隣国の独裁者たちの戯画だね。道理で吐気がするわけだ。(H.H.)

 


posted by 冬の夢 at 00:52 | Comment(0) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2021年07月09日

「好きな絵」のことはついに書けなかった──映画『THE FORGER』へのコメント

 このブログは、三人の筆者が自由に書いています。
 三者三様、さまざまな分野に興味があるわけですが、絵画が好きなのは共通しているようです。美術館に行っていることが、各人の文からもうかがえます。

 筆者のひとりであるわたしも、絵画も美術館も好きでした。十年前までは美術館やギャラリーへよく行きましたし、現代美術も熱心に追っていました。
 美術館や企画展を見る目的で、海外へ行ったこともあります。日本の招聘展では観覧者が多すぎるから、もともと作品を持っている美術館の常設展で見たいし、現代美術のインスタレーションやパフォーマンスは、展示の一回性ということもあります。外国へ旅行してでもという気持ちは、美術作品を見るのが好きな人には理解していただけるでしょう。

 しかしここ一年は、美術館に一度も行きませんでした。
 外出を控えているせいではありません。過去十年をふり返っても、美術館や画廊へ行ったのは年に二、三度ですし、画集を開くことも、めったにありませんでした。
 飽きたというより、もともと美術が、さほど好きではなかったのかもしれません。美術鑑賞が趣味ですと自慢したくて、好きなふりや知ったかぶりをしてきただけでは、と思うようになりました。

なぜ「好きな絵」の話ができなかったのだろう

 このブログへの参加を誘われたときから、好きな絵を一点ずつ選んでは書いていけたら、という気持ちはありました。
 が、十年近く続いたこのブログで、一枚の絵を題材に書いたことは一度あったかどうかです。書こうとしても書けませんでした。

 どう書けばいいかわからなかった、ということはあります。
 絵を見るとき、ことばで考えたことがないせいかもしれません。
 でも、それで書けないというのも、おかしな話です。その場でことばが出なくても、あとでじっくり考えたっていいだろうし、研究者でも批評家でもなく、自分が感じたことを忘れないように書くのですから、すでにある書きかたをまねすればいい。

 ともあれ、印象批評という書きかたがあります。感想文でいいわけです。画家のことを調べれば、話の端緒もつかめそうです。
 絵を描いたことがなくとも、技法や画材を調べて書いたっていい。プロ野球やサッカーリーグの戦術をテレビ観戦だけで議論するのと、似たようなものです。
 絵全体を説明しようとせず、ごく細部にこだわってもいいのです。表徴などというむずかしいことではなくて、なぞ解きのつもりで書けそうなものです。

 そこまでいえるなら書けばいいじゃないか、ということで、試したことはあります。
 やはり、書けませんでした。
 借りものの書きかたをすると、借りもののことばで書いてしまうのです。自分ならではの文章表現ができるなんて、思ってもいませんが、図鑑を書き写しているような気がして続きません。書きかたといい文言といい、切り貼りのようにしか書けないのは、どうしてなのだろう。
 それは、自分の絵の見かたがそもそも借りもの≠ナ、自分なりにすなおに絵を見たことがないからだ、と気づきました。
 一枚の絵を見るためには椅子がいる、といったのは坂崎乙郎※1ですが、そんなふうに絵に向かったことはありません。ほんとうに椅子を置かないまでも、絵の前に坐ったつもりで見ようとしたこともない。坂崎が存命のころから、著書や講義を通じて影響を受けていると思うのに、いま書いている文章の雰囲気が「似ている」程度にしか、継承したものがない気もします。

 東京や大阪のような都市では、視界が息苦しくありませんか。
 視線のさきに、いつも広告や情報がある。
 その隙間でせわしくうごめく人びとの表情は、怒っているか生気がないかのどちらかです。そういえば、広告も情報も「うごめいて」いますね、ディスプレイに表示されて。
 それらがいやなら、部屋に引きこもって壁を見るか、田舎で山や海でも見ていればいいのかもしれません。しかし、なにもない壁の前でものを考えたり、風景のうつろいを楽しんだりするような、心の余裕もないのです。かえって、いらいらしてしまいそうです。死ぬ瞬間まで高速紙芝居を見続ける、情報都市の住人であることに慣らされてしまったせいでしょうか。
 わたしは、広告や情報に目を泳がせ、人の表情から目をそらすのと同じように、絵画も見てきたんだ、と思うのです。

絵の中の時間を感じとるまなざし

 一枚の絵は、さまざまな時間を持っています。
 喧噪と空虚のあいだに失った時間も、絵の中にあるような気がします。

 あまりむずかしく考えず、一枚の絵を描くのに費やされた時間のことを、想像してみました。
 わかりやすいところで、人が描かれた絵はどうでしょうか。
 描かれるのを承知してモデルになり、描き手の求めた姿勢で静止していても、人という存在は刻々、変化しているわけです。ならば描き手のほうは、描こうとする人の何秒を、あるいは何分、何時間を、絵の上に表現したのか、と思います。
 モデルになった人の、人生そのものが描かれている、といわれることがあります。人生の残り時間を予告している、という表現も見たことがある。
 そうなのでしょうか。それとも、ひとりの人を何年かかって描こうと、描かれた人のほんの一瞬の時間が結晶しているのが絵である、ということなのか。

 同じことは、風景画にも、静物画にもいえます。
 セザンヌが生涯に何個のリンゴを描いたか知りませんが、セザンヌのリンゴは、ときに腐るまで観察されたそうです。
 また、セザンヌのリンゴの絵には、テーブルから落ちてしまいそうな不思議な描きかたの作品がありますよね。描法として、いまでは有名で、テーブル上のリンゴを見ているつもりで考えると、ひと目では見つくせない複数の視野が、一枚の絵に描かれているのです。リンゴの配置、そして画布と自分が描く位置、それらを決めて関係を変えず、ある時間を使って下絵そして着色と進めて、はい絵になりました、というものではないわけです。直線的な分秒の累積でない、さまざまな時間が、ただのリンゴの絵に輻輳するかのように存在している、ということなのです。
 絵を描くとは、さまざまな時間を描くことである、といってもいい。

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りんごとオレンジ 1899 Paul Cézanne *

 肖像画のモデルになった人や、セザンヌの描いたリンゴ──の場合は、リンゴが置かれたテーブルや布など、すべてが存在している空間、といったほうがいいかもしれませんが──について、さまざまな時間が絵に描かれている、と考えました。
 それは、さまざまな時間を、描く人が表現している、ということでもあります。すぐれた絵を描く人というのは、さまざまな時間を持っている人のことだ、ともいえるでしょう。
 肖像画に描かれた人の、人生の残り時間が表現されている、というような絵の解釈はセンチメンタルすぎて、どうも受け入れがたいです。しかし、描き手が自分の持っている時間を表現しようとしたら、そう見えた、ということかも。
 そうであるならば、描いた人の時間のことも想像したくなります。

 ゴッホが『日の出の春小麦の畑』という絵を描いています(一八八九年)。どこかで見たっけ、ぐらいの絵で、題を見て選びました。「日の出」という、短いけれど着実な時間と、「春」という、やや長くて抽象的な時間が描かれていることが、題でわかるからです。描いた人が実際に見た複数の時間のありさまと、もともと持っている多様な時間感覚とが、どのように響き合うか、探りやすい例になると思ったのです。
 
 しばらく見ていて、困ったことに気づきました。
 題で選んでは、いけなかったのでは。ゴッホは、自分で絵の題名をつけていないんじゃないですか? 正確には知りませんが、絵の裏に書いてあったりはしないですよね、ちなみにオランダ語の題に「春」はありません。

 見つづけるかどうか、いきづまっていたら、ふとこの絵もまた、セザンヌのリンゴのように見えることに気づきました。
 緑と黄が混ざった豊穣な視界を、乱暴に裁ち切る折れ線は、どう見ても壁でしょう。これって、畑を描いたんじゃなくて壁の絵≠カゃないかな、と思えてきました。まったく牧歌的でないコンクリートみたいな壁の。
 そこで、壁の絵だということにして見ながら、ときどき畑に目をやる見かたに変えてみると、そもそもここは、どうしてこんなに傾いているんだと心配になってきました。南フランスでも山のほうだろうか。だとしても、こんな急斜面に麦畑なんて。しかも、ひどく傾いているだけでなく、見ているこちら側へ倒れてきそうなんです。視界全体が壁になってしまったかのように息苦しい。風景画の構図のとりかたとしては「へたくそ」といってもいいような、画面構成だと思います。
 壁の外側には農家ふうの家があるから、壁のあちら側も畑だろうに、なぜか壁の内と外の感じが違うのも、おかしな雰囲気です。農家そのものも、なんだか恐怖映画にでも出てきそうな感じがする。

 手前に赤と白の花が描かれていることを忘れていました。
 それが美しいと思ったのも、この絵を選んだ理由だったんですけど。
 でも壁の絵≠セと決めて見ていると、花も、変な感じがしてくるのです。
 こんなに赤と白がくっきりした野の花を、南仏では見たことがありません。いや春の南仏は知らないから、そこまではいえない。でも同じ地中海域のイタリアでなら、春にこういう色や咲きかたをしている花を、畑や丘で見たことがあります。
 そんなことを思いながら、念のため、この絵を持っているオランダのクレラー・ミュラー美術館のサイトで絵の画像を見てみると、花の色が、さほど赤くない! 花の話は、実際に絵を見てからでないと、できなくなってしまいました。といっても、この絵を見るためだけにクレラー・ミュラーへなんて、たぶん死ぬまで行けない……。

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日の出の春小麦の畑 1889 Vincent Willem van Gogh

 そんなこと、どうでもいいじゃないかって?
 どうでもいいことかもしれませんね。
 ほんものの絵を見て花を描いた色を確かめなくちゃ、だとか、その花の実際の色や咲いているようすはどうか、なんてことは。

 手前の花が、おかしく感じられるのは、壁や畑の変な傾斜状態と同じように、その見えぐあいが奇妙だからです。だから、どういうふうに育つ花なのか確かめたかったのです。
 けっこう高い位置から見おろさないと、こうは見えないと思うのです。屋外にイーゼルを立てて描いた、バルビゾンの風景画家たちの視野ではありません。壁掛けのタペストリーに織り込んだような描きかたなのです。
 ひょっとしてゴッホは、実際の風景を描いていないのではないでしょうか。

 クレラー・ミュラー美術館の画像には解説がついています。読んでみると、これは実際にあった窓越しの光景だということがわかりました。
 ゴッホは、この絵を描いた一八八九年の春、それまでいたアルルから二〇キロほど離れた、サン=レミ=ド=プロヴァンスの療養所──もとは修道院──に入っています。
 病室とは別に、絵を描く部屋ももらい、体調がよければ外出して描くことも許されたそうで、この絵は一階にあった病室から見える景色だそうです。
 病室で描いたか、じかにこの風景は見えない制作室で描いたかは、はっきりしません。ゴッホ自身は、想像で描くことはできないと断言していましたが。
 ゴッホの病室だという部屋の写真を探して見てみると、窓は観音開きのいわゆるフランス窓で、部屋は比較的明るい。ただ、窓にはいまも鉄格子があるようです。ゴッホがいた当時はもっと窓が小さくて網も張ってあった、という説もあるようですが、いずれにしてもこの絵の描き手は、実際に窓外の風景を見ているときとは異なる時間の中にいて、絵筆をとっているわけです。
 ゴッホの病状はよくなってきていて、この療養所もすぐ退院するつもりだったようですが、発作がときどき起きるため、一年間いることになりました。ゴッホは三十六歳から三十七歳です。
 そして、ここを出て二か月後に、ゴッホは亡くなっています。

 サン=レミ=ド=プロヴァンスの療養所で、ゴッホは一五〇点近く、実際にはおそらくそれ以上の数の油絵を描きました。それと同数か、もっと多いと考えられる素描も描いています。
 二日に一枚ペースの油彩に、それ以上のデッサンやスケッチとは、常人にこなせる量とは思えません。でも、病状が落ちついているときしか描かなかったという事実と──だとしたら、もっとハイペースで描いたことになりますが──実際に対象を見なければ描けない、というゴッホのことばから、その作業は幻覚のなせるわざではないと思います。異常な心理にロマンチックな芸術性はないという医学的指摘を読んだことがありますが、それを検討しなくとも、この絵を含む多数の絵には、職人の一徹さが感じられるのです。あたかも、こつこつと時を刻んでいるかのような……。
 この想像を確かめるには、いまは調べられませんが、はじめにいったような素人スポーツ談義のレベルでいいから、画材と技法を知ると役に立ちそうです。当時の油絵は、結果はともかく画商に買い取られ販売されるのが基本だから、サン=レミ=ド=プロヴァンスで描かれた油彩が、一枚ずつ手順を踏んで仕上げられているか、それとも工芸的な面は無視して、ひたすら書きなぐったものか、です。

 かりに後者だったとしても、この絵の時間のことを、いかにも炎の画家≠轤オく「人生のわずかな残り時間を燃やし尽くさんばかりであった」とは、書きたくありません。
 しかし、ここからさきを、ことばにしようとすると、やっぱり「借りもの」になってしまう気がします。絵に関する知識や教養が足りなくて平凡な表現しかできないのか、それとも文章がヘタすぎるのか。
 それもあるでしょう。しかしそれより、絵画もまた、視界にあふれる広告などと同じように軽薄に見とばしてきた、その問題が大きいと思うんです。だから、絵を見て考え、ことばにすることができないのだと思います。一枚の絵を心から愛したことも、そうする気持ちもないのに、絵をただ「わかろう」として、いつも「わかったふり」で終わってきたのです。

 いまさら詮ないことですが、なぜそうなってしまったのか。
 わたしには、絵を見る目がないのです。
「なんでも鑑定団」みたいな意味ではありません。絵が何円するかという目ではない。
 絵を見ると、絵の表面と描き手の関係が理解でき、自分がその関係を見守る位置を的確に決められて、濁りのないまなざしを絵の奥深くにまで届かせることができる、そういう目のことです。
 その目は、同時に自分の時計の秒針も見ています。
 絵の中に、さまざまな時間の存在を発見するたびに、自分の時計を、それらの時間の進みぐあいに合わせられる。
 絵を、そんなふうに見ることができる目、なのです。 
 絵にもし「瞬間」を見い出したら、わたしの時計をその「瞬間」にぴたりと合わせて止め、絵の時間を感じとらなければなりません。そうとう手間どりそうです。
 また、気の遠くなるほど長い時間を絵から感じたなら、わたしの時計をそれに合わせて巻き戻したり、ゆっくり進めたりする、柔軟な受容性も必要です。
 だから、一枚の絵を見るためには椅子がいる、ということになるのです。
 わたしはそのような、絵を見るまなざしを持っていないんです。

一枚の絵を見つくす目を持つことを教わった映画

 この文の題にした映画の話は、どこへいってしまったのか。
 すみません、いまから話します。

 わたしが持ってもいないし、この歳で持てるようになるかどうかもあやしい、「絵を見るまなざし」について教えてくれた映画です。
 絵を愛し、絵の本質を澄んだ目で見ることができ、絵を家業≠ニして共有した、父子三代の話です。

 ことわっておきますが、娯楽映画です。クライムサスペンスというのかな。
 ズッコケてしまう邦題なので、この文の題には書きませんでしたが、こうです。
『THE FORGER 天才贋作画家 最後のミッション』
 ダメっぽいでしょう。欧米評論家の評価も、あまり高くありませんでした。
 しかし、わたしは傑作だと思っています。
 この映画に絵を見ることを教わった、と断言できます。
 二〇一六年に見たとき、このブログで紹介しようと思ったのですが、絵のことが書けなかったのと同じように、書くことができませんでした。ところが最近、三度目に見て、こんな映画にこれほど感心していいのだろうかと、またしても思いました。なので、まとまらない文でもいいから書いておこうと。娯楽映画なので筋はわかりやすいです。

 天才的な名画贋作者、レイ・カッターは、不運にも捕まり五年の刑に服していました。あとわずかで刑期満了です。
 ところがレイは、贋作仕事を仕切った男に、大きな借財を作ってまで裏工作を頼み、仮釈放を得ます。
 じつは、逮捕されて刑務所送りになったのは、贋作犯罪をレイひとりにおっかぶせようとした、その男の陰謀です。その男は今回の仮釈で貸しを作ったレイに、美術館で招聘展が行われる印象派の名作を、贋作とすり替えて盗み出せというのです。盗品コレクターでもあり暴力組織の黒幕でもあるらしい南米の富豪が欲しがっているので。無理強いし、むちゃな短期間でやらせるつもりです。
 レイが刑務所をすこしでも早く出て家に帰りたがったのは、十五歳のひとり息子ウィルと、一日でも長く過ごしたかったからでした。ウィルは、脳の病気で余命が限られているのです。
 長く会っていなかったムショ帰りの父と、息子との関係は、はじめはうまくいきません。
 しかし自分の短命を知っているウィルは、どんな難題でも三つの願いを聞くといったレイが、ひとつずつ約束を果たしてくれるうちに、レイに近づいていきます。
 父親が、贋作描きと強奪を強いられていて、それが自分に会うためと知ったウィルは、自分も盗みに加わりたいというのを三つ目の願いにします。もちろんレイは認めませんが、もの別れのあと、ウィルは発作で倒れます。
 やむをえず息子を加わらせたレイ。すると、レイの帰宅を喜んでいなかった息子の祖父、つまりレイの父が、助勢をかってでます──この場面の会話が、しみじみといい!──レイの父親は、引退しているが名うての詐欺師でした。さらに裏社会の情報通のレイの弟も加わり、偽造と強奪という「稼業」は、一枚の名作絵画をめぐる「家業」となるのです。

 話のゆくえと、美術偽造や窃盗を家業≠ニして共有した三世代の男たちが、盗む名画にいかなる真実≠もたらすかは、本編を見てのお楽しみとして──無理にはすすめませんけど──わたしが、絵を見る目の意味をわかったように感じた、たいせつな場面のことを話します。

 偽造し、美術館にある真作とすり替えようとしている絵は、モネの『散歩、日傘をさす女』(一八七五年)です。モネの最初の妻と長男が描かれています。
 場面は、レイが息子のウィルを一党に加え、贋作を描く前に絵をウィルに説明するところです。
 あ、その前の場面を忘れてはいけませんでした。ウィルが、発作で担ぎ込まれた病室で、父のレイに「お願い(ぼくも泥棒の仲間にして)」とだけ、二度、頼む場面です。
 祖父も病室にいますが、モネの絵とまったく同じように、三人は逆光に包まれているのです。このシーンに続いて、逆光に浮かぶ母子が美しい絵を、贋作者の父とその息子が画集で見ている場面になります。字幕は訳を略しがちなので、セリフの訳はわたしがしました。

 So this is Claude Monet.
 He is an Impressionist.
 The word came from the name of one of his paintings.
 Called the impression sunrise.
 He's not trying to be exact like a photograph.
 a picture
 He is trying to..
 He is trying to paint the feeling.

 レイ:
  で、これがクロード・モネってわけだ。
  印象派のひとりだよ。
  印象派ということばは、モネの絵の題名からきたんだ。
 『印象・日の出』っていう絵さ。
  モネは、写真のように正確にしようとしているんじゃない。
  これは絵なんだ。
  モネが、なにをしようとしているかというとな…
  自分の感覚を描こうとしているんだ。

 Like Paul Gauguin?

 ウィル:
  ポール・ゴーギャンのように、ってこと?

 Yeah.
 Like Gauguin.
 Yeah.
 It's a sunny day.
 It's spring time.
 Camille is looking at Monet.
 And Jean...

 レイ:(驚いたように息子を見て微笑みながら)
  そうだ。
  ゴーギャンのようにだ。
  そうなんだよ。
  天気がいい日だよな。
  春だ。
  カミーユはモネを見ているだろ。
  そしてジャンは…

 Wait.
 Who are they?

 ウイル;
  待って。
  誰なの、この人たち?

 Camille is Monet's wife.
 And Jean,
 is his eight year old son.

 レイ:
  カミーユはモネの妻だ。
  そしてジャンは、
  モネの8歳になる息子さ。

 So, it's going to be hard to fake?

 ウィル:
  でさ、贋作を作るのは難しいの?

 No, you don't fake this.
 I mean..
 You can't copy it.
 You have to..
 You have to get inside it.
 You know.
 It's hard to explain.
 But if I could..
 If I could..
 Feel what he was feeling...
 You know, maybe..
 Maybe I could do it.

 レイ:
  いや、ニセものを作ろうってんじゃ、ダメなんだ。
  つまりだな…
  この絵をただ複製するんじゃいけない。
  どうしなくちゃいけないかというと…
  この絵の中に入り込まなくちゃならん。
  わかるかい。
  説明しづらいんだが。
  でも、もしおれがやれたら…
  おれに…
  モネが感じていたことを感じとれたら…
  な、たぶん…
  たぶん、やれると思うんだ。

 It's beautiful.

 ウィル:
  美しい絵だね。

 It is.

 レイ:
  ああ、美しいな。


210708MN.JPG 
散歩 日傘をさす女 1885 Claude Monet *

 美しいのは、絵ばかりではありません。
 ことば少なに、絵の中に「入り込」んでいく、父子のまなざしが美しいのです。絵を見るときの目の表情をリハーサルしたのでしょうか。それとも俳優たちの「地」だろうか。

 そうだ、配役を紹介するのも、すっかり忘れていました。
 父親のレイ役はジョン・トラヴォルタです。映画ファンは、ややカルトな俳優だと思うかもしれませんが、直球の芝居がうまい人だと、わたしは思っています。
 息子のウィルはタイ・シェリダンで、『X-MEN』でご存じでしょう。この映画は、その人気シリーズ以前の制作で、シェリダンの実年齢は十八歳、命が限られた病のせいもあり折れそうに繊細な少年を、とてもナチュラルに演じています。ベッドからトラヴォルタに視線を投げかけるさまが、そのままムンクの『病める子』──ムンクの絵は女の子ですけど──であることに驚きます。
 そしてレイの父つまりウィルの祖父は、乱暴で下品な冗談好きの老人ですが、ひとたび詐欺師に戻ると学究肌の美術鑑定家になりきる、したたか者です。そんなキャラクターを完璧に演じているのは、クリストファー・プラマーです。
 びっくりしませんか? 「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」のトラップさんですよ! 長い芸歴はダテじゃありません。演出か自前の芝居かわかりませんが、盗み出したほんもののモネの絵を扱うときの、一瞬のしぐさがいい! 三世代全員が絵を愛する気持ちが、そのわずかな動きに凝縮しています。

 出演者を紹介していて、気づきました。
 この場面を見ていて、絵を見ることを教わったように思ったのは、レイ・カッターの世代にあたるわたしが、いつしか息子のウィルの位置からレイを見るようになっていて、レイの「絵をみるまなざし」を知ろうという気持ちになったからでしょう。
 レイ、つまり描いているときのジョン・トラヴォルタの目を、ウィルといっしょに見守ったからだと──父の画業≠敬愛とともに見つめるウィルも映ります──思います。

絵を見ることになぜ勇気と忍耐力が必要なのか

 娯楽映画ですから展開が速く、レイが贋作を描く場面はカットが割られるし、どのカットも長くありません。
 それでも、美術館でモネのタッチを注視した観察眼と、画布の脇に置いた画集とに頼って描く、レイのまなざしには胸を衝(つ)かれます。
 そのまなざしとは。
 It's hard to explain.
 レイと同じことをいいたくなりますが、説明してみましょう。

 レイは贋作描きで、下請けの犯罪者にすぎません。
 しかし、その目には高貴といってもいい情熱と冷静とがあり、絵の細部を鋭くチェックするいっぽう、全体をのびやかに見渡します。
 そんな表現では医者の診察眼のようですが──そんな目をもつ医師がいるかどうかはともかく──実際、作業は科学的に遺漏なく進みます。ほんものと同じ時代に描かれた、市場価値のない絵を探し出して、絵を剥がして画布を手に入れたり、当時の成分を持つ画材を調合で作ったり。描き上げた贋作を熱してエイジングするシーンもあります。クライムサスペンス、ですからね。※2
 ただ、実際に贋作を描く場面では、作業するレイを背後から撮ったアングルもさることながら、お手本として立てた画集と画布の間から見えるレイの表情が繰り返し映されるのが、印象的です。この映画が、レイの「絵を見るまなざし」をとても重んじていることがわかりますし、その目に輝く情熱と力強さは、あまりにもすばらしい。このような目が自分には欠けているんだと、思い知らされる気持ちです。
 レイが、収監されていた五年近くの間ひとときも絵のことを忘れなかった、と話す場面があります。絵を見ることも描くことも、心から愛しているのです。

 Hey, dad.
 What you did today...
 It's pretty crazy.

 ウィル:
  ねえ父さん。
  きょう父さんがした作業って…
  めちゃすごいね。

 Thanks.
 Yeah, you know.
 I could dunk my whole life.

 レイ:
  ありがとな。
  な、わかるだろ。
  おれは一生、絵に漬かってたいくらいなんだ。

 Should have.
 Why don't you?

 ウィル:
  できるよ。
  そうすれば?

 Let's get through all this.
 Tomorrow we start fresh.

 レイ:(しばらく黙ったあとで)
  この仕事をやっつけよう。
  明日またピンシャンして再開だぞ。

 Alright. 

 ウィル:
  わかった、おやすみなさい。


 レイは、なぜ画家にならなかったのか、それとも、なれなかったのか。
 ひと仕事終えた夜、息子に問われたレイは、黙して語りません。
 熱心な模写が贋作としてカネになったとき、裏社会にからみ、抜けられなくなったのか。
 早々に別れたきりの妻も、薬物中毒から立ち直れないままです。死ぬ前に顔を知らないママに会ってみたいというウィルの、「第一の願い」をかなえようとしたレイが、長年ゆくえ知れずだった妻を探し出すと、彼女は薄汚れた姿でトレーラーハウスに巣くっていました。
 そして、ひとり息子のウィルは、レイを残して先立とうとしている。
 モネの名作が地元のボストン美術館に招聘展示されるので、この犯罪が計画され、レイが動員されたのですが、美しい街として知られるボストンには、全米でも悪の度合いがひどいといわれる暗黒街も、美術展と一生縁がない人びとが生息するうらぶれた地域もある。それが露骨にではないが、気をつけていれば、ひと目でわかるように映ります。

『散歩 日傘をさす女』には、画家の妻とひとり息子が描かれて──モネは子どもが多いけれど、この絵を描いたときは、長男のジャンひとりです──います。
 これほどの青空からの逆光なら、ふたりとも、こちらに見えている側はかなり暗いはずですが、ふたりの顔をよく知るモネは、描くときに光量を調節し、妻子の表情がわかるように描いています。
 ならばとその表情を、できる限り近づいて観察すると、ほとんどなすったかのように、一瞬の筆づかいで描いている感じです。確とした顔つきは描いていません。カミーユなど、背景の雲と一体になるかのように流れるヴェールの描きかた同様に、顔も描いたようだし、口もとの絵の具が流れてしまっているようにさえ見えます。
 しかし鑑賞距離まで下がってみると、カミーユがモネを見る表情は、はっきりわかるのです。しかも、それでいてひとつの表情には固定されていない。そういう印象≠ェ、明瞭に現れてきます。微笑んでいるようでもあれば、心配そうにも見えます。あるいは同じポーズをとらされて「しんどい」のか。カミーユは結婚する以前、十九歳のときからモネのモデルをしていたけれど。
 手をポケットにつっこんで立っているように見えるジャンは、やっぱりポーズをがまんしているのかもしれません。はにかんでいるようで、どこか微笑ましい。それもまた、カミーユの顔と同じ描きかたのおかげです。
 背景の雲の、やわらかな動きとともに、絵の中で時間がうごいています。
 カミーユのドレスや日傘、そしてジャンの帽子やネッカチーフも見ました。ちょっとおしゃれをして散歩に出かけた母子の、おだやかで幸福そうな時間がうかがえます。

 記憶がないから、お母さんに会っておきたい、といったウィルが、レイのクローゼットから写真を見つける場面があります。
 麻薬中毒のアバズレで、警察に目をつけられ続けている現在の母親が、赤ん坊のウィルを抱いたキュートなママに写っています。ウィルはその写真をじっと見る。
 父親のレイは、ほんものの『散歩 日傘をさす女』を、モネになりかわって描きたいと思ったのです。そうすることで、ウィルが幼かったころの、自分の家族の時間を感じたい。そういう、贋作づくりにはむしろじゃまな感情が、専門家さえもだまされる高度な贋作を作り込む作業に職人的に没頭しているはずの、レイのまなざしにあふれ出てきています。
 いっぽう、じつは『散歩 日傘をさす女』を描いた当時のモネは、経済的にひどく追いつめられていました。妻子は病気がちで、カミーユはこの後、外出時には坐っていることしかできなくなります。絵の四年後に彼女は病気で亡くなり、ジャンは成長しますが彼もまた、モネよりさきに亡くなってしまうのです。
 贋作用の画布を得るための、百年以上前のガラクタ絵をひと目見ただけで、研究者や学芸員も知らないような無名画家の名と来歴をいえるレイです。モネの絵の、そうしたいきさつを知らないはずはありません。彼が絵を見るまなざし≠ノは、たいへんな勇気と忍耐力がある。ただモネの気持ちになって絵を見るのではなく、絵の中に入り込むことで、自分自身の過去と未来を、いかにつらくとも同時に見なくてはならない。いや、むしろそういうことが起きる絵だからこそ、絵の中にある時間に、自分の持つ時計を合わせることができる。画家がその絵を描いた筆の運びに、自分の手の動きが合っていく、ということなのです。

 贋作者レイ・カッターを演じるジョン・トラヴォルタは、実の祖父が画家だったそうです。お父さんはセールスマンだったようですが、絵の心得もあったといい、六人のきょうだいにも──ジョンは末っ子──描く人がいるとのこと。本人はエドワード・ホッパーが好きで、水彩をしたことがあるといいます。まさに家系に絵があったのですね。
 いまの映画撮影なら、主演俳優にそういうバックグラウンドがあれば、たちまち撮影にかかるでしょう。しかしトラヴォルタは、偽作づくりを強いられた贋作者が、なにを感じて描くのか、心から知りたいといい、まず香港に行って油彩を学びます。まさか偽作屋にではないと思いますが。アメリカに戻っても習い、撮影中も指導を受け、ホテルの部屋でも練習したとのことです。
 よけいなことかもしれませんが、撮影の五年ほど前、トラヴォルタは十六歳の長男を亡くしています。映画での演技にすぎない贋作者の視線に、これほどうたれたのは、たんにトラヴォルタの練習の成果だけではないのかもしれません。

 かくして、父子三世代のミッション≠ヘ、みごとな連係プレーで遂行されますが、映画はハッピーエンドではありません。
 ウィルが遠からず亡くなることは、変えられないのですから。
 絵に対する敬意と憧れに支えられて三代で支えた家業≠ヘ、ウィルの死で終わるのです。そう決まっている。詐欺師の祖父、贋作者の父親、仕込屋の叔父ときて、ウィルが亡くなることで、彼らの家業≠焉A彼らが絵を見る目の透明さにつきまとっていた嘘も、終わります。
 そう、レイは息子にも、いくつか嘘をつこうとした。息子のために、ですが。
 たとえば、トレーラーハウスでクスリと飲酒にはまったきりの元妻を、ニューヨーク住まいの明朗で小ぎれいな女性に仕立て、ウィルとの再会ランチタイムを作ります。
 しかし、ウィルはたちまちその嘘を見抜くのです。母親と別れたあとでレイに「(ぼくの期待を無にしないように)嘘をついてくれてありがとう」と。
 このことに限らずウィルには、嘘やいいわけ、筋のとおらないごまかしは、通用しません。
 そんなウィルは、お祖父ちゃんと買いものついでに話していて、お祖父ちゃんと父さんは、ハグしたり、ことばをかけ合ったりしないのが不思議だ、それで気持ちが通じるの? と訊ねます。
 お祖父ちゃんのクリストファー・プラマーは、「わしは、お前のバアちゃんにだって、そんなことをしたことはないぞ」といいつつ、こう答えるのです。
 
 Because words don't mean a shit in this world, Will.
 It's what a person does feel that counts.

  それはな、ことばってのは、クソの役にも立たんからだ、ウィル。
  ほんとうに感じたことにこそ、意味があるんだぞ。

 映画の前のほうに出てくる、なにげないやりとりですが、わたしには、ここが伏線として効いたがために、絵を見るまなざし≠ノ、われながら困るほど感動したのかもしれない。
 さして感じるところがない絵なのに、価値がある絵だというから解説できなくちゃならない、というみえっぱりから「ことば」を作ろうとしたって、できるわけがありません。
 幸福か不幸かをとわず、わたしにとっての真実と、その記憶につながる絵を見い出して、絵の表面からそこへ入っていってはじめて、わたしの「ことば」が見つかるかもしれない、ということなのでしょう。
 そういう絵に出会うまで、いまさら数知れぬ絵を見続けること。
 もし出会ったとして、その絵に入り込める、汚れていない目を持っていること。
 いずれにせよ、まずは絵の前に椅子を置かなければなりません。

 いまさら、わたしにできるとは、とうてい思えないことばかりです。
 ここ何年かの間に絵画をさっぱり見なくなってしまったのは、こうしたことに気づいていたからなのだろうと、思っています。
 とはいえ、これまでムダに多くの絵を見たことは、惜しく感じます。ケチな凡人だから。
(ケ)

210708FG.JPG 
THE FORGER 2014
日本盤の公式トレイラーは→こちら


※1 美術評論家 一九二八〜一九八五 『絵とは何か』(一九七六)など。
※2 その程度の方法では高度な贋作など作れない、というつっこみは「あり」ですが、この映画での贋作は、「ミッション」を巧みにつなぐダミーでもあることは、映画を見るとわかります。

※  絵画のサンプル画像は、パブリック・ドメイン表記があるものにしてありますが、各所蔵館のコレクション画像とは色調が違います。興味がある場合は、見てください。

 りんごとオレンジ:オルセー美術館(パリ)
 日の出の春小麦の畑:クレラー・ミュラー美術館(エーデ、オランダ)
 散歩 日傘をさす女:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.)

posted by 冬の夢 at 13:14 | Comment(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする