2021年05月24日

浅草芸者さんの写真(スライドショー)が、浅草見番の公式チャンネルにあります

 東京は、ご存じのとおりの状況です。
 飲食業や娯楽業が深刻な不振に陥らざるをえない現在、そもそも近年は細る一方だった、花街の灯を粋に守ってきた芸者さんたちにとっても、ますます厳しい事態がつづいています。
 芸者さんの本業である「お座敷」の激減もさることながら、以前は季節おりおりに、一般のかたにも親しみやすく行われた、さまざまなイベントも開催を見合わせています。

 縁あって以前、花街のごく末端で、お手伝いをする機会がありました。
 そのなかで、浅草芸者さんが例年催す、お楽しみ会を撮影していましたので、スライドショーに編集しました。

 このような事態になる前、2018年と2019年に浅草見番で開催された、一般のお客さまも観覧できる会のようすが、浅草見番の YouTube 公式チャンネルで配信中です。ご覧ください。
 会の説明は動画の解説に付されていますから、ここでは略します。コメントが記入できるかたは、ぜひ応援のひとことを書きこんであげてください。
 

スライドショー■三社祭 2018-2019 くみ踊り / Sanja-festival & Geisha

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 ─この画像↑クリックで YouTube 動画再生ページへ─


スライドショー■浅草見番ビア座敷 2018-19 / Beer & Geisha

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 ─この画像↑クリックで YouTube 動画再生ページへ─


 浅草見番とは、浅草花街の地域復興や芸妓の育成をとりしきる東京浅草組合が、芸者・幇間の派遣取りつぎなどを行う実務窓口のこと。浅草寺の北、台東区浅草三丁目にあります(下の写真が浅草見番の構えです)。

 浅草見番の YouTube 公式チャンネルは→ここをクリック←。
 2020年はオンライン公演になった、「浅草おどり」の動画も配信しています。(ケ)


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 浅草見番 写真はクリックですこし拡大
 写真(c)東京浅草組合


 
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2021年05月18日

国立劇場五月文楽公演『心中宵庚申』 〜 「去る」にこめられた辛さ

 今月の文楽公演第一部は『心中宵庚申』(しんじゅうよいごうしん)(※1)。享保七年(1722年)に竹本座で初演された近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、近松最後の世話物だと言う。『冥途の飛脚』や『国性爺合戦』でヒットを飛ばした近松は本作を書いた二年後、享保九年に七十二年の生涯を閉じている。当時としては長命だった近松は実際にあった最新の心中事件を題材にした。齢を重ねても時事ネタへのアンテナを常にはり続けていたのだろう。その好奇心を創作に結実させることが出来たのだから、近松はずば抜けた胆力の持ち主だったに違いない。

 結婚に二度失敗しているお千代は八百屋の養子半兵衛の元に嫁ぎ懐妊したものの実家に帰ってくる。夫の留守中に姑から離縁を強要されたのだ。そこへ旅先から帰路途中の半兵衛が訪ねてくる。お千代が実家にいることに驚く半兵衛だったが、病身の老父は二人が二度と実家に帰らずに済むようにと門火を焚いて送り出す。
 八百屋の家に戻った半兵衛はお千代を匿っていたことを姑に知られてしまう。姑は半兵衛にとっては育ての親、その義理があるのに姑が嫁を追い出したと悪評をたてられていた。悩んだ末に半兵衛は衆目の前で自らお千代に離縁を言い渡す。姑への義理を果たしたうえでお千代と家を出る決意だったのだ。半兵衛とお千代はあの世で添い遂げようと大仏再建勧進所の前で心中するのだった。

 お千代が駕籠に乗せられて実家に帰って来る「上田村の段」。お千代が来たことを知った姉は、老父の病気見舞いのためにお千代が嫁ぎ先からわざわざ駆けつけてくれたのだと思い込む。

「エヽ父様はお患いか。アヽ知らなんだ知らなんだ。いつからの事でござんする」
「何ぢゃ、お患い知らぬか。そんならそなた何しに来た。エヽ何悲しうて泣くぞ」
「恥づかしや、また去られて」


 ここで「去られて」という台詞が初めて出てくるのだが、『心中宵庚申』のキーワードはこの「去る」なのだ。最初から最後まで「去る」「去られる」という言葉が繰り返される。恥ずかしながら私は浅学ゆえに「去る」という言葉に「離縁する」の意味があることを知らなかった。なので、「上田村」で最初にお千代が語る「去られて」は、「夫に逃げられて」と言っているのだと勘違いして見ていた。しかしそうではなく、お千代は「嫁ぎ先からまたもや離縁されてしまった」と告白しているのだった。しかも夫の半兵衛から離縁を言い渡されたのではない。半兵衛の養母である姑によって無理矢理駕籠に乗せられて、強制的に実家に戻されたのだ。
 姑が気に入らない嫁を息子の了解もなく勝手に追い出してしまうとは、なんと極悪非道な老婆であろうか。「八百屋の段」になって登場する姑の首(かしら)もいかにも底意地の悪い表情に作られている。そんな姑であっても、半兵衛の立場になってみれば、養子として育ててもらった恩義を重んじて我慢するのが当たり前だった世の中。姑を見切ってしまえば事は簡単なのだが、武士の身分ながら養子入りして育ててもらった十数年が半兵衛に重くのしかかる。姑が嫁を嫌っていることを正として受け止めなければならず、姑の世間体を優先せねばならない。

「御恩の母の気に入らぬ女房なれば私が離別致してこそ孝行も立ち世間も立つ。所にこの度国元の留守の間に八百屋半兵衛が母が嫁を憎んで姑去りにしたと沙汰あつては、万々千代めが悪いになされませ、(中略)少しの間と思し召し虫を殺し、美しう千代めをお入れなされ。その上にて私がものの見事に去り状書いて暇やります」

 と、ひたすら姑の立場を守るために、半兵衛はとりあえずお千代を家に戻してもらってから、自分がお千代を離縁したことにしようと提案する。まあなんと忠義心が厚くてご立派と言うか、毒親による教育で逆らうことさえ考えつかないモルモットにされてしまった哀しさと言うか、お千代のことを思うと全く共感出来ない展開となる。
 そう、『心中宵庚申』のお千代はいつもどこでも「離縁するかしないか」の対象でしかない。お千代自身の意思は全くどこにも反映されないままに話は進む。また去られたのかと嘆く姉。もう去られないでくれと頼む老父。気に入らぬからと勝手に去る姑。ならば自分が去ろうと進言する夫。お千代からすれば、どこへ行っても誰にとっても「去る」か「去らない」かの困り事の種、それが自分なのである。男女平等などに思いも及ばない時代にあって、妻の立場の弱いことたるや。まして嫁ぎ先は卸売りまで手広く商いを営む八百屋であるし、一度は死別とは言え二度も夫を失った過去を持つお千代である。誰ひとりとして「で、千代さんはどうしたいの?」と聞いてくれないその辛さは、不条理としか言いようがないではないか。

 そんな背景を持った徹頭徹尾の不条理話であるということを前提にしないと、『心中宵庚申』はとても見ていられない。道行の最後は壮絶だ。半兵衛が脇差でお千代の喉を突き刺して絶命させ、自らは武士のしきたり通りに切腹して果てる。普通なら「道行」とは愛し合う男女が連れ立って駆け落ちや心中に向かう旅路をあらわす場面。しかし本作の「道行思ひの短夜」は上記の通り、殺し場そのものなのだ。逆算するならば、「上田村の段」で老父が門火を焚いて送り出したことによって、半兵衛とお千代は退路を断たれている。そして老父と交わした実家には二度と戻らないという約束が仇となって、結果的に二人を心中へと向かわせてしまう。プロットが堅牢に組み立てられているから、不条理だとわかりつつも見物は納得せざるを得ない。近松門左衛門の筆力のなせる技だ。
 そして近松がキーワードとした「去る」。半兵衛とお千代が切羽詰まった「八百屋の段」の最後。「去る」という言葉がその表情を変えながらリピートされるのは、格別に効果的で印象的だ。

「マアマア待つてくださんせ。なまなか一度戻つてこなさんの口から退くぞ去るぞと言はれては未来までの気がかり。この門口でたつた一言、去らぬと言うてくださんせ」
「ハテ愚痴な事ばかり。今宵は五日宵庚申、女夫連れでこの家を去ると思へばよいわいの」
「ヲヽほんにさうぢや」


 心中を決意した半兵衛とお千代。お千代は半兵衛に「去らぬ」すなわち「離縁しない」と言ってほしいと懇願する。それに対して半兵衛は「家を去る」すなわち「家を出る」と返して、二人の決意を示す。その半兵衛の「家を去る」を受けて、太夫の語りがこう続く。

手に手を取つてこの世を去る、輪廻を去る、迷ひを去る。今日は最期の羊の歩み、足に任せて

 姑から離縁を強制されたお千代は、いつの間にか夫である半兵衛とともに現世から離れる運命となってしまう。そしてこの世から去ったうえで、生まれ変わって前世と同じ苦しみを味わうことがないように「輪廻」のしがらみを断ち切ろうとする。さらには迷いの気持ちを持たないことで、無への回帰を望むのだ。二度と蘇ることなく、「この世」ではなく「あの世」において二人で一緒になろう。人の悪事を監視する三尸の虫が天に登れないよう神々を祀って酒を飲み明かすのが慣わしの庚申待。その前夜が宵庚申で、庚申の前日の干支は「己未(つちのとひつじ)」。だから心中に向かう自分たちの道行を「最期の羊の歩み」だと言い表わすのだった。


 話は変わって、人形遣いの吉田簑助が四月国立文楽劇場公演をもって引退した。今でも「七段目」のおかるを操った見事さを思い出すことが出来るが、東京公演がないままの引退はいかにも寂しい。簑助が不在となると、今回の公演で半兵衛とお千代を遣った玉男と勘十郎がいよいよ人形遣いの中心となってくる。なので「上田村の段」は、玉男と勘十郎が顔を揃えて舞台に上がることをあらためて喜びとすべき機会なのだった。
 ところがこの「上田村」では主遣いも黒頭巾を被っている。すなわち舞台上の人形遣い全員が黒衣姿なのである。そのせいなのかどうなのか、半兵衛もお千代も人形の息吹が今ひとつ伝わらないように感じてしまった。人形が黒衣の手の先にある、ただの人形にしか見えない。それはつまり、私の人形の見方が、人形を見ているようで実は人形ではなく人形遣いを見ていたことを、図らずも暴露してしまった。玉男と勘十郎が遣っているなら人形にも魂がこもっているのだろう、と思い込む人形遣いの記号化。筋書に役ごとの人形遣いの名前が明記されているから、半兵衛が玉男でお千代は勘十郎と知れたのだったが、その表記がなかったら黒衣姿の誰が誰だかほんの少しもわからなかったはずだ。所詮はその名前の重さだけに頼って、人形遣いの技をわかったようなふりをしていただけ。芸そのものを見極めることも出来ず、ただ人形遣いの顔だけで上手い凄いと偉そうにコメントしていたわけで、「上田村」を見ていた私は顔から火が出る思いだった(※2)。
 「八百屋の段」で主遣いから黒頭巾が取れて出遣いとなり、呂勢太夫と清治のコンビになったとき、やっと気持ちを落ち着けて舞台を見ることが出来た。そんな自信のない見物となってしまったのだったが、かえって舞台上の三業ではなく、浄瑠璃そのものを味わうきっかけになったのかも知れない。今回は近松門左衛門が「去る」に仕掛けた多層な意味に触れられたことを良しと思うことにして、見物としての拙さは棚上げにしておきたい。(き)

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(※1)国立劇場小劇場での五月文楽公演は当初2021年5月9日から26日まで開催される予定だった。しかし、コロナ禍による緊急事態宣言が発出され、5月9日〜11日の公演が中止。さらには出演者に新型コロナウィルス陽性反応者が確認され、5月18日〜26日の公演が中止されることになった。

(※2)主遣いが黒衣で出るときには、若手が修行の一環として主遣いに入る場合もあるそうだ。とある対談で「玉男さんが黒衣で出ることもあるのですか」と質問された玉男は次のように答えている。「もちろんです。(中略)とくに通し狂言というのは長いでしょう。だから、はじめから顔を出してしまうと、ちょっと。(中略)今度の『妹背山婦女庭訓』で僕が遣う大判事清澄は、今は預かり弟子になっている玉勢君が黒衣で大序を遣います。そのように若手が勉強のために同じ役を黒衣でやってもらい、出遣いのところから僕が顔を出して遣ることもあります」(三田評論ONLINE 2019年7月25日「三人閑談 文楽を愉しむ」より)




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2021年05月06日

マルセル・カルネ『天井棧敷の人々』と犯罪大通りのオープンセット

 映画が始まってまず映されるのは劇場の幕。そこにドン!ドン!ドン!と床を踏み鳴らすような音が響く。クレジットタイトルが流された後、幕が上がると現れるのが市井の人々で溢れ返る「犯罪大通り」。観客は一気に十九世紀半ばのパリへと連れて行かれる。『天井棧敷の人々』の見事なオープニングだ。
 マルセル・カルネ監督『天井棧敷の人々』は、外国映画のオールタイムベストの常連作品。フランスの映画雑誌カイエ・デュ・シネマが2008年におこなった「史上最高の映画ベスト100」では第八位に選ばれている(※1)。本作を見ると良い映画の絶対条件のひとつが導入部にあるとあらためて認識させられる。犯罪大通りの移動ショットひとつで開巻後すぐに観客は映画の世界に引きずり込まれてしまうからだ。
 犯罪大通りは存在感そのものが圧巻だ。桁外れに長大な大通りは張ち切れんばかりの通行人に埋め尽くされ、見世物小屋や商店からの口上人と楽隊の呼び込みが騒々しい。ほとんどの建物は白っぽく塗装されていて、大道芸人たちは白っぽい服を身にまとい、白昼の過剰な光線の下でキャメラの露出も開き気味。その名称とは正反対に画面は天国を思わせるほど明るさに満ち溢れ、大通りの喧騒が神々しくさえ感じられるファーストショットだ。

 ここから映画は主要な登場人物を、観客にその手際良さを察知させないほどの手際良さでほんの十数分の間に紹介してしまう。美女の裸身が見られるという見世物小屋。カーテンを入ると肩だけ出して沐浴中のガランスがいる。ひと仕事終えたガランスが通りに出ると、役者志望のフレデリックから声を掛けられる。ガランスがその誘いを断って入っていくのは、表向きは代書屋だが実は詐欺師ラスネールの店。古着屋ジェリコに盗品を売りつけたラスネールはガランスとともにフュナンビュール座の口上台へ。見物人で混雑する中、ラスネールに懐中時計をスリで盗まれた中年男がガランスの仕業だと騒ぎ立て警官がやって来る。しかしその一部始終を見ていたのが台上にいた無言劇役者バティスト。パントマイムでガランスの無罪を証明すると、ガランスはバティストにバラを一輪渡して去って行く。ここまでで主役四人とその関係が一気に印象づけられる。なんと見事な手さばきだろう。さらにはフレデリックとともにフュナンビュール座の中に入ると、バティストに恋する座長の娘ナタリーがいて、でもバティストはバラを見つめながらガランスの面影を追っている。観客はスピーディに映画の登場人物たちと知り合いになり、シンプルにその人物たちの関係図を頭の中に描くことが出来る。観客の映画を見る力を信頼した作り方だ。
 物語はガランスを中心に回り出すのだが、ガランスを演じるアルレッティの女優としての在り方は唯一無二のもの。映画評論家の淀川長治が「歌舞伎の女形のよう」と評したのはまさに正鵠を射た表現で、男性が女性に扮しながら化粧で年齢を消しているように見える。一見すると年増の女優なのに、付き合ってみると性別と年齢を超越した特別な人物で、その特別さがわかるものだけを惹きつける。若い頃に見たときには理解出来なかったが、そんな特異な排他性がアルレッティの魅力なのだ。
 かたやバティスト役のジャン・ルイ・バロー。何をおいても口上台でのパントマイムの凄さ素晴らしさ。これこそが至芸。身振り手振りだけで三人の人物とスリの犯行を再現する。息を飲むほどに絶品で、これまで映画に記録された中でも最高級の超絶技巧だ。ジャン・ルイ・バローは白粉を落とすと今にも折れそうな優男風になるのに、存外気が強いところも魅力的。スケジュールが合わず一時は別の役者を起用するつもりらしかった(※2)が、他の誰ひとりとしてバティストを肉体化出来る者はいなかったはずだ。

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 けれども『天井棧敷の人々』の真価はアルレッティにもジャン・ルイ・バローにもあるわけでなく、映画を支配するのは犯罪大通りそのものだ。キャメラが犯罪大通りを映し出すのは映画の冒頭のみ。しかし観客は常に犯罪大通りを意識させられる。
 まずは音。見世物小屋の中でもフュナンビュール座に入っても、犯罪大通りが発するどよめきが絶えることなく聞こえて来る。場面が室内であっても、すぐ隣に犯罪大通りがあることを音の演出で伝えるのだ。
 さらには背景。ガランスが立ち寄るラスネールの店からはガラス越しに犯罪大通りの様子が映される。通常なら店内はスタジオでのセットで撮影されるから、書き割りやスクリーンプロセスを後に置くか、大通りを見えない角度にキャメラを置くかのどちらかだ。ところが本作の美術は、犯罪大通りの人混みそのものを背景に使っている。たぶんラスネールの店の窓側半分を犯罪大通りにくっつけて建てたのだろう。切り返す際の壁方向の店内は別セットで別撮りされているから、窓の外に大通りを映すことが美術設計の段階から計算されている。
 映画の導入部で観客に犯罪大通りを深く刻み込んでしまえば、あとはそこで紹介した登場人物たちに委ねておくだけで良い。観客は犯罪大通りのアトモスフィアを感じながら、もはやお馴染みになってしまったガランスやバティストたちと同じ世界に浸り込んで、そのドラマを見物するだけだ。『天井棧敷の人々』が傑作と評されるのは第一部「犯罪大通り」への評価と同一であって、その影の主役は犯行大通りそのものだと言えるだろう。
 この犯罪大通りのオープンセットはなんと百六十メートルにも及ぶ巨大なもの。劇場や寄席や見世物小屋の建物が通り沿いに建築され、そこに二千人近いエキストラが集められた。映画のクライマックスとなるカーニバルの場面では通りのいちばん奧の二十メートルの建物は遠近法に則った書き割りで、その前を大勢の子どもたちでうずめたのだという(※3)。遠くにいる人間を子どもで表現するのは歌舞伎の「遠見」と全く同じ手法。そこまでして壮大な光景を映像化しようとする執念に感心させられる。この巨大なオープンセットは、実は困難を極めた製作プロセスの紆余曲折を象徴した存在なのでもある。

 1943年8月17日に開始された撮影は同年末までには終わる予定だった。ところが完成したのは1945年3月。四ヶ月で済むはずが一年七ヶ月を要したのだ。当時のパリはナチスの支配下にあり、独立プロダクションは非占領地域の南仏に逃げて映画製作を継続していた。本作もニースのヴィクトアリーヌ撮影所に犯罪大通りのオープンセットが建てることから製作が開始された。撮影は順調に進み、あと二週間でオープンセット部分の撮影が完了するというとき、連合軍がシチリア島に上陸。パリの映画管理局は、即刻撮影所を閉鎖しカメラなど機材すべてをパリに持ち帰るようにというナチスからの命令を伝えて来た。プロデューサーのアンドレ・ポールヴェ(※4)がパリでの撮影再開案を映画管理局に提出するも認められず、パリで撮影するには当時ナチ御用会社になっていたパテ・シネマに一切を委ねることが条件とされた。
 やむなく製作主体を切り替えて1943年11月にやっとパリで撮影を再開したものの、連合軍はシチリア島から動く気配もなく、パリの撮影所は停電ばかりで一向に捗らない。こんなことならニースに戻ったほうがマシということで、ヴィクトアリーヌ撮影所に機材を運び直したが、留守の間に嵐があり、オープンセットは暴風雨でなぎ倒されていた。セットを修復してやっと撮影が軌道に乗ってきた1944年6月、連合軍がノルマンディに上陸し一気に戦局が緊迫化。このときマルセル・カルネはあえて撮影を遅らせる決断をする。ナチ占領下ではなく、フランスが解放された直後を狙って公開しようと考えてのことだった。8月にパリ解放が実現して自由フランス体制になってみると、また難題が勃発。ジェリコ役のロベール・ルヴィギャンが親独派逮捕を恐れて逃亡してしまったのだ。急遽ピエール・ルノワールを代役に立ててジェリコが登場する場面をすべて撮り直すはめになった。
 そんなあれやこれやがあって映画は1945年3月に完成、シャイヨー宮で今風に言えばワールドプレミアロードショー公開された。5月にはマドレーヌとコリゼ・シネマで一般公開を開始。両館ともに五十四週間続映を記録し、入場者数は五十万人に達した。ドイツ占領下で製作されたフランス映画二百二十本のうち最も大掛かりで、製作費は六千万フランに及んだという。(※5)
 このような艱難辛苦の中心にあったのが犯罪大通りのオープンセットだったわけだが、セットデザインを担当したのはアレクサンドル・トローネル。トローネルはハンガリーからフランスに逃れてきたユダヤ人で、南仏の山奥に投宿して美術プランを隠れながら描いた。撮影現場には大勢のスタッフが出入りしていて親ナチ派による密告の危険があったからだ。音楽を担当したジョゼフ・コズマもユダヤ人で、トローネルとコズマの二人はタイトルロールでは”Collaboration dans la clandestinité”(地下からの協力者)としてクレジットされている。

 かようにドイツ占領下での映画製作は様々な障害に直面したのだが、最も現実的に映画そのものへの打撃となったのは上映時間の制限だった。ナチスは映画の内容を検閲するだけでなく、映画の長さを一本あたり一時間三十分程度に収める条件を課した。普通ならば、ガランスがモントレー伯爵との婚姻を受け入れる決意をしたところで「休憩」となり、第二部「白い男」で再開されるのが通常の形式。しかし上映時間制限のために、「白い男」が始まるところで再度タイトルロールを流して、これは別の映画ですよと断りを入れなければならなかった。よって『天井棧敷の人々』は百分の第一部と九十分の第二部とのふたつの映画によって構成された二部形式の作品になったのだった。
 そのせいというわけでもないのだろうけれども、第二部「白い男」は第一部ほどには傑出していない。犯罪大通りの存在が薄くなってしまっているせいもあるが、ガランスとバティストの関係を変容させてしまったことが躓きの元だ。バティストがひたすらガランスを恋焦がれるというのが第一部のモチーフだったはず。それがいつのまにかガランスがバティストのことを忘れられないという設定に変わっている。これでは一旦幕間で離れた観客を再び映画の世界に呼び戻すことは出来ない。さらに細かなところで言えば、金目当ての殺人を行い決闘の申し込みは拒絶するラスネールが、名誉のためにモントレー伯爵を刺すのはなぜなのか。そもそもラスネールの身分で伯爵家で待ち伏せしたり、高級サウナにフリーで入れてしまうものなのか。マルセル・カルネは脚本家ジャック・プレヴェールとの協働作業について、前半は自分も台詞を書いているが後半になるほど台詞はほとんどジャックの仕事だったと回顧している。第二部は流麗な台詞だけが先行してしまい、プロットがおざなりにされている。シナリオの一貫性は、映画が二部形式になったことで残念なことに破綻してしまったのだった。

 とまれ、今でも『天井棧敷の人々』が映画史に残る名作として評価されているのは、ドイツ占領下においても果敢にフランスらしい映画製作に挑み、完成させたからであることは間違いない。パリが解放されるまでのドイツとの戦いは、連合軍の戦略(拙速にパリへ侵攻しても兵站が追いつかない)と解放後の主導権争い(ド・ゴールの自由フランス軍と共産党中心の内地フランス軍)とヒトラーの狂気(撤退するならパリを廃墟にせよ)とパリ軍事総督の降伏(ドイツの将軍コルティッツがパリを破壊した者として歴史に名を残したくなかった?)とがないまぜになり曲がりくねった経緯を辿った(※6)。そんな戦時下でここまで巨大な映画を作ってしまう実行力には驚嘆せずにはいられない。逆説的には戦時下だからこそ、評論家ジョルジュ・サドゥールが「詩的リアリズム」と言うところの「不安定な時代の鬱屈した気分を反映した、繊細で叙情的かつ厭世的でロマンティックな物語をセットで撮影した作品」が出来上がったのだろう。いずれにせよオールタイムベストにランクインし続けるべき名作をクリアな映像と音響で再見出来ることは何よりの僥倖だ。リストアで作品を蘇らせたデジタル技術に感謝である。(き)

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(※1)第一位はオーソン・ウェルズの『市民ケーン』。日本映画では『東京物語』が十四位、『雨月物語』が十六位にランクインしている。

(※2)撮影に入るときジャン・ルイ・バローには舞台の仕事が入っていて、マルセル・カルネはジャック・タチを起用することも考えた。ジャック・タチは言うまでもなく『ぼくの伯父さん』の監督で主演者。当時はまだ背がひょろ高いパントマイマーだった。

(※3)「映画はこうしてつくられる 山田宏一映画インタビュー集」(山田宏一著/2019年草思社刊)のマルセル・カルネインタビューより。映画評論家山田宏一は『天井棧敷の人々』リストア版の日本語字幕を担当している。

(※4)アンドレ・ポールヴェは、マルセル・カルネの前作『悪魔が夜来る』のプロデューサー。戦後にはジャン・コクトーの『美女と野獣』『オルフェ』などをプロデュースしている。蛇足だが、『美女と野獣』でも冒頭にドラムの音がドンドンドンと響き渡る。歌舞伎が拍子木のチョンチョンをきっかけに定式幕が右へと開かれるのに似て、床を踏み鳴らす音のあとで幕(rideau)が上に上がるのがフランス式の開幕形式のようだ。

(※5)撮影経緯のほとんどは「シネマディクトJの映画散歩 フランス編」(植草甚一著/1978年晶文社刊)の本作についての記事から引用した。植草甚一は和書・洋書を問わず古本収集家で、ロジェ・レジャン著「シネマ・ド・フランス」とジャン・ケヴァル著「マルセル・カルネ」を参考にしたという。ちなみに植草甚一も「第二部へ入ると、こうした欠点(視覚性の独自さよりも台詞の説明が主になること/筆者注)が目についてくるのは事実である」と書いている。ついでに犯罪大通りのオープンセットの規模について付記すると、2020年秋公開時のフライヤーには「全長四百メートル」と記載されている一方で、山田宏一著は百六十メートル、植草甚一著は二百ヤード(約百八十メートル)だったと伝えている。いくらワイドキャメラで撮ったとしても四百メートルの長さは必要ないはずだから、本稿では百六十メートル+書き割り二十メートル説を採用した。
【追記】山田宏一がトローネル本人にインタビューした別著では、トローネルの「全長四百メートル、エキストラ千五百人」という発言が記されていた。フライヤーはこの記載を参考にしたようだ。

(※6)パリ解放の経緯については「パリは燃えているか」(ラリー・コリンズ、ドミニク・ラピエール著/2005年早川書房刊)に詳しい。



posted by 冬の夢 at 21:42 | Comment(1) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする