2021年03月20日

春愁、あるいはごまめの歯ぎしり

1.憲法24条と憲法14条
3月17日のニュースで知ったのだが、札幌地裁が同性間での婚姻を認めないのは憲法違反に相当するという判断を示したらしい。世の趨勢としては当然のことだろう。いわゆる事実婚(行政に届出は提出していないが、基本的に仲良く一緒に生活している状態)に対する法的差別が不当であるという認識が広がれば、それに続いて同性婚に対する差別が不当であるという認識が広がるのは理の当然と思われる。単に入籍の届出があるか否かの差によって、婚姻に伴う権利が享受できないというのが不当であるというなら、それとほとんど同じ理屈で、同性同士の婚姻だからといって差別されることが、いわゆる「法の下での平等」に著しく反しているというのは、闇夜の中で火を見るのと同じくらい明らかなことだ。今度の判決は同性愛者でなくとも慶賀すべき朗報といえる。
 それなら、どうしてかくも憂鬱なのだろうか。もちろん、この判決に対する奇妙な「雑音」のせいだ。その雑音が単に同性愛に対する差別偏見を叫んでいるだけなら、こちらとしても腹を立てるなり、軽蔑するなり、それなりの対応もできる。少なくとも「憂鬱」になることはない。憂鬱になるのは、同性婚と法的差別の話になると、必ずといっていいほど憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」するという文言を持ち出し、「だから、同性婚を法的に認めないことは憲法違反ではないし、むしろ憲法は同性婚を禁じている」としたり顔でほざく輩が少なくない(らしい)ことによる。
 いや、いささか楽観的に言うなら、もしかしたら、こと同性婚に関しては昨今のLGBT云々ブームのおかげもあり、この判決を歓迎とまでは言わないにしても、すんなりと受け止める人たちの方が多数派なのかもしれない。そして、それならば、これもまた慶賀すべきことのはずである。しかし、こう考えたところで心の憂鬱は一向に晴れない。
 というのは、憲法24条に書かれた「両性の合意」という文句を楯に取って同性婚に反対する輩のメンタルというか、知性の有り様というか、端的に彼らの頭の悪さというものが、日本社会のあちらこちらであまりにしばしば見せつけられる代物だからだ。つまり、問題の本質は、日本社会の津々浦々に蔓延っている論理的ヒエラルキーの欠如、それも致命的と言っても過言ではないほど徹底的な欠如にある。具体的に言えば、第24条の条文を持ち出せば同性婚差別を正当化できると信じているおバカさんたちは、憲法(及び一般に近代法と言われるもの)が一つの体系(システム)になっており、個々の条文はそれぞれ独立して存在するのではなく、相互に有機的に結びついているという、特に法学を学ばなくても真面目に中学校の社会の授業を受けてさえいれば15歳の子供でも知っているはずのことを、何一つ存じ上げないようだ。しかし、事実として、日本の法体系全体の上に君臨するのは日本国憲法であり、その憲法の精神、精髄は憲法前文にも示されている、いわゆる基本三原則(基本的人権の尊重、国民主権、平和主義)であって、これに近代国家の根本原則とも言える「法の下での平等」を加えれば、およそ現代日本の法の精神とも言うべきものが示されると考えていいだろう。
 ということは、言い換えれば、万一にも憲法の条文の中に基本的人権や国民主権、法の下での平等に反する条文が紛れ込んでいるような事態があるなら、それはシステム内での深刻なバグに他ならず、直ちに修復ないしは排除されるべきミスということになる。そして、問題の24条「両性の合意」というのは、憲法制定当時、それまでの日本では常識のように受け止められてきた著しい女性差別の存在を問題視し、それを何とか是正して男女平等を確立したいと願ったがための対抗策、つまり、「両性の合意」とは「男女平等」を意味している文言と理解するのが当然であろう(実際、第24条には「夫婦が同等の権利を有することを基本として」とも明記されている)。さらには、基本的人権を尊重する原則を踏まえるならば、「弱い性」であった女性(娘)の意向を無視した婚姻制度を否定するための声明だったと理解すべきである。それを、現在では女性よりもある意味ではいっそう弱い立場である同性愛者を差別する根拠に持ち出すとは……それは小指の爪(=憲法の個々の条文)を守るために大事な脳(憲法の精神)を傷つけてしまうような愚行だ。そして、この種の知的論理的倒錯があちらこちらで繰り広げられるのを目にする、耳にするにつけて、春先の憂鬱が募るわけである。

2.TOEICで730点の小学校教員
 もう一つ似たような、同じように馬鹿げた話がある。ニュースによると、鳥取県教育委員会は2022年度の小学校教員採用に関して、TOEICで730点以上を獲得した受験者には他の試験を免除して、適正検査と面接のみで採用することにしたそうだ。詳細は知る由もないが、小学校に英語が正式な科目として導入されるにもかかわらず、英語が教えられる教員が不足していることに対する苦肉の策といったところだろうか。しかし、これは明らかに愚策だろう。ここにも論理の倒錯というか、理性の崩壊現象というか、どこかに狂気の臭いが漂っている。問題の所在を明確にして、その問題の原因理由を突き止め、それに対する最も的確な処置を講ずるのが理性の業だとすれば、鳥取県教育委員会がしようとしていることは、どうやら問題があることには気づいたものの、その原因理由を探ろうともせず、そのために全くトンチンカンな対策を打ち立ててしまったようなものだ。喩えて言えば、単に厚着をして体温が上がっている赤ちゃんに対して、「こりゃインフルエンザだ!」と大騒ぎして、「部屋を暖めなければならない」とストーブを起こし、さらに布団を重ね、挙げ句に脱水症状を引き起こすようなものだ。これではその赤ちゃんが死なないだけでも御の字というものだろう。しかし、鳥取県の初等教育はどうなることやら……
 鳥取県の通常の教員採用試験がどんなものなのかは全く存じ上げないが、おそらくは教職教養とも言われる教育学関連の試験と小論文、あるいは、もしかしたら一般教養的な、中学校、高校で習う程度の基礎的学力が測られるのではなかろうか。仮にそうだとして、なぜTOEICのような英語能力試験の得点が教育学や一般常識の担保になるのだろうか? 関連性が全くわからない。
 特に初等教育の専門家でなくとも、ちょっとでも考えれば誰だってすぐにわかりそうなものだと思うが、小学校の先生に一番必要な能力は小さな子どものことを理解する能力、彼らの身丈に寄り添って、多くの大人たちが見落としてしまいがちな子供たちからの微妙なサインに気がつく能力、要するに、子どものことを親身に考えることができる共感力と、それによって気づいた問題に対応できる教育学的としか言いようのない能力なのではなかろうか。たとえ自分自身が親になっていなくても、またごく身近に小さな子どもがいなくても、さらには自分自身が小さな子どもだった頃のことはきれいさっぱり忘れてしまったとしても、古今東西の児童文学に少しでも接することさえあれば、子どもたちがどれほど繊細で傷つきやすく、しかしその一方で、適切な助言と環境さえ与えられれば、どれほどの回復力を示すことか、容易に知ることができる。つまり、小学校の先生が教室でいじめや不登校などの問題に直面したとき、その先生と子どもを助けてくれるのは、生半可な英語の知識ではなく、むしろ教育学や児童心理、さらには教育行政などに関わる知識なのではないだろうか。ルソーもペスタロッチもシュタイナーも知らずに(教育学に関する試験を免除するとはこういうことだろう)、いったいどうやって教壇に立つのだろう? それではまるで素人の(教員としての素養を欠く)大人が教師になることと同じだ。どう考えても事の優先順位を間違えているとしか思えない。(しかし、事実、昨今は教員免許がなくても教師になれる制度もあるらしい。特別講師のような処遇であれば理解できるが、単に社会経験が豊富だからという理由で教師になれるのなら、「職業に貴賎はない」以上、極言すれば誰でも教員になれるということにならないか? そのうちには我家の三毛猫が教壇に立って「吾輩は猫である」と言い出しかねない。)

 公立学校の教師というのは、収入や労働条件の見地から考えるなら、ほとんど魅力がない。公務員としての保障はあるにしても、残業手当もなく、朝の8時から夜の7時、8時まで働かされ、そればかりか家に仕事を持ち帰ることも当たり前で、したがって無給の休日勤務も常態化している。以前はそれなりに認められていた夏休みなどの長期休暇も減らされる一方だし、台風や地震などの災害が発生したら、行政職の一端として担ぎ出されてしまう。真面目に、ちょっとしたブラック企業の処遇とさえ比較できそうだ。こうした状況で人材確保が難しいことは容易に理解できる。しかし、だからといって、その解決策がTOEIC 730点では、お先真っ暗と言ってもあながち間違いではないだろう。
 そもそも、TOEICの730点というのは、ちょっと英語のできる大学生であれば、それほど高いハードルではない。つまり、それくらいの点数なら特に英語に秀でていなくても獲得できるはずだ。ということは、ここでも奇妙な倒錯が起きていて、「英語を教える人材が欲しいのだが、特に英語に秀でている必要もないし、特に英語教育を学んでいる必要もない」ということになってしまう。こういうのを典型的な泥縄式とでも言うのだろうか。ともかく、この手の話が文字通りに無数にあり過ぎて、憂鬱で仕方がない。国会の話なんかし始めたら、それこそ本当の鬱病になってしまいそうだ…… (H.H.)


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(春の海、リサイズが微妙でボケているけど、かえって春らしい?)
posted by 冬の夢 at 17:49 | Comment(0) | 日記 話題・意見・世相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2021年03月08日

春を待ちながら

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6MG_5506.JPG


210308eb.PNG  

「随園雑興から」
袁枚(えんばい・1716〜1798)
筆者訳


東京・神奈川・千葉・山梨・茨城・大阪・兵庫
2012〜2021 春
'Now Wait for Spring'
Tokyo, Kanagawa, Chiba, Yamanashi, Ibaraki, Osaka, Hyogo
2012〜2021 
(ケ)

これで(ケ)の写真を終わります。再開は未定です。
長い間、写真作品を見てくださって、ありがとうございました。



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posted by 冬の夢 at 16:03 | Comment(0) | 写真 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2021年03月05日

そして、神戸 - remixed & remastered -

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7MG_2094.JPG

「そして、神戸」
内山田洋とクール・ファイブ 1972年


神戸 2013〜2017  KOBE 2013−2017
(ケ)


Originally Uploaded on Mar. 11, 2021 23:00:00
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