2020年07月25日

小説:二人だけの話 #2

(これは『二人だけの話』#2です。)#1はこちら

 コーヒーとトースト、そして目玉焼きとトマトだけの、とはいえ波瑠が作ってくれた休みの日の遅い朝食を食べながら、しばらく気になっていたことを今日子は尋ねた。大学四年生の憂鬱は今日子自身も二年前に経験したのでよくわかっている。が、悩んだあげくに、就職するのを止め、将来に不安を感じながらも美術の専門学校に通うことにした今日子の目から見ても、波瑠の暢気さは途方もなかった。波瑠には四年生という自覚が皆無のようなのだ。彼女の知る限り、この夏を通して波瑠が就職活動らしきものをしているようには全く思われなかった。
 「就職か、そうだね」と言って、波瑠は今日子の方を向き、しばらく沈黙していた。
 「どうしようか迷っているんだ、本当のところ」
 そういう波瑠の様子はその言葉とは裏腹に少しも迷っているようには思えず、やはり暢気を絵に描いたようだった。外国語で書かれた専門書らしき本を手にしながら、やはり今日子の顔を見つめ、屈託のない声で応じていた。
 「それってどういうこと? 卒業したらどうするつもりなの?」
 「だからさ、それに迷っている、というか、悩んでいるというか……」
 そう言って、それまで開いていた本を閉じると、大きなため息をついて、力なく微笑んだ。
 「もう十月だもんな」
 「まだ何もしてないんでしょ? お母さんだって心配してるんじゃないの?」
 今日子は我ながらなんて嫌みでお節介な言い方なんだろうと気にしつつ、そう尋ねずにはいられなかった。波瑠の田舎が九州で、彼が小さい頃から母子家庭で育ったこと、母親は今も地元のかなり大きな病院で医療事務の仕事を続けていることは以前から聞いていた。一人親の母親としては、東京の大学へ進学した息子の行く末を気にするのは当然だろう。
 半ば一緒に生活していると言っても良いほどにお互いのアパートを行き来するようになってからすでに半年近くが経とうしていた。学校名を耳にすれば誰もが反応するような有名大学に通い、実際に面と向かって話をすれば人当たりも決して悪くなく、英語ばかりかフランス語も読み書きできて、確かに見ようによってはオタクっぽい点があるにしても、全体的には好青年として十分通用するはずだ。それなのに、卒業後の進路のことになると、波瑠は無気力というのとは少し違うが、事実として具体的な活動は何一つしようとはしなかった。少なくとも、誰よりも波瑠の傍にいた今日子の目にはそのように映っていた。
 「もしかしたら、大学院に進学するつもりなの?」
 前々から思っていたことを口にしてみたが、波瑠の返事はやはり暢気な響きのするものだった。
 「そういうわけでもないんだけど」
 「じゃあどうするのよ? もう夏休みも終わっちゃったし、大半の四年生はもうとっくに行き先が決まってるんじゃないの?」
 「今日子さんの頃もそうだった?」
 「ちょっと、その言い方、気になるなあ。まるですごい年を召したお婆ちゃんと話しているみたいじゃないの! たった二年じゃ世の中はそんなに変わりっこないわよ。と言いたいところだけど、でも、ニュースを聞く限りでは、何だかどんどん早くなっているような気はするわね。私の頃は、やっぱりイヤだな、この言い方。二年前はね、十月になっても、十二月になっても、ううん、年が明けても、友だちの中にはまだけっこう就職活動をしていた子もいたような気がする」
 「そうでしょ? そうだよ、本来はそうであるべきなんだよ」と、やけに力を込めて波瑠が反応した。
 「だって、本来はまだ四年生なんだよ、ぼくたちは。それなのに、四年生の授業なんて丸っきりないも同然。それどころか、三年の後期にはもう就活が本格的に始まっている。面白そうな授業に出ても、教室にいるのは三年生と二年生ばかり。たまにいる四年生は、前の年に単位を落として再履修していると思ってまず間違いなし。大学は今では四年制じゃなくて、三年制と言った方が正しいくらい。それで四年間分の授業料をふんだくるんだから、公然と詐欺を働いているようなもんだよ」
 どこまでが真面目で、どこまでがふざけているのか判然としない、いかにも波瑠らしい口調だった。
 「今日子さんは、いつ就職しないって決めたの?」
 「またそうやって話を変えて。私のことはいいから、波瑠は本当にどうするつもりなの? まさか就職しないつもりなの? 卒業はするんだよね?」
 「問題はそれだ」
 相変わらず波瑠はいかにものんびりした調子で続けた。
 「卒業はする。というか、する気になれば絶対にできる。必要な単位はもう全部取ってあるし、卒論ももうほとんど書き終わっている。自慢じゃないけど−−本当に自慢できるようなことじゃなくて−−他の人たちが会社説明会やOBとの面接に忙しくしている間、こちらは本を読んで文章を書くしかすることがなかったんだから、卒論くらい終わっていても全然不思議じゃないよね」
 それでも、話しているうちに少しは言葉に熱というか実感がこもってきたようだ。
 「それに卒論は自分でも楽しめることが多いから。ところが、就活って、ほんの少しだけ、友だちの真似をして説明会に行っただけで、『これは無理かも』って思ったよ。例えばさ、今日子さん、あの真っ黒なリクルートスーツ、あの真っ黒な服の群れ、あれをどう思う? どう思った? ぼくはほとんど生理的な拒絶反応が起きたくらい」
 これを聞いた今日子の脳裏では、おそらく基本的に強い共感があったからだろうが、奇妙な反応が生じていた。
 「ちょっと待って! もしかして波瑠もリクルートスーツなんて持っているの?」
 「いや、持ってない」
 波瑠の返事は即答だった。
 「だよね。やっぱり。でも、だったら友だちの真似をして行った説明会とやらには、どんな格好で行ったのよ?」
 「そりゃ、今日子さんもよくご存知のブレザーですよ。ぴかぴかの一張羅だもの」
 「あの、私もよく知っている、あのキャメルの?」
 「そう。それ以外にはありません」
 「そりゃ豪傑だ。強者だ。勇者まちがいなしだ。きっと会場で一番目立っていたでしょうね」
 その姿を想像しただけで、笑いがこみ上げてきた。
 「正直、さすがに少し場違いかなとは思わざる得なかったよ。本当のことを言って、そのときまでは、リクルートスーツ、リクルートスーツ族を甘く見てたところがあったんだね。あんなに黒一色とは思っていなかった」
 「グレーもいなかったの?」
 「いない! いたとしても、限りなく黒に近いグレー。本人以外は誰もグレーとは思わないような、そんなグレーなら、いたかもね。いや、女の子たちにはいたよ。明るいグレーのスーツの子とか。もうそれだけで、その子が素晴らしい美人に見えたし、きっと性格もいいにちがいないと思ったほど。それに、紺のスーツの子もいたな。だから、男にだって、せめて紺のスーツくらいいても良かったはずなのに、見事に真っ黒だった」
 波瑠の言葉を聴きながら、今日子は頭の中で「波瑠が言うと、真っ黒は真っ暗に聞こえるな」と思っていた。
 「でも、マスコミとかなら、少しは様子が違うんじゃないの? 私のときも、お堅いと言われている業界では『紺でもチャレンジャー』と言われていたけど、もう少し派手な業種へ行くときは、明るめの色の方がいいかもしれないって聞いたわよ。男の人の場合はそうでもないのかな?」
 「派手な業種って、例えばマスコミのこと?」
 「それに広告業界とか」
 「でも、ぼくが行ったのは銀行でもなく、商社でもなく、メーカーでもなく、新聞社と出版社、もろにマスコミだったんだよ。それで真っ黒だったんだから、金融になんて行っていたら、もう顔まで黒いんじゃないのかな。どうせ髪の毛は元々真っ黒だし。こうやってブラック企業が出来上がるんだよ」
 「でも、考えてみれば、それも仕方ないのかも」と、今日子は吹き出しそうになるのをこらえながら、咄嗟に閃いたことを口にした。
 「波瑠の一張羅があのキャメルのブレザーで、どこに行くにも頼りにするのはあの服しかないように、他の人たちにはそのリクルートスーツが一張羅なんじゃないの?」
 「そういうこと? まあ、そういうこともあるかもしれないけど、とにかく、四月から六月の間、今日子さんには言ってなかったかもしれないけど、これでも一応は就職活動らしきものはしてみたのさ。それで分かったのは、どうやら自分がかなり変わり者なのかもしれないってこと」
 「ちょっと待って! それは今さら言うことなの? 君は、私が保証してあげるけど、紛れもなく、世間の中ではかなりの変わり者だと思うよ。断然個性的だと思う。それは断言できる。他の人たちが真っ黒なスーツで身を固めているときに、一人で堂々とキャメルのブレザーでいられるなんて、言っておくけど、波瑠以外にはそう簡単にできないよ」
 「それ、もしかして誉めてくれてる?」
 「ほら、そういうところよ、波瑠が他の人と違っているのは。普通は『それ、もしかして批判している?』って言うところよ、きっと。間違えないでよ、私は少しは、いや大分と誉めたつもりで言ったのよ。そう、誉めたの。波瑠は他の人たちとは少し違っている、いい意味で違っているって。でもね、そう言っている人に面と向かって『誉めてくれたの?』って確かめるのはね……」
 話している今日子の方が赤面した。そこで、彼女は気を取り直すように話題を変えた。
 「それで、みんなが真っ黒なスーツで、自分だけが違っているから、それで就職しないっていうの?」
 「それはちょっと違うような気がするけど、もしかしたらそうなのかな?」
 「そんなこと、私に聞かれてもわからないわよ。聞いているのは私の方なのよ?」
 「でも、『何事も先達はあらま欲しきことなり』って言うじゃない。迷える小羊を助けると思って、今日子さんの考えをちょっと聞かせてもらえないかな?」
 「どうして君が就職に前向きじゃないのか、その理由を私に話せと?」
 「ううん、そうじゃなくて。今日子さんが大学生だったときのこと。だって、今日子さんも今のような生活をするって決めたからには、それなりに考えたり悩んだりしたでしょ? ぼくのことを変わり者って言うけど、今日子さんだって社会的には少数派であることは明らかだし」
 「お生憎様。大学を出て普通に就職しなかったという点では現代社会の中では少数派かもしれないけど、波瑠みたいな変わり者じゃありませんから。それに、マスターの所のバイトがなかったら、派遣会社にでも登録していたはず。働く気がなかったわけじゃないんだからね」
 「それでどうして普通に就職しなかったの?」
 「結局それが聞きたいのね」
 「はじめからずっとそう言ってるじゃない。どうかもったいぶらずに教えて下さい。真面目に参考になるかもしれないから」
 「もったいぶってるなんてこと、あるはずないでしょ!」
 今日子は半ばふざけた口調で、しかし少しは本心から怒って見せた。
 「ただ、少し話しにくいというか、面倒というか、自分でもちゃんと他人に伝わるように話せるのか、自信がないだけよ」
 そう聞いた途端、今度は波瑠が急に真剣な顔つきになった。
 「それはそうだよね。ぼくだって今の自分のことを他の人に上手く伝えられるかどうか。いや、ぼくの場合は、そもそも自分で自分のことがわかっていないのだから、それどころの話ではないか」
 「そんなことを言えば、私だって本当は同じようなものかもしれない。私も自分のことがわかっているのかと言われたら、自信はないな」
 「でも、今日子さんは絵本作家になりたいという夢があるし、その夢を実現させるために毎日頑張っているじゃない。自分のしたいことをまがりなりにもしているわけだから」
 「その点はね。でも、だからといって、つまり、自分の好きな絵本を描きたいからといって、それが理由で就職しなかったのかと聞かれたら、事はそう単純じゃないのよ」
 「どういうこと?」
 「だから、それを話すのが難しいって、それこそ最初からずっとそう言ってるじゃない」と、波瑠の口真似をしてみせた。
 「じゃあ、必ずしも正確でなくてもいいし、後になって『あれは全くそうではなかった』って取り下げてくれてもいいから、今日子さんが就職しなかった理由(わけ)を教えてよ」
 「理由(わけ)ね…理由なんかなかったのかもしれない」
 そう呟くように言って、今日子は波瑠の顔をまじまじと見つめた。そして、「きっと大学の教室でも、興味のある授業ではこんな顔つきで先生の話を聞いているのかな」と、およそ場違いなことが脳裏をよぎった。
 「自分のことをこんな風に話すのはとても恥ずかしいのよ、わかってるかな」と前置きをして、ゆっくりと考えながら、今日子は次のような話をした。


 彼女が絵を描きたいと思ったのは大学に入学するずっと前のことだった。中学生の頃から、いや、それ以前から、特にきれいな色を使った幻想的な絵柄の絵本を見つけると、それが幼児向けのものであっても、一般の成人向けのものであっても、いつも心惹かれる思いがした。しかし、中高生のお小遣いでは気に入った本を全て買うなんてことは無理は話だった。それで、せめて自分の好きな色使いの感じだけでも再現しようと、水彩絵具や色鉛筆を使って、見よう見真似で目の前の机や窓の外の景色を描いてみたのが全ての始まりだ。高校では美術ではなく音楽を取っていたので、絵を描くのがそんなに楽しいと感じる自分が自分でも意外だった。
 けれども、高校生には受験というものが待っている。絵ばかり描いているわけにはいかない。それに、面白いと感じてはいても、所詮は素人の手すさびだから、やがては飽きてしまう。受験シーズンに突入すると同時に絵も描かなくなり、大学生になってもしばらくは絵本のことは忘れていた。が、きっと大学が思っていたよりも退屈だったからなのか、二年生の夏休みの頃に、俄然絵が描きたくなってきた。「人は本当に楽しいと思えることをすべきだ」という思いが、どこかから降って湧いてきたかのように生まれ、彼女の心に棲みついた。「本当にしなければならないこと」なんて言うまでもなく、「本当にしたいこと」さえおそらくわからないだろう。(今日子が「本当に」というところに特別の力点を置いていることは明らかだった。)しかし、「本当に楽しいと思えること」なら、人は相当の確信を持つことができるはずだ。少なくとも彼女は好きな色を使って絵を描いているとき、自分でも予期していなかった美しい色彩の組み合わせが目の前に展開されていくのを、しかもそれを自分自身の手が生み出していくのを経験するとき、他には代えがたい喜びを感じることができた。
 それでも、それは単なる趣味で絵を楽しんでいるだけ、そして自分の好きなタイプの絵は、一枚の油絵やアクリル画などではなく、ちょっとした挿絵のような、つまりは絵本にあるような絵だったので、自分でも一冊か二冊の絵本が作れたらさぞかし楽しいだろうという程度の話だった。そこからいったいいつ、どうやって、絵本作家になりたいという夢が生まれたのか? 実際、今彼女が創っている絵本は、夢がいつ、どうやって育っていくのか、そして日本語でも西洋の言葉でも、どうして眠っているときに見るあの奇妙な幻想と、人生の目標ともなるべきものとが同じ言葉で表現されるのか、そうしたことを題材にしていた。
 ともかく、大学三年生の後期、そろそろ周囲でも就職の話題が出始める頃には、今日子自身も人並みに就職するものと信じていた。そして、特にしたい仕事があったわけではないので、なるべく条件の良い一般事務職なら基本的にはどれでもいいと考えていた。そして、翌年にかけて、会社訪問は言うまでもなく、試験や面接も受けてはみた。
 ところが、そんなことをしているうちに、どうも奇妙な気持ちになってきた。とは言っても、今日子は波瑠とは違って、別にリクルートスーツの群れに対して拒絶反応が起きたわけではない。彼女の気を滅入らせたのは服装なんかではなかった。それは例えば面接のときに尋ねられる質問の中にあった。
 「将来の夢は?」
 こう聞かれると、彼女はいつも一瞬絶句するかのような戸惑いを感じずにはいられなかった。そして、「自分以外の他の人たちは『将来の夢』をちゃんと持っていて、物怖じすることもなく他人に語れるものなのだろうか」と不安にさえ思った。また、「あなたの長所は?」と尋ねられることも苦痛だった。
 こんな質問は全てまともに向き合う必要もなく、単なる通過儀礼と見なせばいい、三分の一くらいの真実と三分の一くらいの嘘、そして残りはどこかで聞き覚えてきたことを付け加えて、その場限りの返答をしておけばいいのだろうと、そのくらいのことは今日子も考えた。そして大体はそのように対処した。
 しかし、そんなことを繰り返しているうちに、心の底にぽっかりと大きな穴が空いてしまったような、奇妙な空虚感を感じるようになってきた。いつか学校の授業で耳にした「虚ろな人」(hollow man)という恐ろしいフレーズが頭の中で旋回し続け、その渦の中心が無限のブラックホールのように思えてならなかった。「そのうちに私だけじゃなく、みんな、何もかもがこの暗い穴の中に吸い込まれていくにちがいない」とさえ思えてきた。
 初めのうちは自分でも何がそんなに恐ろしいのかよくわからず、就職活動による緊張から神経質になっているだけだろうと考えていた。けれども、そのうち段々と、まるで子どもの頃に遊んだ青写真が幽霊のような頼りない像をゆっくりと立ち上げるように、それらしい理由が浮かび上がってきた。面接で将来計画や自分の長所について話しているとき、あるいは入社希望理由を書類に記入しているようなとき、「今話している人、今考えている人は『私』ではない」という不安な思いが今日子を金縛りのように捉えることがあった。
 そして、この不安感には既視感が伴っていた。それは嫌々ながらの受験勉強に勤しんでいたときと奇妙に似通っていた。内心では心の底から無意味だと思っている歴史の年号の暗記に励む一方、絵具は押し入れの隅に押し込められ、スケッチブックを開くこともない。好きなことを諦めて、好きでもないことに眠る時間を削ってまで打ち込んでいる自分が、哀れというよりも滑稽に思われた。それでも高校生の今日子は受験勉強を止めることはなかった。
 「あのときと同じだ!」
 こう悟った途端、今度はもうそれまでのように就職活動を続けることは無理だった。
 どうしても、何が何でも絵本作家になりたいと強く思ったわけではない。自分に幾分かの才能があると自惚れたわけでもない。が、もしもいま、少しでも自分がしたいと感じていることをせず、周囲の波に漂うようにして就職してしまえば、それこそ取り返しのつかないことになってしまうのではないか。もうこの先自分は自分自身を信用することができなくなってしまうのではないか。
 この不安を直視できた後のことは比較的容易だった。恐る恐る打ち明けた父母は予想外に落ち着いて話を聞いてくれ、さらには現実的なアドバイスまでしてくれた。もしも本気で絵を描きたいなら、専門学校に通うことを考えた方がいいというのも元々は母が言ってくれたことだった。そして、調べてみれば、絵の専門学校の授業料は今日子が心配していたよりもずっと安価だった。たまたま名前を知っている、そして比較的好ましいと思っていた絵本作家が講師をしている学校を見つけ、とりあえずその学校に通うことにした。
 就職しないからには、いや、しないからこそ、できる限りは自立した生活をしなければならないと固く思っていた。父は「どうせ半人前だ」と笑って、大学生のときと同じ額の仕送りを続けてくれると言ってくれたけれども、学校の授業料だけは出してもらうことにして、せめて生活費の方は自分で工面したかった。
 幸いなことに、専門学校には元々住んでいたアパートからでも自転車で通うことができた。家賃は5万円。光熱費その他が2万円。そう考えると、最低でも10万円は必要になる。大学生だったときのバイト代は平均すると6万円くらいだったから、それでは全然足りない。もっと時給の良いバイトを求めれば、夜の勤務にするしかなさそうだが、風俗産業に関わることは論外としても、一人暮らしの身で深夜のバイトをするのはどうしても気が引けた。だからマスターの店のバイトを紹介してくれた友人のサポートは本当にありがたかった。その上、新しい学校で仲良くなった人たち−−専門学校には様々な年齢の、様々な経歴の人たちがいて、その点では大学よりもずっと面白かった−−、その人たちから「もっと家賃の安い物件があるよ」と教えてもらい、今のアパートに移ったこともあり、それで何とか学生生活を続けていける目処がついた。
 けれども、それ以前もそれ以後も、現に自分がしていることに対して自信も確信も持てたことはない。色使いに個性があるとか、構図の取り方が上手だと褒められれば、それなりに嬉しいし、そのときは自信にもなる。月に一度の学内のコンクールで上位に入賞し、周囲から羨ましがられたこともないわけではない。それでも、だからといって、自分が本当にプロの絵本作家になりたいのかと誰かに面と向かって尋ねられたら、おそらく返答に窮してしまうだろう。
 絵は好きだ。絵本も作ってみたい。しかし、その後は? そもそもプロになるってどういうことなのだろうか。いつか自分の絵本が書店に並べられる。きっとそれは喜ばしく、さらには誇らしいようなことであるにちがいない。そしてその本が売れてお金が入ってきたら、もちろん嬉しいだろう。だが、それは絵本を作ることと本来全く無関係だ。お金が入るというなら、例えば宝くじに当たっても同じように、もしかしたらその方がもっと嬉しいのではないだろうか。別に自分の本が売れるか売れないかは、どう考えてみてもそれほど重要なこととは思われなかった。
 だが、ここまで考えてくると、今日子は自分が袋小路に入ってしまったような気がしてくるのだった。「だったら、私はいったい何をしているのだろう?」
(さらに続く)
(H.H.)
posted by 冬の夢 at 22:42 | Comment(0) | 創作(詩・小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする