2020年07月13日

追悼エンニオ・モリコーネ 〜 口笛とギターとトランペットと

 イタリアの映画音楽の大家、エンニオ・モリコーネが亡くなった。と書いているが、実は訃報に接するまで「エンリオ」・モリコーネだと思い込んでいた。小学生のときにTVで外国映画を見始めたとき、まず西部劇にハマった口なので、最初に覚えた作曲家はエルマー・バーンスタインと「エンリオ」・モリコーネ。残念ながら小学生の私は映画雑誌のカタカナ表記を読み間違えたまま、Ennioの綴りを確かめることはなかった。何十年も親しんできたはずの人の名前を間違えていたとは、なんとおバカな映画愛好家だろうか。
 更に思いを巡らすと、映画監督や俳優の名前を勘違いしていたことが一度ならずあったのだった。例えばイングマル・ベルイマン。かなり長い間「ベイルマン」だと思っていた。だってその方が読みやすいじゃないですか。この間違いはあるとき自分で気づいたので事なきを得たが、『冒険者たち』のヒロイン役、ジョアンナ・シムカスのことは全く真剣に「シスカム」だと信じ込んでいた。学生の頃、『冒険者たち』に心酔していた友人から「間違ってるよ」と指摘されたのに「絶対にシスカムだ」と逆ギレして訂正を求めたくらいだ(言うまでもなく、当時はその場でググるなどの解決法はなく、家に帰って映画俳優年鑑のページをめくるまで正解に行きつかなかった)。

 そんなわけで急に見知らぬ人になってしまった気がするエンニオ・モリコーネなのだが、その音楽は頭の中にしっかりと植え付けられている。まずは旋律。哀愁を帯びているのに、一度聴いたら忘れられない強靭なモチーフ。そして口笛。『荒野の用心棒』(※1)のメインテーマは日本では「さすらいの口笛」というタイトルがつけられてレコード化されたほど、口笛の存在感が際立っていた。加えてスキャット、ハーモニカ、ギター、トランペット。これらが渾然一体となって哀しみのモチーフをリフレインする。するとどうだろう。見かけたことのない俳優たちが、ほとんどセットのない荒れ野の平地で、銃を構えて立つだけの映像が、なんともドラマチックに迫ってくるのだ。そう、エンニオ・モリコーネは音楽によって映像の見映えを変えてしまった。埃っぽく薄っぺらい設定が、モリコーネの音楽をつけるだけで、ニュアンスのある味わい深い印象に変貌する。それはほとんど一連のマカロニ・ウエスタンものの特徴でもあった。
 そのマカロニ・ウエスタンの創始者と言われた映画監督がセルジオ・レオーネ。レオーネの作品はモリコーネの音楽がなければ存立が危うくなるほどに音楽を前提に作られている。『続・夕陽のガンマン』(※2)の有名な決闘シーン。いい人、悪い奴、汚ねえ奴の三人が三角形に立って睨み合う。一度に二人に向かって銃は撃てない。では自分はどちらを撃つか。あるいは相手はどちらを撃とうとしているのか。西部劇の決闘と言えば一対一、または味方対敵が相対するものと決まっていた。それをわずかひとり増やしただけで、レオーネは多層化・複雑化した決闘に仕立ててしまった。三人の顔のクローズアップが連続し、顔の中の視線は左右にさまよう。この場面のモリコーネの音楽。三人はかき鳴らされるギターに促されるように立ち位置に向かう。そこに高らかなトランペットのソロ。そして一瞬の静寂の後、規則正しく打楽器がリズムを刻む。睨み合う三人。やがて再びトランペットが主旋律を奏でて三人の手は銃にのびる…。音楽なしに見たら面白さは半減。と言うか明らかにモリコーネの音楽があることを前提にショットが組み立てられているのだ。
 『続・夕陽のガンマン』によりレオーネはハリウッド資本を得ることに成功。そしてヘンリー・フォンダ、チャールズ・ブロンソン、ジェイソン・ロバーズというハリウッド俳優が勢揃いする大作『ウエスタン』(※3)を完成させる。その製作過程にあたってレオーネはまず最初にモリコーネに曲作りを依頼した。そして出来上がった音楽に合わせて撮影を進めたと言う。映像と音楽の表裏一体化。ミュージカルではなく西部劇における音楽のヴィジュアライズ。それをレオーネにインスパイアさせたのがエンニオ・モリコーネその人であった。

 ところで「マカロニ・ウエスタン」と言う映画ジャンルについては1960年代から70年代前半に栄え、以降は没落してしまった感がある。しかしながらモリコーネの音楽に象徴されるように、オリジナルな映画作りの土壌を作った点においてもっと評価されるべき作品群だった。その嚆矢となった『荒野の用心棒』は、舞台設定はハリウッドから、キャラクターとストーリーは黒澤明からのパクリであったが、それまでの映画にはない全く新しい「世界」を持っていた。その世界の根底にあったのは、ゴッタ煮による無国籍感覚、あるいは様々な価値観の排除だ。俳優はイタリア人とアメリカ人が混じり、撮影場所はスペインの荒れ野。西部劇にお決まりの「フロンティア精神」などはお構いなしに善悪の境界線も曖昧だ。もちろんインディアンによる「襲撃」もないし、東部と西部の対立もない。いろいろな制約はすべて取っ払って、「世界」を自由に組み立てられる。ある意味で非常にラディカルな映画製作が実践できた「マカロニ・ラボ」であった。
 同時にそのラボは製作費予算を潤沢には持てなかったし、映画業界からはキワモノ扱いされたのだろう。セルジオ・レオーネは『荒野の用心棒』の主演にヘンリー・フォンダやチャールズ・ブロンソンを望んだらしいが、それらのオファーはことごとく断られ、TVシリーズの「ローハイド」に出演していたクリント・イーストウッドが観光気分でヨーロッパに行くことになった(※4)。今ではこうしたエピソードのひとつとってもすでに伝説と化していて、マカロニ・ウエスタンの主演がなければ、映画監督としてのイーストウッドの活躍もなかったかも知れないし、フォンダとブロンソンは結果的には『ウエスタン』で共演し、レオーネの念願が果たされることになるのだ。

 エンニオ・モリコーネは、名声を手に入れたにも関わらず、ありとあらゆるジャンルの映画に楽曲を提供し続けた。どう見てもゲテモノとしか思えないような作品でもモリコーネの音楽だけは際立っていて、映画自体を乗っ取ってしまうようでもあった。一例をあげるなら、『ヒッチハイク』(※5)という超B級映画がある。コリンヌ・クレリーの裸体だけが売りなのに、モリコーネの音楽を身にまとうとなにやら倦怠感の漂うヒールアクションに見えてくるのだ。
 そのように映画の質や格を選ばす、請われた仕事を嫌がらずにこなしていたからか、賞には縁遠かったモリコーネが、アカデミー賞の作曲賞を受賞したのは、つい最近で2016年のこと。モリコーネは八十五歳になっていた。受賞作品は『ヘイトフル・エイト』(※6)。マカロニ・ウエスタンフリークでもあるクエンティン・タランティーノ監督からの満を持してのオファーだった。セルジオ・レオーネ風を踏襲した、見事なまでに悪人しか出てこない西部劇かつ密室殺人劇。さすがにタランティーノだけあって、映像が音楽に食われてしまうことはなかったが、モリコーネの楽曲は世代の違う才能とのセッションを楽しむようにも聴こえた。エンニオ・モリコーネに作曲賞を授与することが出来て、映画芸術科学アカデミーもホッとしたことだったろう。(き)


エンニオ・モリコーネ Ennio Morricone 1928年11月10日~2020年7月6日

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(※1)『荒野の用心棒』は1964年にイタリア・西ドイツ・スペインの合作で製作された。

(※2)『続・夕陽のガンマン』は1966年製作。英語版タイトルは”The Good,the Bad and the Ugly”で、TVの吹替版ではメインタイトルが出るときに「俺いい人、俺悪い奴、俺汚ねえ奴」と三人の声優による台詞が入っていたと記憶する。

(※3)『ウエスタン』は1968年、イタリア・アメリカ合作映画。蒸気機関車の横をヘンリー・フォンダのフランク一味が馬に乗って併走する移動ショットが素晴らしい。

(※4)TVシリーズの主演男優がイタリアへ出稼ぎに行く。クエンティン・タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のメインテーマになっている。

(※5)『ヒッチハイク』は1977年イタリア映画。調べてみたら、このB級作品の監督パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレは、ルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』『山猫』の脚本家であったことを知り、驚愕している。

(※6)『ヘイトフル・エイト』は2015年アメリカ映画。プロダクション・デザイナー(美術監督)の種田陽平にとって『キル・ビル』以来二度目のタランティーノ作品。



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2020年07月11日

ボブ・マーリーの歌を香港に贈りたい #3. No Woman, No Cry

 香港に贈りたい3曲目(そして、とりあえず最後の曲)は、ほとんど世界遺産級の名曲と言っても過言ではないNo Woman, No Cry。沖縄のグループ「ネーネーズ」のカバーも悪くはないけど、そして、「ネーネーズ」が沖縄民謡を歌うのを聴くのは好きだけれど、このNo Woman, No Cryをただの恋歌にしてしまうセンスには、正直、全く感心しない。というか、端的に見識を疑う。片一方では文字通りに命懸けで歌を歌っている人がいて、もう一方では「たかが歌なんだから、そんな目くじら立てなくても」と気軽に歌っている人がいる。そりゃ、まあ、どちらも歌の姿ではあるんだろうけど。
 しかし、話を元に戻して、Bob MarleyのNo Woman, No cryを。「命令形は祈願を表す」ということを教えてくれたのは、詩人の田村隆一だったけれど、このNo woman, no cry, oh my little darling, please don’t shed no tears! という叫びが、哀切な祈りであることも言うまでもないだろう。


No woman, no cry
No woman, no cry

Said I remember when we used to sit
In the government yard in Trenchtown
Observing the hypocrites
As they would mingle with the good people we meet
Good friends we have, or good friends we've lost along the way
In this great future you can't forget your past
So dry your tears I say

No woman, no cry
No woman, no cry
Oh my little darling, don't she'd no tears
No woman, no cry

Said I remember when we used to sit
In the government yard in Trenchtown
And then Georgie would make the fire light as it was
Log wood burnin' through the night
Then we would cook corn meal porridge
Of which I'll share with you

My feet is my only carriage
So I've got to push on through
But while I'm gone...

Everything's gonna be alright
Ev'rything's gonna be alright
Ev'rything's gonna be alright
Ev'rything's gonna be alright
Ev'rything's gonna be alright
Ev'rything's gonna be alright
Ev'rything's gonna be alright
Ev'rything's gonna be alright

No woman, no cry
No, no woman, no woman, no cry
Oh, my little sister, don't she'd no tears
No woman, no cry



女たち、誰も泣くな
女たち、誰も泣いてくれるな

言っただろ、おれはちゃんと覚えているって
トレンチタウンの政府庁舎の中庭で
座り込んでいたあの頃のことを
おれたちは偽善者たちにいつも気をつけていた
奴らは善良な人たちの中に必ず紛れ込んでくるから
いい友だちもいるけど、いい友だちを失いもした
そうやって今日までやってきたんだ
明るい未来でも昔を忘れるなんてありえないから
だから、涙を拭いておくれよ

言っただろ、おれはちゃんと覚えているって
トレンチタウンの政府庁舎の中庭で
座り込んでいたあの頃のことを
いつものようにジョージーが火を起こして
薪の火は朝までずっと燃え続けていた
あの頃よく作ったとうもろこしの粥、
それを今みんなと分かち合いたいんだ

自分の足だけがおれのたった一つの移動手段だから
こうやってがむしゃらに進んでいくしかないんだ
そしておれがいない間

全てがもっと良くなるはず
全てがもっと良くなるはず
全てがもっと良くなるはず
全てがもっと良くなるはず

だから、女たち、誰も泣くな
女たち、誰も泣いてくれるな
おれの大切な女友だち、どうか泣かないで
女たち、誰も泣くな

(注:トレンチタウンというのは、ジャマイカの首都キングスタウンにあるスラム街の名前だそうです。Bob Marleyもこのスラム街で暮らしていたことがある。ついでに、歌の中に出てくるGeorgieは、GeorgeではなくGeorgieなので、女の人の名前。巷にはこれを男性だと思っている人もいるようなので−−もっとも、LGBTが声高に叫ばれる21世紀では、こんな注記も野暮の極致か。)
(H.H.)
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2020年07月09日

ボブ・マーリーの歌を香港に贈りたい #2. I Shot the Sheriff

 ボブ・マーリーの歌を香港に贈りたい#1に続いて、2曲目は "I Shot the Sheriff" に登場願うことにする。先の "Get Up, Stand Up" の続編みたいだし。この曲は、一部からは「ブルースロックの神さま」とまで言われているエリック・クラプトンがカバーしたこともあり、もしかしたらボブ・マーリーの歌の中でも一番有名かもしれない。が、面白い(?)ことに、英語圏でさえも、この歌詞の意味・意図が読み取れず、何だか色々と混乱があるみたい。酷い(?)のになると、「この歌の主人公は、保安官だけでなく保安官補佐まで殺していたの?、二人も殺したの?」みたいな、超トンチンカンなことを言っている人までいるようだ。冗談じゃない。確かに、sheriffやdeputyが本当には何を表しているのかを判断するのは難しい。そもそも、deputyにいたっては、どんな日本語にするのがいいのか、今も悩んでいる。しかし、確実なことは、歌にある通り、彼はsheriffを撃ち殺したのであり(それも正統防衛的に)、deputyを撃ち殺したわけではない。それなのに、彼はdeputyを殺した咎で死刑に処せらそうになっている。つまり、厳密に言わなくても、冤罪ってことだ。これがこの歌のキモだ。そう考えると、今の香港にこれほど相応しい歌もそう滅多にないと思われる。香港人たちは自分たちの権利・権益を守るために立ち上がったわけだが、中国政権は何か別の理由をこじつけて、彼らを逮捕しようとしているんだから。でも、とにかく、I Shot the Sheriff!


I shot the sheriff
But I didn't shoot no deputy, oh no, oh
I shot the sheriff
But I didn't shoot no deputy, ooh, ooh, ooh

Yeah, all around in my home town
They're trying to track me down, yeah
They say they want to bring me in guilty
For the killing of a deputy
For the life of a deputy
But I say
Oh, now, now, oh

I shot the sheriff, the sheriff
But I swear it was in self-defense, oh no
Ooh, ooh, ooh, yeah
I say, I shot the sherriff, oh Lord
And they say it is a capital offense, yeah
Ooh, ooh, ooh, yeah

Sheriff John Brown always hated me
For what, I don't know
Every time I plant a seed
He said kill it before it grow
He said kill them before they grow
And so, and so
Read it in the news

I shot the sheriff, oh Lord
But I swear it was in self-defense
Where was the deputy? Ooh, ooh, ooh
I say, I shot the sheriff
But I swear it was in self-defense, yeah
Ooh-ooh

Freedom came my way one day
And I started out of town, yeah
All of a sudden I saw Sheriff John Brown
Aiming to shoot me down
So I shot, I shot, I shot him down and I say
If I am guilty I will pay (pay, pay, pay, pay, pay)

I shot the sheriff
But I say, but I didn't shoot no deputy
I didn't shoot no deputy, oh no, ooh, ooh, ooh
I shot the sheriff, I did
But I didn't shoot no deputy, oh
Ooh, ooh, ooh

Reflexes had the better of me
And what is to be must be
Every day the bucket a-go a well
One day the bottom a-go drop out
One day the bottom a -go drop out

shot the sheriff
But I didn't shoot no deputy, oh no, oh
I shot the sheriff
But I didn't shoot no deputy.

オレは確かに保安官を撃った
でも、保安官代理なんか撃ってない
オレは確かに保安官を撃った
でも、保安官代理を撃ったんじゃない

生まれ故郷の町中で
オレを捕まえようと大騒ぎしている
オレを有罪にしようとしている
保安官代理を殺した罪で
保安官代理の命を奪った罪で
でも、言っておくが、全然ちがう

オレは確かに保安官を撃ったさ
だけど、誓って言うが、あれは自分の命を守るためだった
神さま、確かにオレは保安官を撃ったよ
あいつらに言わせると、それが死刑に値するらしい

保安官のジョン・ブラウンはオレのことをいつも憎んでいた
理由なんか知らない
オレが種を蒔くたびに
伸びる前に刈り取れ
伸びる前に全部刈り取れと言いやがった
それで、それで、
後は新聞を読んでくれ

神さま、確かにオレは保安官を撃ったよ
だけど、誓って言うが、あれは自分の命を守るためだった
だいいち、いったいどこから代理なんて出てきたんだよ?
いいか、オレが撃ったのは保安官だ
そして、誓って言うが、あれは自分の命を守るためだった

あの日オレは自由になって
街を出たところだった
突然保安官のジョン・ブラウンが現れて
オレを撃ち殺そうと狙いをつけた
それでオレはあいつを撃つしかなくて撃ったんだ
もしもそれが罪だというなら、喜んで罪を贖うさ

オレが撃ったのは銃を手にした保安官だ
保安官代理なんかじゃない
オレが撃ったのは銃を手にした保安官だ
保安官代理なんかじゃない

あれは自然な反応で、どうしようもなかったんだ
そうするほかにはどうしようもないだろ
毎日井戸で水汲みに使われるバケツにも
いつか底が抜け落ちる日がくるんだ
いつか底が抜け落ちる日がくるんだ

オレは確かに保安官を撃った
でも、銃を持った保安官だ、保安官代理じゃない
オレは確かに保安官を撃った
でも、保安官代理なんか撃ってない

(H.H.)

(附記)
確証は全くないけれど、この歌を聴けば聴くほど、「オレは、オレに銃を突きつけ、オレを撃ち殺そうとした警官を仕方なく撃ったんだ;丸腰の、オレに危害を加える怖れのない警官を撃ったわけではない」と聞こえてくる。そうなると、ますます香港ソングのように聞こえてくる。




 
posted by 冬の夢 at 02:46 | Comment(0) | 時事 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする