2020年06月20日

夜の千切れ雲(3):人を殺した夢を見た朝の記憶

   人を殺した夢を見た朝の記憶

 「また同じ夢か」
 透は忌々しい気持ちで目を覚ました。いや、目覚める前から半ば覚醒した意識の中で、「また同じ夢を見ているんだな」と自覚していたことも同時に思い出していた。若い頃から彼には同じ夢を続けて見る奇妙な性癖がある。そして、続けて見る夢には非常に気持ち悪い、恐ろしい種のものが多かった。端的に悪夢と言っても過言ではなかっただろう。ごくまれに、どちらかと言えば楽しげともいえる夢を二晩、三晩と続けて見るということもあったが、やはりどうしても悪夢の方がインパクトが強いためか、鮮明に覚えている−−夢の内容についても、また同じ恐ろしい夢を何度も繰り返し見るという異常性についても−−のは、残念なことに気色悪いものばかりだった。
 最初にそれを自覚したのは高校生の頃だ。それは、こともあろうか、墓場で人間の死肉を食べさせられる羽目になるという夢だった。何かの宗教儀式のような場面に出会し、招かれるままに嫌々ながら墓地(カタコームと呼ばれる西洋風の地下墓地)で開かれている宴席につき、僧侶めいた(秘密結社風の雰囲気を満々に浮かべている)十数人の男たちと(女は一人も含まれていない)食事を共にする。もちろん透は周囲の景色が気になり、食が全く進まない。すると、近くに座している男たちが段々と不機嫌になる。そしてついに「なぜ尊い人たちの肉と骨で作ったスープが食べられないのか?」と罵られてしまう。と同時に、自分が嫌々口に含んだものの正体を知らされ、夢の中で激しく嘔吐してしまう。そして、「お前は悪魔だ!」という叫びが聞こえ、目を覚ます。高校生の透はこの夢をしつこく何度も見た。
 最初に見たときは、文字通りに恐れおののき、飛び起きるように目を覚ました。少し大袈裟かもしれないが、気が違ってしまったのではないかと自らを怪しんだりもした。よりによって人を喰う夢を見るとは。しかもその同じ夢を何度も見るのだから。
 透はこのことを誰にも相談できなかった。親に言えば無用に心配させるだけだろうし、友人に言っても気味悪がられるか、笑い飛ばされるだけだと思った。それに、内心その夢について思い当たることもあり、透はその気味の悪い夢の原因をそのことに帰して、ある程度は自分だけで「合理化」することに成功し、少しは安心することができた。
 その頃の彼はキリスト教と教会に興味を持ち、父母はおろか、親類や友人にもクリスチャンは一人もいなかったにもかかわらず、信者になるかどうか、信者になるべきかどうか、一人秘かに悩んでいた。夢はきっとこのことに関係しているのだろうと透は考えることにした。その上、ちょうどその頃、よく理解しないままに読んだ『カラマーゾフの兄弟』の影響もあるにちがいないとも思った。『カラマーゾフ』の中の、聖人とも目されていたゾシマ長老の遺体から腐臭が漂ってくるという「スキャンダル」が高校生の透に与えたショックは相当なものだった。言うまでもなく、作中のアリョーシャが受けた衝撃とは全く別種の、もっとはるかに即物的な衝撃ではあったけれども。
 加えて、キリスト教特有のサクラメント。日本の即身仏にもそれなりにおぞましい要素があるが、キリスト教の聖体拝領の儀式も、たとえそれが宗教的、象徴的行為だと頭では理解できても、やはり思春期の子ども、それも「異教徒」の子どもにとっては、どこか受け入れがたいものがあったにちがいない。そして、どうしてもそう考えずにはいられない自分自身の姿が、俄キリスト教徒の目から見れば「罪深い罪人」ということにもなったのだろう。ざっとこんな風に自分の夢を合理化することで、当時の透は心の平静を何とか保つことに成功した。

 しかし、大学生になってからも、続けざまに同じ夢を見て、驚いて目を覚ますということがしばしばあった。例えば、足下もおぼつかない暗闇の中を歩いていて猫に襲われる夢。相手はたかが猫なので、命を奪われるような危険はないはずなのに、夢の中ではそれこそ絶体絶命のような恐怖に取り巻かれ、大体は「目に爪を立てられたら失明してしまう!」という恐怖と共に、夢の中では悲鳴、現実には奇妙な唸り声で目を覚ましたものだ。
 何度も同じ夢を見ているので、その夢が始まると、夢の中でも「また猫に飛びかかられる夢か!」と思い、いつ、どこから猫が飛び出してくるのかと十分に覚悟し、身構えている。この前は左の足下からだった。天井から落ちてきたこともある。さあ今日はどっちからだ? 右か、左か、上か、下か! そう思っているのに、当然と言えば当然かもしれないが、猫の出現はいつも完全に予想外で、そのたびに心臓が飛び出すほどに驚かされ、目が覚めた。
 この夢を続けざまに見たときには、もしかしたら心臓が悪いのではないかと疑い、わざわざ心電図まで測ってもらったほどだが、幸いなことに心臓には何の異常も認められなかった。
 他によく見たのは空を飛ぶ夢だ。これははたして悪夢と言うべきものなのかどうか、透にも判然としなかった。だが、すでにフロイドやユングの深層心理学を大学で聞きかじった後だったこともあり、自らの性的リビドーが本当にこんな形で発動されているのかと思うと、一人秘かに恥ずかしい気がしないでもなかった。そして、毎回そうだったわけではないが、ときには墜落と共に目覚めることもあり、そんなときはやはり悲鳴を上げることにもなった。それでも、夢の中で空を飛ぶこと自体は楽しい体験だったとも言えなくはなかった。
 ただ、困ったことに、その夢があまりにリアルで、夢の中で空を飛んでいるとき−−それはまるで自分が人間ムササビにでもなったかのように、鳥のように羽ばたくのではなく、唐招提寺のような大伽藍の屋根を全速力で駆け下りて、空中に向かって両手を広げると、それだけで身体が浮き上がり、空中を滑空する、そんな飛び方と決まっていた−−、あまりに自然に飛んでいるため、目が覚めた後も、もしかしたら自分は本当に空が飛べるのではないかという妄想がどうしても払拭できないという「副作用」を伴っていた。高いビルから飛び降りたら、実はそのまま空を飛べるのではないか。この死の誘惑には、どこか抗しがたい力が感じられてならなかった。さらには、この空を飛ぶ夢を見続けたおかげか、昔の人間がなぜ「生き霊」のような奇妙なものを信じる気になったのか、透にはその理由が分かるような気がした。
 フロイドによれば、性的リビドーはなぜか空を飛ぶ夢を誘発するらしい。とすれば、かなり多くの人間が夢の中では空を飛んでいるはずだ。そうした夢の中には自分の恋しい人や、逆に憎んでもなお憎みきれない相手のところまで飛んでいくような夢もあったことだろう。そして、昔のことであれば、感染症や流行病のために命を落としたり長患いをしたりする確率は現在よりもはるかに高かったであろうから、夢の中に出て来た人物がそれからごく近いうちに落命してしまうような偶然も少なからずあったにちがいない。源氏物語の六条御息所ももしかしたら空を飛ぶ夢を見たのかもしれないと透は考えている。

 このように同じ夢を続けざまに見ることが多かったので、透は今度もまたいつものあれだと思うことにはしていたが、それでも今度の夢もまたそれなりに、やはり不気味で忌々しく、意味が解らなかった。
 夢の中で透は−−姿形はすっかりちがっているが、意識は自分のままである他人の姿をした自分−−、見も知らぬ人間を殺して、その死体を呆然と−−殺したという自覚はあるが、何のためらいも、何の動機もなく−−見つめている。自分の横には自分の友人だという、やはり見知らぬ人間が、やはり平然として立っている。そして二人の会話は決まっている。
 「これは君がやったことだ」
 「そうか。これはぼくがやったことか」
 (「そうだ。これはぼくがやったことだ」というときもある。)
 「でも、そうなるのが当然だった」
 大体はこんな会話だが、奇妙なのは−−というか、全てが奇妙なのだが−−、この会話がまるでテレパシーのような感じで交わされていることだった。本当に話しているのか、それともお互いの心が読めるかのように理解し合っているのか、それが判然としないまま夢が進んでいく。そして夢の終わり、つまり目覚めるタイミングはいつも同じだった。その横たわっている死体の顔を確かめようとして−−つまり、それがいったい誰なのか、自分は夢の中でいったい誰を殺したことになっているのか、それを確かめようとして死体の顔を覗き込んだ途端に、なぜか強い驚き−−それは高校生のときに「お前は悪魔だ」と罵られて驚いたとき、そして猫に襲われて、目を引っ掻かれて失明するのではないかと恐れて悲鳴を上げたとき、そのときと同じような強い驚き−−を感じて目が覚めるのだった。

 しかし、どうしてもその顔が確かめられない。この「殺人」の夢を見続ける羽目になっているのは、おそらくこれが一つの原因にちがいないと透は考えた。事実、夢の中での彼は−−といっても、外見は全くの別人になっているのだが−−、
 「それにしてもおれが殺したらしい−−そう言われればそうなのかもしれない−−この男はいったい誰なのだろうか」という思いをどうしても押しとどめておくことができないほどにその正体を見定めたいと願っているようなのだった。

 この夢を見るようになってからしばらくの間、透はもちろん大きなショックを受けずにはいられなかった。五十年以上も生きてきて、ときには「あんな奴、死んでしまえばいいのに」と思わず願ってしまうようなことがなかったとは言わない。しかし、自分の中に何かしらの殺人願望が潜んでいたのかと思うと、やはり愕然とした。それなりに大切にしてきた小市民的道徳観が根こそぎ剥ぎ取られたかのような気がした。
 しかし同時に、何度反芻してもどうしても合点がいかないとも思った。というのは、どれほど考えてみても、「殺してやりたい」というほどに強い憎しみを覚えた記憶はなかった。仕事は平凡とはいえ、おそらく傍目には恵まれたものと思われるようなものであったし、彼としても大きな不満があるわけではなかった。仕事上の不満は、煎じ詰めればしつこい肩凝りのようなもので、要するに我慢するしかないものに思われたし、我慢できないようなものではなかった。
 私生活の方はいっそう平凡だった。若い頃にはいくつかの恋愛も経験したが、結局彼はずっと独り身だったし、おそらくはこの先も一人で生きていくのだろうととっくの昔に覚悟を決めていた。お喋りをしたり、ときには一緒に食事をするくらいの異性の友人はいるが、そうした女性の多くはすでに結婚しているか、たとえ独身であっても、お互いにそれ以上の関係になるとは露ほどにも思っていなかった。
 要するに、透の日常は比較的安定しており、強い殺意を育むような刺激は、良くも悪くも彼の生活の中にも周囲にもないと信じられた。それなのになぜ人を殺すような夢を何度も繰り返して見てしまうのだろうか? もしかしたら自分はジキルとハイドのような一種の二重人格で、自分では決して見ることのできない闇の部分に、自分では直視できないほどにおぞましい、何か化け物じみたものが隠れ潜んでいるのではないかと不安にもなった。
 ところが、それにしてはこの一連の夢は奇妙に平静な夢である。夢の中の死は、最後に目覚めるときの驚きを除けば、始めから仕舞いまでずっと淡々としており、夢の中の自分にも、そして半ば目覚めかけている自意識にも、何の動揺ももたらさなかった。その点では地下墓地で屍肉を食べさせられる夢とも、暗闇で猫に襲われる夢とも決定的に異なっていた。後者の二つの夢の場合、その夢が始まった途端、夢の中の自己は強い緊張を強いられ、おそらく心拍数も高まり、すぐ隣に人がいれば、「怖い夢にうなされているのだろう」と感づくようなものだったにちがいない。しかし、今度の夢にはそうした恐怖は何もなかった。
 一番奇妙だったのは、それが自分であって自分ではないという自覚の存在だ。おそらく全ての夢には、多かれ少なかれ、夢の中の自分と、「これはきっと夢だ。自分は今夢を見ているのだ」と意識している自分という、二人の自分が現れる。だから、自分が分裂すること自体はそれほど珍しいことではないのかもしれない。しかし、だとしたら、今度の夢は自分が三重に分裂しているようなものなのではないか。いずれにしても、自分ではない自分(と夢の中でもわかっている)が人を殺して、その死体を見つめながら、「このおれに殺されたこの男(男だとはわかっている)はいったい誰なのだ?」と不審のみが募って終わる(目覚める)夢を三度繰り返して見たとき、不意に透は気がついた。
−−この続きが見たいがために、夢が遺した謎を解きたいがために、何度も何度も繰り返し同じ夢を見るのだったか−−

 そう思えば、以前の経験にも合点のいくところが確かにあった。地下墓地の夢のときは、さすがに初めのうちこそ恐怖と嫌悪しか感じなかったが、夢の中の僧侶たちが、自分が根拠もなく想像していたロシア正教風の衣裳をまとい、それがもっぱらその頃夢中になっていたドストエフスキーの小説に由来していることに思い至った途端、「お前は悪魔だ」という、まるで全人格を否定するような罵声が、つまりは受洗を巡っての心の葛藤の反映だろうと理解した。すると同時に、もうその夢を見ることはなくなった。
 暗闇で猫に襲われる夢も、なぜその夢を見るのかが自分なりにわかった気になると同時に、彼の夜の世界から消えていった。透の理解では、猫は−−猫はどちらかと言えば彼の好きな動物だったので、その猫によって失明の恐怖を与えられたことは二重の衝撃だった−−彼の将来に対する不安、あるいは彼が将来に対して考えていたことに対する警告のようなものと思われた。
 大学生だったその頃、本来はどう考えてもお役所勤めには向いていない性格であるにもかかわらず、他人より少しばかり外国語が得意なことと、日本ではなく海外で生活してみたいという無邪気な願望から、外交官試験を受けようと考え、その準備を進めていた。当時の彼の学力であれば、難関と言われている試験に合格すること自体はあり得ない話ではなかっただろう。しかし、家族も、そしてごく親しい友人たちも、透が外交官に向いているとは思えなかった。「海外勤務がしたいのなら、外務省より大手の商社の方がまだ向いているよ」と異口同音にアドバイスされたけれど、外交官試験が難しいと言われていることが、逆に透の背中を無理に押しているようなものだった。困難と言われているものに挑まないことは、たとえそれが自分に不向きなものと承知していたにしても、単にそれだけでも自分のことを「敗者」と認めるのに十分な理由だと思い込んでいたわけだ。しかし、おそらくそれがために、彼の心の中では相当な葛藤があったことは疑いようがない。本来は近づく必要さえないものに向かって進もうというのだから、何らかの変調が生じるのも当然だろう。そして、猫が行手を阻んでくれたというわけだ。実際、この夢の場合、透が何かを悟ったからというより、単に彼が自分は官僚には決して向いていない、もう少し自由に動ける余地の残された仕事でなければ長くは続けられないだろうと考え直したとき、もう禍々しい猫は現れなくなった。
 これまでのこうした前例を思い出し、それらと重ね合わせ、おそらく今回も夢に隠された何かしらのメッセージが明らかにされれば、というよりも、それが知りたいがために、同じ一つの夢が執拗に繰り返されるのだろう。

 やがて、この夢の中に出てくる第三の男の存在が気になってきた。最後の目覚める瞬間、夢がとうとう終わるという瞬間を唯一の例外として、この夢の世界が徹底した平穏の中で展開されていること、そして中でもこの第三の男の特徴的な落ち着き振りは、この夢を見始めた当初の頃から気にはなっていた。いや、気になるというよりも、やはり気懸かりとか不安といった方が近かったかもしれない。
 この男は「全て」というわけにはいかないとしても、明らかに夢の中の透よりは多くを知っている役割だ。そして、まがりなりにも「透」が人を殺したことを彼に告げる以上、この男が証人ないしは目撃者であるか、あるいは裁判官のようなものであるのだろう。
 夢の中でこの男は友人という設定になっている。夢の中の論理に従う限り、この点については疑いを差し挟む余地はない。しかし、思い出せる限りの人物の中にこんな男はいなかったし、似たような姿さえ思い浮かばない。おそらくは透のそれまでの実人生の中で一度たりとも遭遇したことのない人物、つまり100パーセント架空の人物だ。だとしたら、そもそもなぜこんな人物が登場する必要、必然性があったのだろうか。
 というのも、殺人の真相を知っているらしいこの男には、告発者の要素というものが全く認められないのだ。普通に考えれば、この第三の男は透の良心とでもいうべきものを代表していそうなものだ−−だからこそ、本来の自分の姿と異なった姿をしている夢の中の透は、自分自身が人を殺したという意識も自覚もなく、したがって当然のことながら、良心の呵責というものからも免れている。まるで良心が分離されたかのように。しかし、この第三の男さえもが、透の行動を咎めることもなく、まるで「この先に駅がある」といった、単なる事実を告げる極めて淡々とした調子で「これは君がやったことだ」と言うだけなのだ。夢の中の殺人は誰からも非難されず、死体が常に静かに横たわっているように、全てが落ち着きはらっている。

 「不要な第三者の存在」。これが詩と小説の決定的な違いだと学生時代に耳にしたことがある。ほぼ同じ頃に、夢の論理と詩の論理が極めて近しいものであることも文学の授業で習ったような気がする。その頃はそんな知識がいったい何の役に立つのだろうかと不審に思ったものだが、今ではこうして立派に役立っている。これもまた極めて奇妙なことに思われてならないのだが……
 つまり、どう考えても不必要としか思われないこの男は、しかし夢の中に登場しているからには、断じて不要な人物ではなく、文字通りに必要不可欠な存在としてそこにいるはずなのだ。
 そして、再度不思議なことに、いったんそう思うや否や、透にはこの男が夢に現れる意味と働きがわかった気がした。事実として(もちろん、夢の中の事実として−−いや、夢を外の現実から見つめたときの事実として、と言うべきか−−)、この男が「目覚め」のきっかけを作り出していることに間違いはない。
 「これは君がやったことだ」という男の台詞は、まるで夜明け前に東の空がかすかに明るくなり、やがて訪れるはずの日の出の前触れとなるように、夢の中の透が死者の顔を確かめようとする、あの目覚めの決定的瞬間の前触れとなっていた。そして、死者を確認しようとした瞬間、あるいは確認した瞬間、夜明けの最初の一瞬の光が夜と朝の決定的交替を告げるように、透の夢は終わり、意識が全てを支配する時間が始まるのだった。

 透は繰り返し見る自分の夢について、おおよそこんな風に考えを巡らせた。今となってはこの夢ももう最初に見たときのような恐ろしい夢ではなかった。透は今では夢の中の殺人者の自分の姿を、それこそまるで第三者のように意識するようにさえなっていた。と同時に、この殺人を近くで傍観していたらしい男にもある程度の親しみを、親しみが言い過ぎだとしたら、単なる慣れを感じ始めてもいた。さらには、殺されて横たわっている男が誰なのか、この死体の存在がいったい何を暗示しているのかもおおよそ察しがついてきた。
 こうなってしまえば、もうこの夢にも別れを告げるときだろう。そして、過去に繰り返し悩まされた夢と同じように、いったん別れを告げてしまえば、もう二度とこの夢を夢として見ることはなくなり、透にはそれが単なる思い出として残ることになるのだ。 (H.H.)
posted by 冬の夢 at 16:41 | Comment(0) | 創作(詩・小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする