2020年06月09日

ウィントンの娘として、その言葉を聞く─2020年5月31日、あるトランペット奏者の発言 A

Just yesterday, I was walking with my 11-year-old daughter and she asked me, “Did you see the video of the man in Minneapolis?” “Yes” I said. I always talk to her about history and slavery and all kinds of stuff that she is not interested in - and probably overdo it for that reason. She asked, “Why did the man just kneel on him and kill him like that in front of everybody?“ Instead of answering I asked her a question back, ”If I went out of my way to squash something that was harmless to me, and stomped on it repeatedly and deliberately to make sure I had killed every drop of life in it, and then looked defiantly at you, as if triumphant. Why would I do that?” She said, “You hate bugs.” I laughed and said, “Let’s say it’s not necessarily a bug, just whatever I go out of my way to utterly destroy. Why would I?” She said, “Because you can.” “Yes,” and I further asked, “Why else?”

 昨日、十一歳の娘と歩いていて、こう聞かれたばかりです。
「ミネアポリスの人のこと、録画で見た?」
「ああ」と私は答えました。私はいつも、歴史や奴隷制度のこと、そして娘が興味を持たないことまで何でもかんでも語りかけています。興味を持たないからこそ、たぶんよけいに話すのです。
 娘は尋ねました。
「あの人は、なぜ彼をひざで押さえつけて、あんなに多くの人の目の前で殺しちゃったの」。
 答えるかわりに、娘に質問を返してみました。
「もしパパがいま、わざわざ、べつに害のないなにかを押しつぶそうと、何回もドシンドシンと踏みつけて、そいつを徹底的にやっつけちゃって、それから、お前を勝ち誇ったみたいにジロッと見たらさ、どうしてパパはそんなことをしたんだろうって思う?」
 娘は答えました
「虫が嫌いだから」。
 私は笑ってこういいました。
「あのね、虫じゃなくていいんだよ。何でもいいから、パパがわざわざ徹底的にやっつけるぞ、ってものさ。で、どうしてパパはそうすると思う?」
 彼女はいいました。
「そういうことができるから」
「そうだね」
 そして、さらに聞いてみました。
「ほかにはどうだい」



“Because you want to”, and then I said “Yes, but can you think of another more basic reason?” She thought for a while and just couldn’t come up with it. I kept it going saying and aggravating her,” It’s one of the most important ones.” After a few minutes she rolled her eyes and said, “Just tell me.” I debated with myself about telling her this last reason since it’s almost always left out of the national discussions when these types of repeated crimes by our peace officers are committed, but I figured, it’s never too early to consider the obvious. So, I said, “Because he enjoyed it. For him, and for many others, that type of thing is fun. Like them good ole boys in Georgia chasing that brother through the neighborhood to defend themselves.” It’s no more complex than that. She said,” hmmmmm....” unconvinced. And I said, “this type of fun is much older even than America itself.” I considered how different her understanding is of these things, if only just because of time, place and experience.

「パパがやりたいからでしょ」
 それを聞いて私はいいました。
「そうだね、でも、ほかのもっと、おおもとの理由は思いつかないかな」
 彼女は少し考えましたが、思いつけませんでした。
「とても大事なことなんだよ」と、私は話をやめずに娘を困らせました。数分して娘は目を回して頼みました。「教えてよ」と。
 娘にその、もっとも根本にある理由を伝えるかどうか、自問自答していました。というのも、このような警察官による罪が繰り返されるたびに、その理由を国をあげて議論することだって、ないまま流されるのが、だいたいいつものことだからです。しかし娘にいうことにしました。明白なことを知るのに、早すぎるなどということはないからです。
 そこで、娘にいったのです。
「お巡りさんはね、楽しんでたんだよ。彼にとって、ほかの多くの人にとっても、そういうことは楽しいんだ。ジョージア州で白人が黒人を、自分の身を守るといって近所を追い回したのと同じだ」。
 さきのも後のも複雑な説明ではなかったのに、娘は「う〜ん」と納得していないようすでした。
 そこで私は、こういったのです。「こういうことが楽しいというのはね、アメリカの歴史より古いことなんだ」。私は、娘が差別について知っていることが、私が話そうとしたことといかに違っているか知りました。時代と場所のことを知らず、経験がなければ、わからないことなのです。



During my childhood, raw racism and pure absolute ignorance was just a fact, but so was enlightened protest and determined resistance. It was the times, the 60’s going into the 70’s. With our Afros and the consciousness music of James Brown, Marvin Gaye and Stevie Wonder, younger brothers were determined not to put up with any bullshit at all, unlike our ancestors, who we felt had willfully endured and accepted disrespect. And it was so easy to believe they were acquiescent in their own degradation because we didn’t know anything about the deep deep sorrow and pains of their lives, because they bore it all in silence and disquieting shame. Now, those old folks are long gone, and each passing day reveals the naïveté of our underestimation of the power and stubbornness of our opponent. Now, our ancestors loom much larger albeit as shadowy premonitions in the background of a blinding mirror that is exposing us all, black and white.

 私の子ども時代は、生々しい人種差別も、それについてまったく無知であるということも、ごく当然の現実でしたし、正しい知識に基づく異議や断固たる抵抗も現実的なことでした。それは六〇年代から七〇年代にはいろうという時代でした。アフロスタイルの仲間たちと、ジェイムズ・ブラウンやマーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダーといった、黒人であることへの自覚を主張する音楽とともに、若い黒人たちは、ばかげたことは先祖たちのようにはがまんしないと、固く決めていました。私たち若者からすれば、先祖たちは蔑視を喜んで耐え、受け入れているかのように思えたのです。そして、上の世代は自分たちの人格を奪われても黙従しているんだ、と信じるのも簡単でした。なぜなら、上の世代の人生にある深い深い悲しみと痛みを、私たち若者は何も知らなかったし、年輩世代は、心がかき乱される屈辱のうちに沈黙して、悲しみや痛みを背負っていたからなのです。いまでは古い世代はとうに去って、日々がすぎるたび、対峙する相手の権力と頑強さを過小評価してしまった私たちの甘ちゃんぶりが明らかになっています。いまや、私たちの祖先たちの亡霊が、ますます大きくなって、凶兆を示しているのです。私たちをみな黒と白に分けて映し、まぶしくて見えなくする鏡の、背景に映っているかのように。


Racist mythology, social inequality, and economic exploitation used propaganda and physical lines of demarcation to create and enforce a state of mind. It was called segregation. Because my parents grew to adulthood in it and I was raised in it, I unknowingly believed in it, and even referred to myself as a minority. The late Albert Murray, my mentor and intellectual grandfather in Harlem, New York, dissuaded me from the segregated mindset with a penetrating question, “How are you going to accept being a minority in your own country? Is an Italian a minority in Italy?”

 レイシストたちの根も葉もない価値観や、社会的不平等、経済的搾取は、ある心理状態を作り、それを強めるため、プロパガンダや具体的な境界線引きを使ってきます。それが人種隔離といわれるものでした。私の両親はその中で大人になり、私もそこで育てられたので、知らぬ間に私は人種は分離されているものと信じ、自分自身をマイノリティと見なしてさえいました。亡くなったアルバート・マレイ、この人はニューヨークのハーレムで私の指導者であり、知的な面での祖父といっていい人でしたけれども、私にするどく質問することで、私が人種隔離的な考えかたをしてしまうのを防いでくれたものです。「お前はどうして、自分の国なのに自分がマイノリティだと認めてしまうんだね。イタリア人はイタリアにいるときもマイノリティなのかね」

Well, let’s see. That’s a question our country has to ask itself. If we are plural so be it. But we aren’t. We are segregated in so many more ways than race and if we are to be integrated, a nasty question remains: whose genes will recede and whose will be dominant? Who is them and who is us? Mr. Murray once told me, “Racial conflict in America has always been black and white versus white.” We see that in the current riots that have sprung up around the country. There are all kinds of folks out there and always have been. Any cursory viewing of protests in the 60’s reveals Americans of all hues.

 さて考えてみましょう。これはわが国が、わが国に向かって問わねばならない問題なのです。私たちは多元性の中にある、というなら、そうあるべきでしょう。しかし、そうなってはいません。私たちは、人種の違いのみならず、あらゆる手段で分断されていて、もし私たちが統合されるべき存在なら、汚らわしい設問がまだ残っています。遺伝子的に誰が後退すべきで、誰が主流だというのか? 彼らは誰で、私たちは誰なのか? マレイ氏は、かつてこういいました。アメリカの人種紛争は、つねに黒人と白人とが、白人に対して行うものだったと。最近、国中でわきおこってきている抵抗運動にも、同じことを見いだすことができます。あらゆる種類の民衆が外に出ているし、これまでもそうでした。六〇年代の抵抗運動をざっと見わたすと、たいてい、あらゆる肌の色のアメリカ人がいたものです。


But when all is said and done, and all the videos and photos become just a part of a protester’s personal narrative kit to be pulled out for kids and grandkids as a testament of their youth. When the enormous collective wealth of America passes from one generation to the next, who of our white brothers and sisters now so chagrined will be out in the streets then? Playing loud defiant music in your bedroom means one thing at 15, but it’s very different when it’s your house. Who will be out there making sure that their darker-hued brother and sister in the struggle has enough opportunity to feed their family, and a good enough education to join the national debate to articulate an informed position in their fight for their rights and responsibilities and the financial security to enjoy older age with the comforts of health, home, and happiness?

 けれども、すべてが語りつくされ、行動も終わり、あらゆる録画や写真が、抵抗運動をした人の若いころの証として、子どもや孫たちに思い出話をするとき引っぱり出す、それぞれの記念品のひとつになったら、そしてアメリカの巨大な富の集積が、次の世代へ継承されるのが完了したなら、いまは無念に思ってくれている私たちの白人の兄弟姉妹のうち誰が、また街路へ出て行くことがあるでしょうか。十五歳のときに、自分の部屋で反抗的な音楽を大きな音で鳴らすことには、ひとつの意味はあります。けれども、いまになってその家の持ち主となったあなたが同じことをやるとしたら、まったく違うことになるのです。抗議行動をしている濃い色をした自分の兄弟姉妹たちが、家族を食べさせられる充分な機会を得ていると確信でき、権利と責任を得る闘争では、しっかり知識を持って立場を表明するため、国レベルの討論に加われるような、質が高い充分な教育を受けていると確信もできて、さらには健康や住居そして幸福に満足しつつ引退生活を楽しめるだけの、経済的安定を得ているということまで確信したなら、いったい白人の誰が、わざわざ街に出て抗議運動に加わってくれるでしょうか。


If the 80’s Reagan revolution is any indication, don’t hold your breath for the “post racial America” that we were supposed to have achieved without having corrected or even acknowledged any of the real problems.

 八〇年代の、レーガンの保守化革命といわれたあの政策に、なにか教わるものがあるとするなら、いかなる現実的問題も修正せず、それどころか問題の認識さえないまま、私たちが達成されると思い込んでいた、かの「人種差別以後のアメリカ」などというものは、いまもかたずをのんでわくわくしながら待つものではない、ということにすぎません。


The whole construct of blackness and whiteness as identity is fake anyway. It is a labyrinth of bullshit designed to keep you lost and running around and around in search of a solution that can only be found outside of the game itself. Our form of Democracy affords us the opportunity to mine a collective intelligence, a collective creativity, and a collective human heritage. But the game keeps us focused on beating people we should be helping. And the more helpless the target, the more vicious the beating. Like I was trying to explain to my daughter, something just feels good about abusing another person when you feel bad about yourself.

 いずれにせよ、黒いことや白いことがアイデンティティとして構築されている、そのこと全体が、虚構なのです。ゴミのような迷宮です。あなたを迷わせ、どうどう巡りさせて、そのゲームそのものから離れなければ見つかるわけがない解決を探させるために、作られたものなのです。私たちの民主主義がもつ仕組みは、ひとつに集約された知性、共有しうる創造性、人類共通の資産、そうしたものを、私たちが発掘できる機会をもたらしてくれます。しかし分断によるゲームは、救うべき人々を痛めつけることに集中させるのです。攻撃される人が救われなければ救われないほど、攻撃もひどいものになります。自分のことをつらく思っていると、ほかの人を虐待することに、ある種の心地よさが感じられるのです。私が娘に説明しようとしたように。

→【Bへつづく】

200610PP.JPG 
FROM THE PLANTATION TO THE PENITENTIARY 2006

(ケ)

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■誤訳がありえます。そのため、訳文の複写使用は控えていただくよう、お願いします。

Originally Uploaded on Jun 11, 2020 14:30
posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 時事 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする