2020年05月31日

たまには詩でも #12

※ 欧米の近代詩には「散文詩」と言われるものがある。ボードレールやツルゲーネフが有名だ。「近代化」に余念のなかった日本(人)も当然のように「散文詩」というものを書き始めた。しかし、日本の近代詩の中で、「散文詩」にいったいどれほどの意味があるのか、悲しいかな、愚生にはわかりかねる。最初から韻律という、あの単調かつ執念深い七五調から遠く離れることを夢見てきた近代の口語自由詩の正体は、結局は全て「散文詩」なのではないか。おそらく死ぬまでこの疑念(?)が晴れることはないと思う。
 にもかかわらず、ときどき「散文詩」のようなものを書いてしまう。ちょうど、ときどき短歌もどきが出来たり、俳句もどきを作ってしまうように、ときに不自然かつあまりに作為的と感じられる行送りをする気にならず、また、どこかに甘えた調子が残る体言止めから逃れたいと思うのか、その結果「散文詩」と言われるものとよく似たものが現れる。これが「普通」の詩とどう違うのか、自分でもよくわからない。おそらく、「行送りをしない詩」とでも言うのだろう。


1 言語的動物
 人間を言語的動物といって、人間と言葉の関係を特別にありがたいものと思っているようだが、もしかしたら言葉は人間と現実世界との接点、接線に介在し、人間と世界の橋渡しをしているというよりも、人間が世界に直接触れることを妨げているだけではないのか。まるである種の被膜のように。言葉のせいで人間は現実に触るどころか、現実を直視することさえできない。これが「人間とは言語によって堕落した動物」とケネス・バークが言った意味だろう。
 ところが、驚くべきことはこのまだ先にある−−言葉に対する盲信こそが人を狂気から救う。

2 故障
 時計のような機械でさえ歯車がほんの少し摩耗するだけで動かなくなってしまうのだから、造化の傑作と言われる人間が、他の人にはどうしたってわかりっこないささいなことで壊れてしまうのも、当然すぎるほど当然なことだろう。目には見えない微生物が人を殺すことだってよくあることなのだから。

3 エロース/タナトス
 物故した詩人や音楽家の作品が気になって仕方ない自分の性癖が少し風変わりなのかもしれないとは思っていた。そしてある日、不意に気がついた。それがタナトスの働きに他ならないことに。本来芸術の創造は、それが創造である限り、エロースの営みであるはずだが、創作家の死によって作品に奇妙な、微妙な変化が生じる。それはほんのわずかな、あるともないともつかない不思議な染みのようなものだけれど、それでもどうしても否定しがたく存在している。生に死が否定しがたく付き従っているように。

4 水滴
 雨の朝は普通は嫌がられる。人は濡れるのが嫌いな動物だ。他の哺乳類とは違って、水をはじく体毛で被われていないので、雨に当たるとびしょ濡れになってしまうからだろう。突然の雨でも降ろうものなら、野生の生きものとは比べるまでもなく、どんな家畜よりも激しくうろたえる。
 しかし、植物は全く逆だ。雨の朝の植物は、その雨がよほどの豪雨でもない限り、みな生き生きとしている。「瑞々しい」という表現がいかにもふさわしい。雨の朝は、雨の滴が鈍く、かすかに輝いている。

5 スケッチ
 二足歩行を覚えた猿は手を動かすのが楽しくて仕方ない。それで暇があると何やら無闇矢鱈と手を動かしている。(次いで話すことも覚えたので、もちろん口を塞いでおくことも難しい。)スケッチするのも詩を書くのも、ほとんどこれの延長だ。スケッチも書き連ねた言葉も、基本にあるのは手を動かす喜びにちがいない。だから、スケッチはただのスケッチで、普通はまだ作品ではない。作品の素材に過ぎない。(スケッチがそのままで作品になることは極めて特殊な場合だ。)一方、詩の方は、ただの素材に過ぎないものが一人前の作品のような顔をして大威張り。−−つまり、求められているものは、単なるスケッチではない詩だ。 (H.H.)
posted by 冬の夢 at 01:16 | Comment(0) | 創作(詩・小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする