2020年05月10日

「学習指導要領」と文科省の無能ぶり

 コロナウイルス(COVID-19)が脅威となっている現在、極めて残念なことだけれど、この日本というシステムが3流のポンコツであることが明らかになりつつある。安倍政権の無能さは言うに及ばず、必要な情報と無用な情報の区別もつかないマスコミ(いくらニュースや解説を聞いても、例えば、いまだにマスクがどこで手に入るのか、あるいはなぜいまだに手に入らないのか、なぜ政府が2枚の布マスクを配布するなんて馬鹿げた政策を打ち出したのか、そのくせ、どうしてそれがいまだに配布されないのか、全然わからない)、行政に向かって建設的な提言もできない経団連に代表される実業界(メーカーや流通業界として、どんな対策が必要で、どんな条件であれば営業活動が可能なのか、もっと積極的に働きかけない限り、早晩、日本経済は完全にKOされるだろう)、感染の有無さえも検査できず、そのくせ医師や看護師を生命の危機に陥れている医療体制。そして、小学校から大学まで例外なく崩壊している教育制度。これほど全方位的にダメダメの中で、唯一誇れるものがあるとすれば、それでもまだ暴動も騒乱も生じていないという、庶民の辛抱強さ、大人しさなのかもしれない。(が、これさえも、お上から「死ね」と言われれば粛々と死んでいく羊のような従順さ、愚鈍さの反映かもしれず、果たして本当に誇っていいものなのか……)

 多くの大学では、どうやら前期の授業は全てオンライン、インターネットを介して行われるらしい。ネット回線や個々人の通信量が対応できるのであれば、それはそれで結構なことかもしれない。映画は本来映画館で観るものとは思うが、実際にはDVDやネット配信を使い、自宅の大小のモニターで観るのが当たり前になってしまったように、いずれは大学の授業も、教室だけではなく、モニターを通して受講するのが当たり前になるのかもしれない。テクノロジーの発達と共に教育の手段と方法が変化するのは当然だろう。
 しかし、小学校の授業、とりわけ低学年の授業をインターネットのみで行うのは、端的に無理というものだ。誤解を恐れずに言ってしまえば、小さな子供にはまだいささか動物じみたところがあり、彼らの教育は頭を使うというよりは身体を使って行われるべきものだから。適度なスキンシップと物理的な教材(つまり、手で触ることのできるモノ)なしに小さな子供が成長するとは信じられない。したがって、学校再開に当たって真っ先に優先されるべきは、受験を控えた学年ではなく、小学校1〜2年生だったはずだ。こんなところにも、文科省のド阿呆振りは存分に発揮されている。

 けれども、学年が上がるにつれて、画面を介した教育でもある程度の効果が期待できるようになる。そして、その効果の大きさは、子供の方にそれなりの学習意欲がある限りは、子供の発達段階と正比例と考えても間違いないだろう。つまり、高学年になればなるほど、インターネットなどを介した代替授業が意味を持つことになる。

 ところで、たった今「インターネットなど」と書いた点にこそ、実はこの記事の主題でもある、文科省のどうしようもない無能振りが潜んでいる。勿体ぶらずに言えば、なぜ文科省はさっさとテレビを使った全国版の授業を配信しないのか? 天下?の準国営放送を使って、「小学校3年・社会」とか「中学1年・国語」とか「高校・代数幾何」という授業を、それこそ文科省お墨付きのエリート教員にさせればいいのに。(高校に関しては、もはや義務教育ではないので、それなりの援助を行った上で、各学校の裁量に任せた方が賢明かもしれないが、そもそもこの「テレビ授業」のプログラムを利用するかどうかを各学校の裁量に任せれば、それで十分だろう。問題の核心は、今のこの時期にどうしたら児童の「教育を受ける権利」を保障できるのかということにあるのだから。)

 準国営放送局は、すでにインターネット回線ではいくつかの教育関連プログラムを流しているらしい。しかし、ネット配信ではまだ不十分だ。現在でも山間地などではスマホがまともに使えない地域があるとき、日本中の子供たちに学習機会を提供しようと思えば、テレビとラジオに優るものはない。テレビの電波が届かないエリアは限りなく少ないし(一説では、住民票のあるエリアでは必ず受信できるらしい)、仮にテレビを持っていない人でも、行政が貸与すればその日のうちに利用できるようになる。簡便さにおいて、パソコンとは比べようもない。それなのに、文科省はテレビの利用を全く考慮に入れていないようだ。

 文科省に対してなぜこんなに腹を立てているのかというと、日本には「学習指導要領」というものが厳として存在するのに、その積極的な意義を当の文科省が全く理解していないからだ。学習指導要領は英語では通常 National Curriculumと言われるもので、つまりは全国統一教育カリキュラムのことだ。言い換えれば、学習指導要領のせいで、日本では原則として(あるいは建前として)全国どこでも同程度の内容を持つ授業が行われており、また行われなければならない。学習指導要領から逸脱した授業は処分の対象にさえなる。日本中どこの教室でも、授業の中身は多すぎてもダメ、少なすぎてもダメ。難し過ぎてもダメ、簡単すぎてもダメ。例えば、慰安婦問題や原爆投下の是非の問題は学習指導要領に「教えるべき」と書かれていないので、社会科の先生がその問題を熱心に教えると、たとえその授業が細心の注意を払って政治的中立に努めていたとしても、「学習指導要領から逸脱している」と注意され、中止を求められるだろう。また、子どもたちが興味関心を持っているからといって、中学校でアラビア語やロシア語を正式な科目にすることもできない。一言でいえば、この学習指導要領というのは、教員にとっては基準でもあるが、足枷でもある。しかし、これがあるおかげで、世のサラリーマンは子供を連れてどこにでも安心して赴任できる。日本中どこでも同じ教育をしている建前なのだから、転校が当然保障される。「いや〜、ここは東京とは教育方針が違うので、東京からのお子さんは受け入れられません」なんてことはあり得ない。これはNational Curriculumを持っている社会の一番のメリットだろう。
 
 もちろん、デメリットは数え切れないくらいある。中でも大きな害は教科書検定だ。今は詳述しないが、国定カリキュラムがある以上、国定教科書も用意されてしまう。せめて教科書に多様性が認められるか、あるいは、複数の教科書の同時使用を認めない限り、自民党による洗脳教育という側面を拭い去ることはできないだろう。実際、教科書、特に社会科と国語の教科書は、よくよく気をつけて眺め回してみれば、立派な洗脳装置といえる風情を醸し出している。もっとも、そもそも公教育というものは、どうしても不可避的に現体制擁護の側面を持ってしまう。これはことさら日本(やお隣の中国、韓国)に限った話ではない。世界中どこの教科書も、自分の国の体制擁護にしゃかりきになっている。全国統一のカリキュラム、学習指導要領の存在は、教育を支配し、次世代の人心をも掌握しておこうという権力の発現ともいえる。したがって、いわゆる「大きな政府」や「個人の内面生活への行政の干渉」を忌避する自由主義者の中には、公教育を拒否して、もっぱら私教育(つまり、子供の教育は親の責任で行う)で子供を育てる人も、少なくとも西洋では少なくない。(日本でも学習指導要領による束縛は、比較すれば、私学の方が少ない。例えば、私学であれば特定の宗教教育も行うことができる。教科書選択の自由も広かったと思うが、この真偽については100%の自信はない。)ともかく、学習指導要領には負の側面があり、それをありがたがるだけでは間抜けの誹りを免れまないだろう。

 それでも、前述の通り、学習指導要領のおかげで、日本の津々浦々、大都会から過疎地域まで、一定水準の公教育が保障されているわけだ。そして、これこそが両刃の剣でもある全国統一カリキュラムの最も評価すべき長所なのである。ところが、アホの文科省は、コロナウイルス蔓延による未曾有の危機の最中、せっかく自分たちが策定し、作り上げたこの伝家の宝刀の意義さえ失念しているようだ。まあ、文科省にとっては、学習指導要領というのは、ひたすら支配のための装置に過ぎず、その真の意義なんてものは、彼らは端から理解していなかった、いや、想像すらしていなかったのだろう。思いがけなく馬脚を示したいうことか。

 学習指導要領がある限り、日本中で同程度の、ほぼ同じ中身の授業が実施されているのだから、つまりは、1科目につきたった1つの授業さえあれば事足りるはず。いや、足りるということはない。それは言い過ぎだ。しかし、1科目につき1つの授業がテレビで放映されれば、それで最低限の授業が確保できることは確かだ。そして、今のような危機的状況において是非とも確保されなければならないのが、「最低水準の授業」であることも確実だ。だからこそ、「危機的状況」と言われるのだから。

 実際問題として、日本中の全ての小・中学校でオンラインの授業を実施するなんてことができるはずがない。学校にはそんな設備もノウハウも足りないし、子供たちの方もそんな環境にない。またまたアホな政府が、パソコンや通信機器のない家庭には無償供与を行う、みたいなことをほざいているようだが、これまた「アベノマスク2枚」同様、何をどう勘違いするとこんな愚策が提出できるものやら。パソコンと無線wifiが与えられたとして、通信料金はどうする気なのか? 大手通信会社が50ギガまでは無料にすると言い出したそうだから、もしかしたら通信料金の問題もクリアできるかもしれない。しかし、これまでパソコンなんて使ったことのない子供に、どうやって使用法を教えるつもりなのか? 頼りの学校は開かれていないのに。スムーズなオンライン授業を展開するには問題が山積している。が、すでに昨年度末から2ヶ月近く公教育は機能できていない。2ヶ月といえば1年の6分のTに相当する。しかも、折り悪く、休校時期は年度初めときた。小学校や中学校の1年生、特に小学校1年生には今後深刻な影響が現れるにちがいない。

 現実的に考えていけば、「小学校1〜2年生は、1クラス10〜20人程度で、午前中授業」、「その他は学校の実状に委ねる」、「教育の最低限の保障は、テレビの特別チャンネルで実施する」、等々の施策を超特急で決めていくしかないはずなのに。しかし、最初に記したように、今の日本はあまりにポンコツだから、ほとんど何も期待できない。これほどのポンコツ社会を作り上げた事実こそ、文科省(旧文部省)の最大の成果に違いない。自分が受けてきた小学校〜高校の授業を振り返れば、それがどれほど無益に単純な暗記を強要し、目先のことしか考えられない人間を作り上げることに邁進していたことか。アホらしい暗記力テストで篩にかけられ、クイズ番組と大差ない入学試験で選別され、クイズ王がお利口さんということになり、そんなのが社会の中枢で活躍する。言ってみれば、小利口な「おこちゃま」がエリート様なわけだから、マスク2枚も理の当然。これからも唖然とさせられる施策が続くことだろう。新型肺炎は確かに怖い。しかし、それ以上に、ポスト・コロナ社会の有り様が、すでに怖い。(H.H.)

(「学習指導要領」に興味関心がおありなら、天下の文科省のサイトが充実しています。)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/idea/1304372.htm
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1384661.htm
posted by 冬の夢 at 01:57 | Comment(2) | 時事 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする