2020年04月20日

無観客の皐月賞と外出しないこと

 2020年4月19日のJRAメインレースは第80回皐月賞。三歳牡馬によるクラシックレース初戦だ。結果はホープフルステークス圧勝の後、休養明けでの出走となったコントレイルが、サリオスとの競り合いを制して優勝。鞍上の福永祐一騎手は皐月賞での初勝利となり、これで三歳馬五大クラシックレース完全制覇(※1)を果たすことになった。
 福永祐一は1996年に騎手デビュー。落馬事故によって三十歳が最終騎乗となった天才騎手福永洋一の息子だということで、新人時代から騎乗依頼に事欠くことなく勝ち鞍を重ねてきた。初めてのクラシック勝利は1999年プリモディーネに乗った桜花賞。待望の日本ダービーは、一昨年ワグネリアンで獲得。父・洋一の宿願でもあったダービージョッキーの座に就いた。
 父の落馬は祐一が二歳のときの出来事だから、現役時代の父のことは知らないはず。それなのに母親の大反対を押し切り、懸命にリハビリする父と同じ職業を選んだのは、武豊に憧れたからだと言う。桜花賞勝利はデビュー四年目のことだったが、その翌週に落馬し左腎臓摘出の大怪我を負う。そのせいもあってか、G1レースに勝てない時期が何度もあった。今回の五大クラシック制覇は二十一年かけてのこと。武豊の十一年に比べると倍近い時間がかかっている。そんな福永祐一だからこそ、無敗の皐月賞馬となったコントレイルで二度目のダービー戴冠を狙ってほしい。父・洋一の騎乗ぶりは空を飛んでいるようだと形容された。コントレイル=飛行機雲が、息子・祐一を空に運んでくれるのを期待したい。

 さて、今回の皐月賞は、周知の通り無観客で行われた。普段なら中山競馬場に十万人近いファンが押し寄せるところ、スタンドには誰ひとりいない。新型コロナウィルスの感染拡大に対応して、日本中央競馬会では今年2月29日から無観客開催を続けており、競馬場にも場外勝馬投票券発売所にも入場することは出来ない。では、なぜレースだけが行われているかと言えば、インターネットで馬券が買えるからだ。しかもいとも簡単な手続きでパソコンやスマホから購入が出来てしまう。実は私も今回の皐月賞出走三時間前に思い立って「即PAT」の会員になってコントレイルの単勝馬券を買った。三月末に行われたG1レース高松宮記念は前年を上回る売上を記録したらしい。新型コロナウィルスで外出自粛要請が出されるようになり、家で過ごす人が増えたことも一因なのだろう。中央競馬の無観客開催は、感染拡大防止と経済効果維持をなんとか両立させているようである。

 しかしながら「無観客」がどこでもうまく行っているわけではない。プロ野球はオープン戦全七十二試合を無観客で開催したものの、シーズン開幕には至っていない。大相撲も大阪での三月場所を無観客で強行開催した後、一部の部屋で力士に感染者が発生し、初日の予定を二週間遅らせた五月場所は実施出来るかどうかわからない。
 プロ野球オープン戦も大相撲三月場所もTV中継だけはされていた。スポーツ観戦好きの身としてはいつものようにTVをつけてみるものの、やはりいつものようではない。東京ドームも大阪府体育館も観客席は空っぽ。歓声も応援の声もない。中にはそれが良いと言う人もいる。ある人は投球がミットに当たる音が新鮮だと言い、別の人は力士の頭がぶつかり合う音に迫力があると言う。しかしそうだろうか。それらの音は誰にも受け止められることなく、中空をさまようばかりで、虚しさを上塗りする効果しかなかったように見えた。
 一方ですべての活動を中止したうえで、あえて「無観客」を試みたのが歌舞伎公演。国立劇場、歌舞伎座、新橋演舞場などは三月以降の公演をすべて取りやめたため、チケットはオールキャンセルになった。スポーツ観戦以上に「密閉・密集」の危険性がある劇場公演では致し方ない。それでも舞台装置や鬘、衣装など上演に向けて準備してきたものがすべて無駄になってしまうことも事実。ならばと「無観客」で一日だけ役者が集まって芝居を行い、その模様を収録した映像をYouTubeにて期間限定で無料公開することにしたのだった。
 そのYouTubeで私が見たのは、国立劇場の小劇場で上演されるはずだった『義経千本桜』の「渡海屋」と「大物浦」。かつて見たときも寝てしまった記憶しかないように、物語に入り込まない限りは決して面白くは見られない出し物だ。実際にYouTubeで見続けるのは少なからず難儀だった。集中出来ずにぼやぼやと眺めていたら「生き変わり死に変わり恨みはらさでおくべきか」という台詞が聞こえてきた。『魔太郎がくる!!』(※2)の決め台詞は浄瑠璃が元ネタだったのかと知ったのだけが収穫ではあった。

 スポーツにしろ演劇にしろ、TVやネットで見るということ自体は現代において開発された愉しみ方だ。プロ野球はともかくとして、相撲と歌舞伎は江戸時代から続く興行もの。興行とは本来「演芸やスポーツを行い、入場料をとって客に見物させること」(岩波国語辞典)であって、観劇や観戦を目的とした観客を集めることでしか成り立たない。観客のいない興行は有り得ないし、観客がいないところで行われるとしたら、それは単なる稽古や練習でしかないだろう。確かにスポーツには審判がいて勝ち負けを判断するし、演劇では演出家や師匠がいて芸に駄目出しをする。しかしそれはスポーツや演劇にあらかじめ組み込まれた前提条件のひとつに過ぎない。審判も師匠もその本分は結果を客観視することにある。客観とは観客の視点に他ならず、その意味で本当のジャッジは観客がするのだし、芸の良し悪しは見物人が決めるのだ。
 主体と客体。この両者が揃うことではじめて興行が成立する。見る者と見られる者。見られる者は同時に魅せる者であり、見る者は魅せられる者でもある。主客は「見る」と「魅せる」の間を行きつ戻りつしながら一体となる。「主客一体」とは茶の湯を表す言葉。茶を振る舞う主人だけでは何も出来ず、招かれる客人がいてはじめて茶の湯の場が出来する。興行も等しく主客一体に他ならない。
 無観客の『義経千本桜』がつまらなかったのは、もちろん私がこの物語の基本をよく理解していないこともあるのだが、観客のいない舞台で役者たちがどこか空々しく演じているようであったからだ。大相撲の三月場所も同様で、結びの一番がまるで幕下の取組のように感じられたのは、上位対決の場を盛り上げるべき観客の不在に起因する。
 見る者と見られる者は、感じる者と感じられる者と言い換えられる。感じるとはすなわち意識すること。スポーツにしろ演劇にしろ感じる者も感じられる者も互いのことをいつのまにか恐ろしく深く意識している。数万人のスタジアムの中で優勝が決まるペナルティキックを蹴るサッカー選手。彼または彼女はひとりきりの練習と同じようにボールを蹴ることは決して出来ない。失敗するかも知れない。そのせいで負けるかも知れない。その意識を数万人の観客もまた意識している。あいつ大丈夫なのか。また外すんじゃないだろうな。なんとか決めてくれ。そんな万単位の意識の集中を受け止めて乗り越えた者だけが勇敢にも一本のキックを蹴ることが出来る。成功するか失敗するかは誰にもわからない。ただそのキックを蹴る者こそがプロフェッショナルであると誰もがわかっている。
 先日亡くなったプロ野球監督の野村克也が、チームミーティングで最初に配布するのを常としていた「野村ノート」。その冒頭には「グラウンドと観客席との空間にこそ"生き甲斐"が存在する」(※3)と書かれていた。選手と観客。役者と見物。お互いに主となり客となり、主客がひとつになって同じ時空を共有する。これこそが興行の本質であり、その時空を横から眺めるのがTV中継だったりインターネット中継だったりするのだ。
 競馬で容易に無観客レースが成立するのは、競争馬に見るとか見られるという意識がないからだ。サラブレッドたちにあるのはただ走ることのみ。競争相手や騎手のことは「感じて」いるだろうが、馬にとって観客はなきものと同じ。出走を告げるファンファーレのときに騒音を響かせるだけのハエみたいなものだ。レースをTVで見ていてもあまり違和感がないのはそのためではなかろうか。

 サッカーやプロ野球、歌舞伎や文楽が、新型コロナウィルスの感染拡大によって開催出来ない。未見で楽しみにしていた『新薄雪物語』も、脂が乗ってきた菊之助による『白浪五人男』も、通しで見て勉強し直そうと思っていた文楽の『義経千本桜』もすべて公演中止になった。海老蔵の團十郎襲名公演は延期になり、1200円で見られるというから会員になったシネコンは閉鎖されたままだ。
 ついこのあいだまで当たり前に見られていたものがすべて取り上げられてしまった。新型コロナウィルス恐るべしである。これまでもスポーツや演劇が開催出来ない危機は何度もあった。戦時中のことは知らないが、東日本大震災後興行界は危機的状況に陥った。けれども復興のために働く多くの人たちのおかげで、安心してスポーツ観戦が出来るようになり、映画や演劇も復活した。
 今回は違う。誰かが何かをしてくれるわけではない。待っていればやがて収束されるというものではない。自分がやらなければならない。他の誰でもない。自らの行動を制限して接触をこれまでの8割減にしないと新型コロナウィルスの感染は止まらない。止まらないとどうなるか。ずっと今のままだ。ずっとこの先、芝居は上演出来ない。文楽の人形は遣われることなく横たわったまま。野球場には誰も入ることが出来ない。それで良いわけないではないか。早く芝居が見たい。映画館に通いたい。スタジアムに行きたい。
 「今こそ思いやりを」「利他の精神でコロナウィルスに打ち勝て」云々。本当にそんなことが出来ると思っているのか。ほとんどの人が自分のことしか考えていないのだ。だから緊急事態宣言が全国に発出されたその週末に江ノ島が大渋滞し、戸越銀座に人が溢れ返るのだ。自分のことで精一杯の人たちがなぜ他人のことを思いやってなどいられるだろうか。
 しかし、このままでは、当たり前だった暮らしは戻って来ない。誰もが自分なりに取り戻したいものがあるはずだ。パチンコやりたい。カラオケで歌いたい。キャバクラに行きたい。宴会したい。USJでデートしたい。何でもいい。まず自分がやりたいことを思い浮かべるのだ。それは強く念じているだけでは戻って来ない。そうだ。外出するのをやめるんだ。外出しないことが、自分のしたいことが出来るようになる唯一の手段なのだ。8割減では足らない。絶対に外出しなければならない人たちがいるからだ。尊敬すべき医療従事者。大量の物資を運ぶ運送業の人たち。毎日品出ししながら生活必需品を販売してくれる小売業の従業員。電気・ガス・水道や交通機関など社会のインフラを支える人々。そうした人たちは出勤しなければならない。その人たちの分を減らす必要がある。8割ではなく9割。出来るならばそれ以上。引きこもっても良い。自分がやりたいことを取り戻すために。外出するのをやめよう。誰のためでもない。自分のために。

 蛇足だが、中央競馬の無観客開催は続けるべきである。中央競馬会の収入は他でもない勝馬投票券売上であり、100円の馬券を買うと10円が国庫納付金として国の一般財源に繰り入れられる。さらに中央競馬会が年度決算で利益を出した場合、その半分がさらに納付金に加えられる。言うまでもなく10万円給付金や事業者への持続化給付金などで国の財源は今後逼迫してくるだろう。JRAが収める納付金は畜産振興や社会福祉に充当されていて、レースを中止してしまうとこの金流が止まってしまうのだ。
 また一方で、100円の馬券収入のうち15円で、レースの賞金や手当、競馬開催費用、人件費が賄われる。レースに馬を出走させる厩舎はこの15円がないと立ち行かなくなる。厩舎が潰れるとあぶれるのは厩務員や騎手だけでない。馬たちも路頭に迷う。中央競馬に所属する現役競走馬は7800頭余り(※4)。すべての競走馬を馬肉にして食べてしまうのもなくはないが、出来ればサラブレッド本来の役割として競馬場でレースをさせてやりたい。馬のために使う税金などはないのだから、走ることが馬自身を救うことになる。
 もちろんそれは、安心して競馬関係者が集まってレースを開催できるようにしてくれている中央競馬の様々な人たちの尽力なくしてはあり得ない話。真に重要な仕事をする人は自らの働きを喧伝などしない。政治家たちとは大違いである。(き)


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(※1)三歳牡馬の皐月賞/東京優駿(日本ダービー)/菊花賞、三歳牝馬の桜花賞/優駿牝馬(オークス)の五レースのこと。

(※2)『魔太郎がくる!!』は藤子不二雄のマンガ。昭和四十七年から週刊少年チャンピオンに連載された。『ドカベン』『がきデカ』『ブラック・ジャック』などとともにチャンピオンの黄金期を支えた作品だった。

(※3)スポーツグラフィックナンバー999号「名将野村克也が遺したもの。」より引用。

(※4)農林水産省馬関係資料(2015年)現役競走馬登録頭数より。



posted by 冬の夢 at 23:25 | Comment(1) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする