2020年04月04日

日本という泥縄式システム (長い!)

 個人でも危機的状況になるとその人の本性が明らかになると言われているように、現在のような事実上のパンデミック状態に陥ると、国家レベルでもそれぞれのお国柄、社会文化的特徴が明らかにされるようで、こんな時勢に我ながら不謹慎(?)とは承知しつつも、極めて興味深く感じている。

 ニュースなどを通して伝え聞く限りでは、フランスの対応もドイツの対応も、イギリスの対応も、そしてアメリ合衆国の対応も、それぞれに印象的である。が、それらは所詮他所の国のこと、あまりわかった気になって話すこともできない。それに、何と言っても我らが日本国の対応が、単に自分の国というからだけではなく、真に興味深いものがあり、この数日、それこそコロナウイルスの悪夢に魘されながらも(根が小心者なので、いわゆるコロナ鬱どころの騒ぎでなく、胃は痛いし、肩こりは酷いし、仕事上のストレスも普段に輪をかけること甚だしいし、こんな調子では感染症に罹患する以前に健康を害しかねない……)、「日本という泥縄式システム」の功罪について思いを巡らしている。

 ずっと昔(二十代、いや十代後半?)から現代日本文化の最悪の欠点、欠陥は「非合理主義」「非理性主義」、否、単に「非」なだけではなく、半ば意図的に「反(アンチ)・理性主義」に認められると考えていた。つまり、日本の社会では理性的なものは疎んじられ、感性的なものが、さらには情緒的なもの(いわゆる浪花節的なもの)が好まれる。こちらの主張なり思いなりを何とか筋道立てて説明して、なるべく正しく伝えようと足りない頭を総動員して考えていると、「理屈っぽい」とか「くどい」の一言で斥けられてしまう。こちらとしてはできる限り論理的に話した方がお互いの時間と労力の節約になると信じているのに、相手の方は「端的に、簡単に言ってくれ」とか、「説明はいいから。早く結論を言え」とか、とにかくこちらの「くどい」説明が焦れったくてたまらないようだ。だから、もしも相手を説得しなければならないときは、理屈に頼るのではなく、情に訴える方がずっと賢明だと言われる。

 もちろん、情が理に勝るのは日本に限ったことではないのかもしれない。シーザーの亡骸を前にした古代ローマの市民たちが、理の人ブルータスの演説ではなく、情の人アントニーが行った、論理的正しさではなく感情に訴えた演説の方を信じたことは、シェイクスピアが鮮やかに描き出したとおりである。

 けれども、これは加藤周一のエッセイで読んだ話だが、東西冷戦の真っ只中に当時の日本社会党の政治家が核武装に邁進するフランスを訪れ、非核の必要性を訴えるために、フランスのジャーナリストたちを前に記者会見を開いた。加藤周一は日本側の通訳としてその場にいたわけだが、フランス人記者が「日本社会党が非核路線を取る理由、根拠は何か?」と質問したところ、「そんな当たり前の質問をするな!」と言わんばかりに顔を紅潮させた日本の政治家が「非核は日本の悲願です」と答え、通訳としてはその「悲願」の扱いに困り果てたらしい。

 加藤周一の解説によれば(これも遠い記憶に頼った話なので、眉に唾をして読んで下さい)、フランス人ジャーナリストとしては、非核政策に伴う、1)政治的メリット及び影響、2)社会経済的メリット及びその影響、3)文化的影響、などについて知りたかったにちがいないのに、当事者の口から聞けたことは「非核政策は唯一の被爆国である日本の悲願だ」とのこと。実際に加藤周一がどんな通訳をしたのかは、はたしてそこに書かれていたかどうかも今となっては記憶にないが、「どんな風に訳してみたところで、フランス人ジャーナリストには『悲願』で政策が決定されるなんていうことは理解不可能だったにちがいない」という旨の締めくくりであったように記憶には残っている。そして、現在のぼくもその加藤周一の結論にはひどく同意する。日本では政治も商売も情に訴えた方が賢明とされ、事実、情(実)によって政治も経済も運営されている。欧米から見れば、日本はとんだ未開社会であることだろう。

 ……
 以上のようにずっと思っていた。しかし、現在進行中の新感染症対策の混乱振りを目の当たりにしていると、日本社会、日本文化を特徴づける真の要因は、反理性主義、浪花節的仲間主義というよりも、これらの特徴よりももっとずっと根深いところで、つまりは「場当たり主義」「その場しのぎ主義」「出たとこ勝負主義」「なるようにしかならない主義」とでも名付けたくなるような傾向が明らかであるように思えてきた。

 先にも書いたことだけれど、日本政府の対コロナウイルス感染症対策は、まあ言ってみれば、滅茶苦茶だ。未曾有(自民党政権下でのこの熟語の「正しい」読みはミゾユウ!)の事態ゆえに、福島の原発事故のときと同じで、誰であっても右往左往するのが当然であるし、実際、イタリアを筆頭にヨーロッパの各国も相当に慌てふためいている。が、日本政府の滅茶苦茶振りは頭一つ分、胴体一つ分では効かないくらい抜きん出いている。文字通りに抜群だ。「各家庭に布マスク2枚」に至っては、このコロナウイルスの犠牲になってしまった志村けんも真っ青な、切れ味抜群のギャグだ。そして、感染者の数が急上昇しつつあるこの4月に、先に朝令暮改で閉鎖した小中学校を再開しようとすることも、そのちぐはぐさが何とも言えない。今では厚労省なんて見事に空気になっている。本当に恐ろしいほど使い物にならない行政府であると断言できる。

 しかし、問題は政府の無能さではなく、「これが日本だったんだ!」という再発見である。治療薬がない、そして致死率も定かではない感染症が明らかに拡大しつつあるときに、少なからずの日本人が花見や買い物を楽しみ、換気の悪い密室空間は危険だと再三言われても、それでもなおクラブやパチンコ屋通いを止めようとはしない。健全と言えば健全、脳天気と言えば脳天気、無責任と言えば無責任、ド阿呆と言えばド阿呆。しかし、どうやら彼ら(我ら?)は、深刻な危機に直面したときには、このやり方しか知らないのではないだろうか?

 事の良し悪しは別にして、今回のパンデミックに対して西欧諸国は「戦争メタフォー」を用いている。つまり、これは人類とウイルスとの戦いであり、たとえいかに強力かつ凶悪な敵であっても、人類は勝利を収める必要がある、そのためには云々、という次第だ。中でも印象的だったのは、フランス大統領が外出禁止を守らない国民に苛立つ様子と、イギリス首相が普段の彼とは見違えるほどに真面目かつ深刻な様子で国民向けに厳粛な演説をしたことだ。両者とも正に戦時緊急事態のような対応だった。特にジョンソンのTV演説は、アジャンクールの戦いを前にしたヘンリー5世の有名な演説(といっても、これもまたシェイクスピア経由で知っているだけだが)を思い出させるほどのものだった。(個人的には、あのイギリスの道化を少し見直した。アメリカの道化とは知能程度が少々違うようだ。)

 一方、我らが日本では、この感染症に対して用いられている比喩の基本は台風とか地震に代表される自然災害だ。それで途端に腑に落ちた。日本では台風と地震こそが危機の雛型であって、戦争でさえもが一種の自然災害のように受け止められたのではなかっただろうか! 少なからずの日本人が、半ば無意識的に、原発事故を政策上の、管理運営上の痛恨のミスとは思わずに、これまた一種の自然災害として受け止めていることは言うまでもない。「仕方ないよね、仕方なかったよね。過ぎたことだから、アレコレ言ってもしようがないし」と。

 深刻な危機が台風や地震のバリエーションとして理解されるのであれば、危機管理の方策は最初から決まっている。基本的には「過ぎ去るのを大人しく待つ」に限る。そして、台風も地震もこの島国にあっては頻繁に来襲し、誰もがすっかり馴染みになっているとはいえ、事が実際に起きてしまうまでは、本当の被害の大きさは誰にも見当がつかない。それで、いつも「後の祭り」が繰り返されるわけだ。そして、大災害が実際に起きてしまえば、その最中はただじっと堪え忍ぶことしかできず、過ぎ去った後は手近なところから、各自が思いつくまま、ほぼ自発的に、ほとんど手作業のような(そういえば、かつて東海村の原発で汚染水が溢れるという、当時としては――つまり、福島の超メガトン級事故が起きる以前では――かなり深刻な事故が発生したとき、その放射能汚染水を手作業で柄杓とバケツで掬うという、凄いこともありました!)復興作業を粛々と、あるいは快活に始めるだけだ。あー、きっとこうやってあの悲惨な戦争も堪え忍んできたわけだろうし、現在の対ウイルス「戦争」も堪え忍ぶだけなんだろう……

 けれども、この「場当たり主義」、実際に事が起きるまでは何もせず、事が起きてからは、まるで卑弥呼のお祓いのような対策(マスク2枚も本当に凄いけど、福島の原発事故で深刻な水漏れが止まらなかったときに、おにぎりと大鋸屑を使って漏水を止めようとしたというのにも大いに驚愕した)を採るという、奇抜とさえ言えそうなこの著しく奇妙で不思議な習性――これが意外にもこの国と社会を支えているような気さえしてきた。少なくとも事実として、この国はこうやって今日まで生きながらえてきたわけだし。

 コロナ禍に苦しむ欧米からは「日本パラドクス」とも言われているらしいが、なぜ日本はこんなに無策な政府が指導しているにもかかわらず新感染症の被害が少ないのか? 数の隠蔽工作かもしれないし、検査数の少なさのせいかもしれないし、単に時機がずれているだけかもしれないが、市民一人一人が勝手に、それぞれに、出来るところから(たとえそれが半ば迷信のような馬鹿げたことであったとしても)「B29に竹槍で立ち向かう」と揶揄されようとも、真摯に健気に、あるいはいい加減に、各々独自の対策を実践していることも多少は関係しているのではなかろうか……

 いずれにしても、一方ではほとんど全ての社交を断念し、仕方なく外出するときにはお手製のマスクを装着し、知人と道で出会っても言葉も交わさずに自宅に戻ってからSNSで連絡を取るといった、出来る限りの「自粛」を推進する人々がいて、他方にはいまだに夜ごと遊び呆け、花見も楽しみ、往来でマスクもつけずに大声で喚いている人々がいる、この現在の混乱、これこそが日本文化のDNAのような気がしてならない。それがイヤだとなると、選択肢としては戦時中のような強権による圧政か、あるいは幕末の「ええじゃないか」的狂騒しか残されてないのではなかろうか。天然痘が恐れられていた江戸時代の市中でも、感染拡大時には家の中にひっそりと閉じこもっている人々がいた一方、桜吹雪の中で浮かれ、そればかりか吉原や岡場所での遊びを止め(られ)ない人々が少なからずいたことだろう。そして庶民はいつの世も「お上」には何の期待もしてこなったのだろう。お上のすることは税の召し上げと、泥縄式の対策。そして、庶民の多くは、そんな無能なお上に対して嘲笑はするものの、それ以上の反抗を示すことはまずない。そして、こう呟く、「なるようにしかならない」。かつてない、ということは、少なくとも自分では体験していない、そのような危機を想像する能力が、おそらく日本文化には決定的に欠けているのだろう。だから、日本神話は天国も地獄も十分に描き出すことができなかった。(というか、その必要を感じなかったと言う方が正確かもしれない。)欧米社会は、起こり得べき禍々しい可能性をアレコレと想像し、真剣に怯えている。一方、この国では……

 願わくば、このパンデミックが超強力台風のように、じっと我慢していれば、相当な被害は引き起こすにしても、ともかく過ぎ去ってくれる、このいかにもあり得なさそうなシナリオが実現するか、あるいは、かつての神風のように、内外の研究者たちが特効薬を開発してくれるか、つまりは、日本型泥縄式システムで持ち堪えられますように! そんなことにでもならない限りは、先の大震災を凌駕するとてつもない事態(単に疾病による被害だけではなく、その後の社会経済的被害も甚大なものになるだろう)が出来してしまうのではないかと、心底恐れている。(H.H.)

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(本文とは無関係です;何もないと寂しいかと思って……)
posted by 冬の夢 at 14:14 | Comment(2) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする